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京極藩 多度津分家の大門
似ているけど、かなり違っているようにも思う。記憶とは不思議なもので、長い人生の間に同じようなものを見た場合には、故意に比較検討を心懸けない限り、前の記憶が新しいものと置き変わったり、2つの記憶が合成されて、最初の記憶が不確実なものになっていくことがあるようだ。比較的簡単な筈の此の絵が、その後に見た各地の城門とオーバーラップして、細部に対する確実さが薄れ、結果として一番無責任な出来ばえになったように思う。(視覚記憶)
門を入って左側の家に夭逝したあの宮井の良ちゃんが住んでいたので、低学年の頃には、よく遊びに行った。邸内には大きな松があり、仲間達からおだてられると、そのテッペンまで登って得意になったものである。怒られても当然なのに、優しい宮井君のお母さんは、あきれ顔で笑っておられた。今考えると、将に、冷汗ものである。近くには「室」の水道タンクが見えていたが、最初のものは、この絵のような簡単なものだった。
この付近には同級生が多く、走って4,5分の所に、四宮、山本、福本、高橋、森、関、村井、竹下、末谷、葉師寺、その先の堀江には2人の塩田、2人の潮野、西本の諸兄がいて、それぞれに楽しい仲間だった。「席を同じく出来なかった時代」で、女子とは親しく遊ぶ習慣がなかったことは、今も大変残念なことに思えるが、滝野、草薙、稲垣、庭村、落合、新開さん達のお家もこの近くにあった。書道の○川センセ、5年、6年と女子組を担任なさった小林センセ、一年、二年生の時の恩師西山センセも家中の人だった。
町内の主だった道路にアスファルトが敷かれ始めたのは、確か、3年生になった頃で、それ迄は、国道も県道も土の道だったので、人通りの少ない道には草が生えていたのも当然である。