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  こんな絵は今まで見たこともないし、書いたこともない。同級生えのメッセージとしては面白い試みだと思う。私達の学年の遠い昔の学習の軌跡なのである。殊更リアルにかいてあるのは、小さな一字一字に到るまで、確固たる記憶?の裏付けがあるつもりで、見れば見る程思い出に連なるように工夫してある。

 一年は書き方。細長い、いゝ格好のお手本だった。書き方は2学期なって始ったと思うが、薄い縞模様のでる石で作ってあった硯で「虎硯」と呼ばれていた。墨の名前も如何にもあの時代を象徴するものだった。誰が最初に始めたのか、「ネバリ草」を入れて墨をすることが流行した。「ノメクタ」はお手本の第一頁だった。

 二年は九九。日本人全体がその恩恵を受け、小学教育の中で最も効用のある学習だった。三年は国語。巻三は確かだが、第十二は考えていると、段々怪しくなるので責任は持てそうにない。国定教科書は、新しい漢字は皆、上の欄に出ていた。四年生になると理科が加わり、理科室へ行って授業を受けられた。その最初が櫻の花であった。理科のノートは図のような形式で、どの頁にも絵を書くわけではなかったので、もったいないような気がした。図画の”紙風船”は水彩画だったので、五年の間違いかもしれない。当時の美術教育は模写することが嫌われ始めていたので、手本を見て書くことは稀だっtが、この絵だけは、どのクラスも模写を試みたようだった。水彩画の出発点のようなアカデミックな絵だったので、先生達にも好まれたのであろう。

 五年になると地・歴が始まった。地図を書くのは得意だったし、鉄道ペンを使うのは面白かった。不思議なもので、他の地方も同じように学習した筈なのに、奥羽、関東、四国の地図だけは、何も見ないでこの程度に書けるようになっていた。六年になると中学受験の為、”準備”と云う課外授業が始まった。空色のあの参考書は、やはり、やりがいがあった。どう云うわけか、問1・問2は鮮明に思い出される。書き取りのテストは四年生の時のもの。「幼」以外は今では見られなくなってしまった。最も一般的な鉛筆は東郷鉛筆であった。

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