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西門は一番利用される通用門だった。桜川沿いの小径に出ると、干潮の時は独特な臭いのする川底が露出して、真黒の泥の上を「かに」がはいまわりよった。幼稚園のドブ川に赤爪が、桜川には本爪がいた。
真直ぐいくと10区・11区へ。豊津橋を渡ると2区・3区へと通じた。橋のたもとの「オモトハンの店」には駄菓子の他、パッチン、鉄のゴマ、凧、ラムネ玉等々があったきん、子供達にとっては、凄く「オモッショイ」店やった。
手前が授産所、その横に町内では珍しい公衆便所があったが利用した覚えはない。
「絵の選手」と云うのがあって、放課後、一枚2銭の四つ切画用紙に与えられたテーマをかいて、福井先生の批評を仰いだ。運動場を取りまく「ドブ溝」は縷々スケッチをした記憶がある。多分、遠近法を表現する格好のモチーフやったんやと思う。懐かしい風景を思い浮かべていると川底の臭までが蘇って来るような気がする。公害という言葉もない時代やった。ほやけど、「チフス」が流行るからと云って夏には「蠅取りデー」と云うのがあって、親ぐるみで数を競うのもオッタナー。