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駅から港まで箱型の定期バスがあった。“何チュタッテ”瀬戸内交通の要衝。多度津の港は花咲く港やったんやけん。金比羅詣の軍艦も停泊。「夕張」とか「愛宕」とか----。駆逐艦や一等巡洋艦は男の子にとっては物凄く「カッコエエもん」やった。
大阪商船の大信丸と大知丸が常時寄港して、二等も三等も桟敷みたいなごろ寝の船室やった。「ゲンシャ」の人は二等に乗った。大阪に着くまでまるまる一晩かかったんやきん、ほんまに遠かったんやなあ。尾道航路や笠岡航路ちゅうのがあって、コンマイ「ポンポン船」で”向い地”へ渡ったもんや。高見や佐柳にはまだ電気ものうて、豆茶とお粥を食べよったがな。魚はホンマに美味かった。鯛網へ行って鞆で食べたあの鯛は天下一品。「ナゴヤフグ」も美味かったし、沖の瀬まで出ると、よう釣れた。9月がくると獲れ始める新子の「エビジャコ」も忘れられへん。世界中、どこえ行っても無かったような味やった。
フェリーもあるというし、埋立もようけ出来て、港も全々変わってしもうたんやろうけど、もう40年も見いへんので、眼をつむると脳裏に浮かんで来るのはあの頃の港や町並みしかない。記憶の正確さには責任をもてへんけど、子供の頃の思い出はいつまでも鮮明なものやと考えながら、絵と云うより思い出の景色を楽しんだ。
昭和30年頃の多度津港
桃陵公園「一太郎やあい」から眺めた現在の多度津港