少女性たっぷりの妄想物語。髪を他人にいじられ、洗われ、乾かされることの恍惚感は男女共通だろうけど、男の場合はこういう想像の展開はしないように思う。むしろ目の前の(というか頭の上の)きれいな女性をまんなかにすえて、もっとリアルで身も蓋もない妄想(性的な、という意味じゃないです)に走るような気がする。
ともあれ、現実から遊離していく過程の描き方が感覚的にしっくりくるし、読んで楽しい小品。(1998.8.17)
おばあちゃんは好きな人にふられてしかたなくおじいちゃんと結婚した‥‥
子供のころに聞いたこの一言がもとで「生涯一人のひととしか付き合わない」とかたくなに思いこんだ中学生の少女と、少女に思いを打ち明けた少年。二人の思いこみとすれちがいをもとに展開したラブコメ。
ラブコメだしハッピーエンドなんだけど、中学生のころつきあってた人と結婚する現実の可能性を頭において読み返したとき、これはけっこう痛い物語でもある。みんなそうやって大きくなる、なんて分別くさいことなど言いたくないけど。
二人をとりもつわき役の少女がいい。こういうキャラクター、好きです。(1998.8.17)
職場が同じ男女の恋愛譚。男のほうの思いこみと明るい単純さがほほえましい。ほとんどかわいいと言っていいくらい。女の策士ぶりとの描きわけもうまい。
紺野キタのまんがに出てくる男性はだいたいこどものまんまの人が多いけど、この男なんてその典型じゃないかな。母親−息子タイプの恋愛としても典型だし。(1998.8.17)
ファンタジー、なのです。ピアノを教える年老いた女性と庭の花の精、ピアノを習いにきている少年。
舞台装置も物語も珍しいものではないけど、素材で読ませるまんがではなく、料理法の確かさで読ませるまんが。だから、これでいいのである。
何回読んでもラストで「朧月夜」を口ずさんでしまう。気持ちがいい。(1998.8.17)
度し難く子供のまんまである父親をもった子供は、その特質ゆえに父親と世間とのあいだに起きる軋轢と、父親に対する親愛の上との間で煩悶することになる。
いくら子供みたいといったって、子供ほっぽり出してあっちこっち旅行するのはなあ。などと第三者的な意見を吐けないのが子供の立場。子供もまた父親の血をひいている以上、父親のそういう生き方がとてもよくわかるから。
紺野キタの同人短編のうち、ベストはこれです。多分に個人的な理由により。(1998.8.17)
いちおう完結、だけど未完。とりあえずゆっくり眺めながら、説明されなかった部分に思いを馳せるのがよいかと。(1998.8.17)
兄弟を含めて、他人と手を取り合うことが会得できていない‥という悩みをどこかで抱えている人はたくさんいると思う。特に、子供のころ「いい子」であった人たちの中に。
そういう女性を主人公にした一編。読んでてけっこう痛い所を突かれます。
肥大した自意識の解消、それから慣れ。基本的にはそうやって時間が解決していくことがらなんだろうとは思う。(1998.8.17)
説明のなさ、説明では伝えられないもの。とてもよいです。それしか言えない。読むべし。(1998.8.17)
女の子であったことがなかった世の男には、たぶんわからん類の話。
頭であれこれ考えることはできても、皮膚感覚としては伝わってこないような、にもかかわらずその皮膚感覚を知りたくてしょうがないような、そんなまんが。
そのへんの女性つかまえて、読ませて感想聞いてみようかな。(1998.8.17)
好きなものには縁がないから、好きになったら不幸せにしてしまうから、だから好きにならない。そんな心の傷を負った女性と、女性にこっちを向いてもらおうとする男性をたんねんに描いた力作。
少し薄い−ベタを完全に塗ってない−コマを使っての、現実と回想のシンクロのさせ方がおもしろい。惜しむらくはラスト前、女性の心が溶けていくあたりの描き方にもうひとひねり欲しい気がする。積年の傷が癒されるには少しあっさりしていると思うのは、当方がひねくれてるせいか。
でも、いいまんがです。素直なまんが、素直に読むべし。(1998.8.17)
前作(8ビット小劇場)の3話目の続き。テーマは雨上がり。高校生ってあほなんです、という話でもある。
表紙を見た瞬間に表紙裏のオチが見えて、開けたらそのまんまだったのは可笑しかった。そうきたらそうくるわな、やっぱり。(1998.8.17)
なんというか、正統派少年まんが。女の子かわいいし、描線素直だし。
この人、たぶん現時点では、少年漫画のちんたらした展開の連載がいちばん持ち味出るような気がする。かつてのゆうきまさみやあさりよしとおがそうだったように。(1998.8.17)
中坊神経。確かにそういうものは存在する。未だに「おこめ券」という看板が気になるおれは、中坊神経が残ってるんだろうか。やだなあ。
そんなことはどうでもいいが、これはバカまんがの会心作。不必要に過剰な描きこみ、どうでもよく力の入った展開、しょうもないおち。非の打ちどころのないくだらないまんが。すばらしい。
作者は篠房六郎名義で四季大賞を受賞した人。こういうのも描ける人なんだなあ。すばらしい。(1998.8.17)
かわいい女の子が活躍する、かわいい絵柄のスペオペ活劇。
とにかく作画の丁寧さは特筆もので、そのまま商業誌に載せても全く違和感のない出来。しかもうまい、というか達者。まんが本編はもちろん、淡めの色できれいに塗ったカラー表紙もとてもよい。
宇宙ステーションでの詐欺商法をお題にしたストーリーもよくまとまっていて、水準は十分クリアしている。このジャンルのまんがとしてはまずは文句のない出来で、横山えいじあたりが好きな人なら迷わずおすすめ。(1998.9.3)
無気力高校生が同級生の不思議少女に惹かれ少しずつ変わっていく‥というおはなし。1から続いて3に続いている。
設定もわりとそうだけど、絵柄がかなり冬目景に似ている。正直、このまんがに感じる魅力の半分近くは「冬目景のまんがみたい」ということなんだけど、のこり半分であるところの力のある描線やダイナミックな構図は、単なる冬目景の模倣者に終わらないだけの可能性を感じさせる。
これからどういう絵でどういうまんがを描いていくのか。しばらく追いかけてみたい。(1998.9.3)
こちらは少女(高校生くらい)の亡き父への思いを、ラムネのガラス玉を小道具に綴ってみせた掌編。オリジナリティあふれるというわけではないけど、よくまとまっている。細かいことを言えば、ラスト前2ページ上段、主人公のアップがないほうがもっとよかったような気もする。でもけっこう気に入ってます。(1998.9.3)
トラックにはねられて死んだ少女。裁判の結果地獄行きとなり乗り込んだバス。バスの中では死者同士が殺し合い、ニワトリを殺して食った少女も、運転手であるネコによって三途の河に落とされる。河に脚を切断された少女は、バスに乗る前に与えられた装置で生前の記憶をたどるが、その救いのなさに失望して死んでいく‥
死語の世界でもう一度死んでいく悲惨さを、妙な救いなど用意せずにそのまま描いたまんが。カケアミと過剰な描きこみで描かれたやや偏執的な絵も物語によく合っている。もうすこし絵が安定すれば言うことなし。(1998.9.3)
同じように好きになって、同じように好きあって。でも自分と相手の温度の違い。心底のめり込む人間と、どこか醒めた眼を残してしまう人間と。
そのどこか醒めた部分を「体温の冷たさ」と表現した、たぶん作者自身のこころの記録としてのまんが。相手がどれだけ好きであっても、恋愛感情が決して至上のものではない、至上のものたりえない、そういう人もいるということ。素直にこのまんがを読めた人も含めて。(1998.9.3)
珍しい左開きの同人誌。新聞4コマに感じの似た絵で描かれたロボットまんが。というかロボットをめぐる人間たちの思惑まんが。
設定がなかなか独創的。ヒエログリフ(象形文字)で書かれたプログラムで動くロボットという発想はぶっとんでるし、先の長そうな物語はけっこう引き込まれる。ロボットが生体っぽいのはエヴァの影響かな。(1998.9.15)
自動販売機の中に人がいる‥というか自動販売機の中に1日入ってバイトする男の話。似たような発想はどこかで見たことあるけど、説明なしに描くだけ描いてあとは知らんぷりという筆致がかなりおかしい。しわしわ千円札で買おうとする客とのやりとりも笑える。痛快作。(1998.9.15)
彼女に振られた腹いせに購入したドール(性目的の生体ロボットとでもいうべきか)に次第にのめりこむ男の話。SF仕立ての恋愛もの。
振られたと思っていた彼女が、実は男の気を引くために振ったふりをしただけだったとわかってもなお、1年で活動停止すると知らされているドールにのめりこむ。活動停止し回収され、再び店頭で売られているドールを求めてさまようラスト。自分の記憶などないことは知っているのに。業というとかっこいいけど、男のどうしようもなさでもある。
読みごたえ十分、絵もうまい。続編があるらしいけど読むのが少し怖い。これで十分完結しているだけに。(1998.9.15)
誌名の最初の文字はOウムラウト。「エクメネ」と読みます。
チョコレート工場でバイトしている劇団員の亜貴。ささいなことからつきあっている道彦とけんかしている。その二人の様子を端末で観察し、心配する周防とユキ。その周防の体も日に日に弱っていく‥
この物語はわかりにくい。状況説明が一切省かれており、作者が「わかってもらおうとしていない」だけに、宿命的にわかりにくい。そのわかりにくさをこらえつつ繰り返し読んでいて、17ページのこのまんがに無駄なコマが1つもないことに気づく。完璧じゃん、これ。
さらにラストを繰り返し読むこと十数回、はたと膝を打つ。そういうことだったのか。
自分の見つけた「そういうこと」が普遍性のある解釈かどうかは知らない。いろんな解釈がありえるようにも思う。だけど、もしかするとこれ、すごいまんがかもしれない。(1998.9.15)
紅茶羊羹のプロットで夙川夏樹が、平野俊幸のプロットで紅茶羊羹が、夙川夏樹のプロットで平野俊幸が描いた短編3つ。別の人のプロットで描いたまんががはたして「その人のまんが」であるかという実験。
平野俊幸は初めて読んだのでなんとも言えないけど、個人的にはあとのふたりのまんがはどっちも「その人のまんが」に見える。といってもまんがは絵だ、というのではなく、用意したプロットがわりと「その人のまんが」らしいプロットだったということじゃないかと思う。
同じメンバーで同じプロットで、作画担当だけ交換してもう一度描いてみるとどうなるか、かなり興味をそそられるところ。やってくんないかな。無理かな。(1998.11.15)
狂った少年の狂った物語。そこにあるのは弾けるような狂気ではなく、冷え冷えとした狂気。無造作に人を殺し、みずからも殺し、それを苦笑しながら眺める。そういうまんが。
狂ってる、と顔をしかめる人は間違っている。彼らはいたって正気なのだ。だからこわい。そのこわさを終始おなじトーンで描いてみせた腕前はおみごと。(1998.11.15)
かわいい女の子になることに焦がれる飼い犬。お百度踏んで念願かないはしゃいでまわるけど、飼い犬がいなくなった飼い主が自分を探して回っていることに気づいて。
飼い主に向かい「わたしが飼い犬」と宣言して遁走する後ろ姿、告げたはいいが、はてどうやって犬に戻ろうかと悩む姿がとてもほほえましい。あれこれややこしいこと考えずに楽しく読める一作。(1998.11.15)
数十年後の未来、あいもかわらず同人三昧に明け暮れる老人たちを描いた連作短編集。どうしてこういうこと考えつくかね。
30年後に同人誌即売会があるか、紙媒体での同人誌があるか、いや、そもそもまんががあるかわからないけど、ここに出てくるじいさんばあさんは楽しげで、だから魅力的でもある。
こういう人たちが60になってもまんが描いてるなら、おれも60になってもまんが読んでいたいなあ。60になるってどんな気分なのか想像つかないけど。あんがい今とあまり変わってない気もするし。もしほんとにそういう60になれたら、けっこうシアワセなんじゃないかと思うし。(1998.11.15)
2冊の本でどちらも単独の物語だけど、設定の上では続きもの。舞台は中世ヨーロッパ。
「医学生の夜」は学問と信仰のはざまで悩むひとりの医学生が主人公で、その主人公が外科医になってからこんどは医学と魔術(というか魔女への想い)のはざまで悩むのが「外科医と魔女」。非常に乱暴な紹介のしかただけど、同人誌のまんがとしてだけでなく商業まんがを含めても、かなり異色のジャンルを取り扱っている。ではあるけれど、主人公の心の動きをていねいに追った描写も、起承転結のしっかりした筋立ても、物語としてはきわめて正攻法と言えると思う。
その物語を支える絵は、全体にグレーがかった印象を与える、まんがではあまり見ないたぐいの絵で、どちらかというと絵本の挿し絵なんかで見そうである。個性的と言えば言えるのだけどそれはまんがとして見た場合で、絵として見たときはむしろこっちのほうが普通なのかもしれない。
乱暴ついでにまとめてしまうと、質の高いまっとうなまんがなのである。それゆえに同人誌としてはかえって読み手を選んでしまうかもしれないけど。描きたいものを描いている、というこころざしを感じる。(1998.11.15)
このまんがを言葉で説明することはできない。説明しようと言葉を連ねることはできるし、その結果を他の人に読んでもらうこともできるけど、読んだ人が想像するであろうまんがの内容は、このまんがとは違う。このまんがと違うだけではなく、読んだ人それぞれによって想像する内容が違う。このまんがを読んで受け取るものも、まんがを読んだ人によって違う。そのどれもが作意と完全に一致することはない。まんがを理解することが作意を理解することならば、このまんがを完全に理解することはできない。
それでも、このまんがを読んだものはなにがしかのものを受け取る。作者の作り出したまんがを、読者がおのれのまんがとして理解する。作られたものと理解されたものは違うけど、何かが伝わることに変わりはない。そして作者のまんがも読者のまんがもともに不変のものではない。
10代のころ強固に自分を覆っていた自意識は、20代にゆっくりとやわらいでいった。決してなくなりはしないけど、以前ほど苦しむことはない。それが成長なのか堕落なのかはわからない。楽になった。
このまんがはそういう自分の経験と共振して、深い印象を与える。受けた印象が作意と完全に一致することはおそらくない。でも読むことによって得られたものがあるのなら、それでいいのだと思う。それですべてがいいのだとは思わない。でもそれでいいのだと思う。(1998.12.30)
なんとも当たり前のタイトルで、結局渡せませんでしたというストーリーもよくある。じゃあなにが違うのかというとそれはもうすっとぼけた会話の妙としかいいようがなくて、好物だからチョコではなくえびせんべいを渡せなどとあれこれ指南する黒幕少女がよい。ばかばかしくってまことに楽しい掌編。(1999.5.2)
全くもってこうの史代のまんがでありながら、いままでのこうの史代のまんがとは全く違うまんが。まんがであり、絵本であり詩でありラブレターであり。肩の力が抜けたときに人はいちばん能力を発揮するという、そういう類の作品。傑作です。(1999.5.2)
同時2冊発行なので、同時2冊感想。
「コンビニエンス」はビンボーカップルが腹をすかしてコンビニでビンボー食料を買って帰るという話。それだけ。学生時代、800円で5日間過ごさないといけなくなって、カップめん5つ買ったあげく3日目に果てたのを思いだした。小麦粉がいいらしいです。
「TRUMPERY」は何をするのもユーウツで、かつ何もしないのもユーウツな1日の(途中までの)話。かったるい日はなんだかもう全然だめなんだよなあ。なんとなく。
どうってことないある日をさらりと描いた2冊。このひと、こういうの上手いなあ。(1999.5.2)
筆で書かれたおはなし。ファンタジーの体裁を取った、子供の喪失体験を描いたまんがで、黒田硫黄の影響を色濃く受けながら、黒田硫黄にはない素直なリリカルさが心地よい。もちろん黒田硫黄のひねくれ具合はよいのだけど、それはそれこれはこれ。(1999.5.2)
嫌悪感を誘う絵で描かれた、グロテスクでふざけたまんが。あえて探せば初期高橋葉介に似ていなくもないが、その内容の無意味さにおいて高橋葉介をはるかに凌駕する。
こんなもん喜んで読む人は少ないと思うし、商業誌にはまあ載らないと思うけど、たいへんな才能である。気持ち悪いまんがを気持ち悪いという理由で遠ざけない人なら、すみやかに読むべし。
巻中に作者が1998年に読んだまんがベスト10が載っていた。曰く、天狗党(硫黄)、レッドカード(島本)、反町くん(有川)、朱雀門(花輪)、弥次喜多(しりあがり)、うずまき(伊藤)、蠢動(園山)、COJI−COJI(ももこ)、J(余湖+田畑)、青春の尻尾(平野仁+小池一夫)。最後のは1977作品だとか。(1999.5.2)