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茶碗の構造
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| 材料と道具 釉薬の試み |
「楽焼」について 楽焼は焼物の中で、最も簡単に最も容易に出来る陶器と思ってさしつかえないでしょう。もともと楽焼は、茶の湯によって、茶の湯のために生み出され、茶の湯とともに発達した、茶の湯専用の陶器といえます。楽焼は、日本で生まれ、世界に類のない日本独特の「やきもの」と言うことができます。今から三百数十年前、当時の茶聖「千宗易(利休)」の指導により、帰化人で瓦職人であった阿米也が、今日に伝わる楽焼の技法をつくりだしたといわれています。阿米也を始祖として、楽焼初代は長次郎(唐人・阿米也の子と伝えられている。長次郎・朝次郎ともいう。)と言いました。彼は、後に利休からそ
楽焼は、一個一個、掌と、指頭と竹へら、金属へら等によって作られるもので、一度に大量を焼くことなく少数ずつ窯に入れて焼き上げるものです。そのために、如何に技神に入ると言われる名人上手であっても、一つとして同じ物は焼けず、ひとつひとつの茶碗に、それぞれ個性なり特色なり、違った持ち味を具有したものが焼きあがってきます。ここで初めて楽焼の面白さと楽しさと、そしてそのむずかしさがつくづくと感ぜられるところです。和敬静寂の茶の湯の精神に適うべき出来ばえ、すなわち、「わび」、「さび」、「渋味」、さらにまた稚拙な無作為な中に、ふくよかな温かさ、丸みをおびた和やかな安らぎ、安定感ある落ち着いた姿、これらの件々を具備した作品が焼き上がった時の悦び、これは体験した者のみが知る嬉しさで、口やペンでは到底表現出来ることではありません。楽焼は、だれが作っても、一個の芸術作品として観賞され、また、茶の湯に使用されるべきものであります。 樂茶碗は、茶聖「利休」の指導の下で名工長次郎によって、創製された茶の湯専用の陶器であることは、前述のとおりでありますが、それ以前にあっては、専ら中国や高麗(朝鮮)から伝来の茶碗および国焼き茶碗の一部が利用されていたのであります。シナ、朝鮮の陶工は、通常の飯碗または汁椀として、つまり日用雑器としての目的のために製作したものと思われます。これがひとたび、日本国内に持ち込まれると、これらの焼物の持ち味、すなわち「よさ」と言うものが日本の茶人によって見出され、高く評価されて、茶器としてもちいられたもので、そもそも点茶を目的として作られたものではないのであります。これに対し、樂茶碗は、そうした転用茶碗の不備な点に改善と工夫を加え、あくまで茶を点てるか、茶を喫するかの一目的だけに留意されて生まれた焼物であるということを、先ずしっかりと頭にいれておいて頂かねばなりません。茶味は、樂茶碗によって悟得せられ、樂茶碗を充分に知ることによって、茶趣は味得できるということがいえるとおもいます。 「一樂、ニ萩、三唐津」あるいは「一井戸、ニ樂」等のことばがあります。これは「茶の湯」の茶碗としての適応性を表現した言葉だと思量いたします。上述のことばそのものは、陳腐ではありますが、「茶の湯」の茶碗としての楽茶碗の揺ぎなき地位を物語っているものであるといえましょう。一個の樂茶碗を手にして、このよさを知ることは、日本人の深遠なる情操を知り高い文化と深い教養を理解することにつながると思います。 以上で樂茶碗の大略を窺知せられたことと存じます。 樂茶碗の構造 樂茶碗は、形の上では、両手に受ける頃合の大きさ、適度の量感をもたせることが大切です。肉付きが形の大きさに対して、薄きに過ぎると浮ついた調子に流れ、肉付きが厚きに過ぎると見た目にもヤボな感じになる。 適度な大きさに対応し、相応しい肉付きをもたせて、初めて快い量感が生まれ、悠久な静けさと、淑やかな壮重感が喫茶の都度、我々の神経を優しくつくろってくれるのであります。
部分別にみていきますと、先ず「口造」があります。楽茶碗の口は、相当の肉を持たせてあります。これは、目に柔らか味を、心に温か味を伝え豊かに落ち着いた感を与えてくれます。「口造」は、茶碗の表玄関とも言える部分であります。 樂茶碗は、点茶との色々の条件が約束されて、生まれ出たものであることは前述の通りであります。その一つに、「口造(口縁)」に「山道(五岳又は五峰)」あるいは「五山」と言って、高低がみられます。これは茶碗の縁へ茶杓、茶筅をのせかける際の転落を防ぐとともに、縁の単調さを救わんがための美意識を兼ねた周到なデザインと言うべきであります。 「胴」は、「腰」から「口造」までの縦の線であります。「胴」は、割合に垂直のもの、中央部がややふくらみ気味のもの、または反対に締めた感じを持たせたもの、或いは「腰」の部分より「口縁」の幾分締まったものに造るなど、平坦に陥る欠点を防ぎ、両手に持った時、指の当りを考慮して安全感を、そして見た目にどっしりした静かに落ち着いた壮重感を強調します。 茶碗の内部「見込」、「茶溜」はゆるやかな丸味を持たせて、広々とした感じに造られています。「見込」を広くして、点茶の際、茶筅の運動を容易ならしめ、ここへ汲み込まれた茶がポッソリと行儀良く納まり、飲み干した茶の余滴が自然とここに流結して、飲みじまいの醜穢を削除するところに、茶溜の生命が存するのであります。 底の部分を見てみましょう。「茶の湯」には、茶を点て、手に持ち茶を啜る、さらに、それを拝見するという段階があります。従って製作者にとって、底は、他の部分と同様に充分に意を用いねばならぬ部分といえます。 「高台(糸尻)」は、「脇取」を含めて、茶碗全体のまとまり場所とも言うべき所であります。「高台」自体は、目障りにならぬ様、つつましやかで、力強く悠久性と安定感をあらわすように充分に盛り上がらせ、単調になりがちな広い「高台脇」を、「高台内」の「巴」とか「渦」と言った様に箆目の技巧によっておぎないます。このように、外面から見られても決して、まずしさを感じさせることのないように、たしなみを持たせることが大切です。 最後に、茶碗の色ですが、これは茶の泡の「緑」と調和する色でなければならぬことは申すまでもありません。その意味で、何と言っても黒が一番で、次で赤、飴色、白、黄等ではないかと思います。黒が理想的に焼き上がった場合、しっとりと沈んだ黒、冷えた枯れた黒、侘び煤けた黒とさまざまな黒の様相がでてまいります。さらに、そうした色調の中にも、注意して見ると、肌に幕状を呈したり、あるいはまた、釉が流れたり、中には一部分めくれた部分が出来たり、殊更漆黒に光る部分があったりして、一種の景色を具現します。これらの景色も、別の色をもって、描き出したものでなく、窯内の火度に依って生じた地模様であるために、ケバついた騒がしさを少しも感じさせないのであります。黒茶碗のよさの所以であります。 なお、樂茶碗は、内部の構造、製作に使用する胎土等に依って熱の伝導、発散を防止する過不足のない様留意されています。
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