早いもので今年もあと2週間余り。
大晦日には紅白歌合戦を観る人もいると思う。
その紅白に僕の中学校の後輩が出る。今回で3回目の出場、
もうテレビ等でよく出ているので知っている人もいると思うけれど
『スーパーフライ』越智志帆だ。
娘より若い34歳、歌唱力抜群の彼女を注目してもらいつつ
紅白を楽しみつつ よい年越しを。
今年はめったに投稿しない僕がトリになるのかな?
499)石井さんと対面 投稿者:SHOU−JI−ROU 投稿日:18年12月9日(日)21時44分
地元で2回ほど石井Kakukoさんとお会いしました。十数年ぶりです。
一つ目は福岡を拠点に国内外の作家とアート交流活動を展開しているアーティストグループStudioNEXUS(スタジオネクサク)の作家と釜山で活躍しているアートユニット集団及びGachiartグループの日韓現代美術作家による交流ですが、この中で石井さんは知り合いの酢蔵を利用して三日間、自分の作品を展示していました。
二つ目は地元郊外にある市立美術館で、ネクサク作家による『やったらわかる!抽象画』イベントに参加していたら偶然にも会いました。
という訳で、久しぶりにお会いした時、昔ホッソリしていた頃とは違ってまぁ〜るく変わりました。今も変わらずお元気そのもので安心しました。
持参の72Dの会写真を珍しそうに見入っていて、メンバーの顔を覚えているそうだ。
『みなさん、お元気ですか?今年の3月で長年務めた九産大を退職しました。
私は卒業生ではありませんが、これで縁が切れるわけではありません。
どうぞ、よろしく! 石井Kakuko
PS;:岩くんの「ど〜でもいいこと」をじっくり読みました。言葉はコミュニーケションの道具だけど、想像力も大切。言葉には明確な意味があって読者はその意味内容を正しく理解する。想像力には言葉ではなくイメージ。ひとりひとりの表現にゆだねられ限定することが出来ないため、風化がど〜でもいいことにならないといいんだけどね・・・。
※文中、フルネームは個人情報で、検索されることがありますのでローマ字に変えています/シタマ
498)ど〜でもいいこと 投稿者:岩 投稿日:18年12月4日(火)00時05分
みなさんは「すみません」という言葉、使われますか? 私は何か言う時の頭によく「すみません」を付けてしまいます。で、その言葉を紙に書く時、みなさんはどう書きますか? 私は「すみません」と書きますが、スマホやPCなどの先読みでは「すいません」と出てきたりします。さて、「すいません」と「すみません」どちらが正しいのでしょうか? ど〜でもいいこと。 チョイと調べてみると広辞苑には「すみません」しか載っていません。「すいません」は載っていないのです。「すみません」は「済まない」の丁寧語なのだそうです。チャンチャン。
「ムリムリムリ」と言う子ども。まだ十年くらいしか生きていない子どもが「ムリムリムリ」。65年以上生きてきた私が「ムリ」と言った事がない(?)のに、3回も「ムリ」を重ねてきます。バスケットを教えていると平気でそう言う子どもがいる。経験値の浅い子どもが本心でそういうことを言うのかな〜。う〜ん、で、その子の親と会えば・・・である。 ど〜でもいいこと。 「ムリ」=Impossible この英単語に『アポストロフィ理論』=『〈 ’〉理論』を応用すると I'm possible=私にはできる になります。で、個人的な希望的な思いは、 I'm possible です。絶対に子どもたちは「ムリムリムリ(Impossible)」ではなく I'm possible でいて欲しい! と強く思います。
そして子どもと向き合う時、私はどうしてもTEACHING(ティーチング)になってしまいます。それも上から目線で。子どもと話す時、私は膝をついて子ども目線に併せて喋っているのですが、頭の中は上から目線になっています。「理解」=understand 。この英単語を分解して“under”=下“stand”=立つ。で、
分解した2つをつなげて(立ち位置目線よりも下で=という意味で)「理解」。教育的な環境からできたと思える素敵な英単語だ。本当に「理解」してもらうためには頭の中でも understand の心が大切。あっ、これも、ど〜でもいいこと。
豊の言う「風化」、案外それは ど〜でもいいこと なのかもしれません。生きているということは必ず死に近づいているということ。だからそこに宗教が生まれ、哲学が発生する。“散る桜 残る桜も 散る桜”“うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ ” 宗教的であり哲学的である良寛の句。え〜〜、死ぬということは誰かの心の中で生きるということ。でもその誰かは必ず死ぬ運命にあるわけです。だから若い人には「風化」は重大な問題かもしれませんが、初期高齢者にとっては、もはや ど〜でもいいこと なのかもしれないと・・・。
497)11月7日はコーチの命日 投稿者:TOYO 投稿日:18年11月15日(木)14時56分
思いがけず小田さんのテアトロンコンサートチケットが7枚も手に入り、前から行きたがっていた工学部に声をかけ、東京からケイコ、福岡からアキさん、岡山からおきゃーまと、松原寮の仲間たちが高松に集合して、ミニ同窓会となりました。
めっちゃ嬉しくて楽しみにしていたら、案の定、あの悪夢が襲ってきて、季節はずれの台風の襲来!!まさかの四国直撃!!あぁぁ〜もう、台風夫婦とでも呼んでくれ〜
コンサートが開演されるかどうか、めっちゃ心配したけど、そこは小田さんの底力!
無事決行されることになったら、雨どころか晴れ上がって、涼しい風まで吹いて、小田湾の海と夕焼けと、すり鉢状のてっぺんの芝生の上に立ち上がって手拍子をしている人のシルエットの美しさ・・・感動ものでした。
2日目に娘が友達と行くことになっていたけど、朝から雨に風だったので、午前10時までに開演決定かどうかネットで発表されるというのでドキドキ!そこはこれまた小田さんの底力!無事開演されることになり、午後からは雨が上がって、暑いくらいだったそうです。
そして、悔しいことに娘が言うには、小田さんが目の前で、自分に向かって、両手でピースをしてくれたんだって!
ないない、それは絶対ない!小田さんは特定の人とは目を合わさないんだから、勘違いなんじゃない?と言ったけど、本当にしてくれたんだって。
臨月に近い大きなお腹をかかえた娘への特別サービスだったのかな?
コンサートではしゃぎすぎて、両脚がつってその筋肉痛が治らないのを皮切りに、体調を崩してしまい、それが3ヶ月くらい続いた。
娘の里帰り、甘えんぼで暴れん坊将軍の上の子の世話。仕事もピークに達して、9月から何度も高熱がでて、吐き気、食欲不振で3キロもいっぺんに痩せたけど、嬉しくもなんともない。
11月11日の高校の同窓会までには治るように、点滴して、抗生物質を飲んで、やっと出席はできた。けど、な〜んにも食べられない。会う人会う人から、「とよちゃん,痩せたね〜」と言われるので、「痩せたんじゃなくて、枯れてんのよ!」と答えてた。65才にもなると枯れるよね〜フン!と言いたいけど、元気で若々しい人もたくさんいた。
「大きな病気じゃないかと思って、聞けなかったんよ。」とメールをくれた人がいたけど、ほんとよね。原因不明の高熱が続いたんだから、ちゃんと検査しなきゃね。…と言いつつ今日からめっちゃ元気がでてきて、またまたズルズル病院行きを先延ばしするんだろうなァ、ちゃんとしなきゃね。
とはいえ心配してくれるみなさん、私の体重は大学時代とあまり変わらないのですよ・・・ということは、途中がどんだけ〜
またまたダラダラと書いてしまったけど、本当に言いたかったのは、11月11日の同窓会に参加できるかどうかだけ心配していて、7日のコーチの命日を忘れていた事。今まで忘れたことはなかったのに・・・岩坂のいう「風化」じゃないけど、少しずつ少しずつ自分の事ばかり考えるようになっていくのは、仕方ないけど、悲しいね。
ホームページ活性化委員会のTOYOよりの1年ぶりの投稿でした。496)宮崎のみかん 投稿者:あきさん 投稿日:18年10月15日(月)06時49分
今年のみかんは、というより、果物はほとんど甘くて美味しいですね。
昨日、みかん狩りとは言わないけど、柚狩りをしてきました。柚コショウを作るために、親戚の家で柚狩りです。そういえば、昨年は、日田同窓会の折、近くの道の駅で日田大山特産の柚を買いに行ったのを思い出しました。皆さんが、朝食をとっている間にね。
今年も、柚の香りに包まれ青コショウの目を突き刺すヒリヒリに茂垣ながらの苦戦がはじまります。
正二郎さんのみかん狩りのお誘いに楽しみたいところですが、親戚のみかんが届く予定があるので断念しました。
ところで、タイトルの宮崎みかんですが。
宮崎のみかんって、皮が厚くてすっぱい!と子どもの頃から信じ切っていました。
18歳で福岡行って、初めて山川みかんを食べた時、「なんて甘くて美味しいみかんだろ!」その感激は、すぐに実家に一箱送るくらいでしたから。考えてみると、仕送りを受けてる身でよくもそんな贅沢ができたものよ。たぶん、すぐに小遣いが無くなった筈。いまでは、三角みかん、八女みかんも美味しくいただいています。
来週、宮崎に行く折、みやざきのいとこ宅にてみかん狩りをします。そこのみかんは、私がこれまですっぱいと嫌っていたみかんではなく、堂々と世の甘きみかんに肩を並べるくらい、皮の薄い甘いみかんです。
いとこの旦那は、定年後土いじりがしたいと、山を買い、しいたけ、やさい、みかん(もともとみかん付の山でしたけど)を上手につくり、楽しんでいるようです。
夫婦其々が違う趣味で、共に作業しないところが楽しめるコツだそうです。
495)秋のみかん狩り 投稿者:SHOU−JIーROU 投稿日:18年9月24日(月)18時06分
毎年9月になると、みかん農家から案内状が届く。
もう10年以上、お世話になっているので、秋のみかん狩りを楽しみにしている。
近所の人などに差し上げると、とても喜んでくれます。
そこで、皆さんにもぜひ、ご家族や知り合いを誘ってみかん狩りを楽しんだら、と思って早急、知らせることにしました。
『観光農園共和国みかん』 みやま市山川町立山1360
◎ 現地 契約日 受付 10月20日(土) AM9時〜12時
10月21日(日) AM9時〜12時
◎ 樹木単価 一口 5000円より〜
※樹木の種類によって大小、バラツキあり
初めての人は5千円が無難、その後は経験で
夫婦二人で月に4〜5回に分けて狩りをします。(参考)
希望者は10月6日(土)までに石橋までメールをお願いします。案内地図などを送りします。※メールアドレスは名簿を見て下さい。
494)光州と木浦を訪ねて 投稿者:SHOU−JIーROU 投稿日:18年9月16日(日)15時24分
9月初めに韓国から帰ってきた。
私と兄2人で4日間、ソウルから全羅南道に位置する光州(クアンジュ)と木浦(モッポ)に旅行してきた。
事前にこの時期に光州でビエンナーレ展が開催始まった事を知り、ちょうどよいタイミングで見る機会はなかなかめったにない。
2年に1回の国際的美術展覧会だからとても嬉しい。
兄はマメな人で、ツアーに頼らず自分一人でいろいろな現地情報を駆使する性分だ。
ネット検索しながら、交通費、宿泊費、出発・帰着時刻など細かくそれらを書き込んで旅行日程表に仕上げてしまう。
そんな兄のお陰で今回の旅は事もなくスムーズに楽しめる事ができた。
自分の場合は何かあったときに韓国語を生かして役立てようと思った。
光州と木浦方面は湖南線をソウル駅から運行ではなく、龍山(ヨンサン)駅から始発となる。
地域によって始発駅が違うらしい。
地下鉄で龍山駅に移動し、前日予約しておいた乗車券を購入出来たが、不思議なことに改札口は無い。このままコンコースを経て指定席に座れるので心地は良い。また、車掌から1回もチェック受けることが無かった。
不正乗車だったらどうなるのかなぁ?? 湖南線はKTX(韓国高速鉄道)を利用し、約2時間50分で木浦をつなぐ。
湖南線最終着駅木浦に到着すると、荷物をロッカーに預けておく。
駅前の雑踏から南へ下ると、旧市街には瓦屋根の日本式家屋がところどころまだ残っていた。
儒達山(ヨダル)近い山の手にレンガ造りルネッサンス様式の旧日本領事館木浦支店が残り、現在は近代歴史館として一般公開されている。
すぐ手前に慰安婦少女像が立ち、近づいてみると気まずいことに私達が日本人であることが引け目を感じられる。
周囲の視線や違和感な空気から少々逃げたい気もあるが、しかし、現地の年配の方や若い青年に接するとこわばりが溶解し温かく感じられて良かった。
結局、この像は要するに日本政府が最軍事化を阻止するために国内向けに宣伝にすぎないと改めて認識した。
入場券を払って館内に入ると、低学年少年少女20人位が先生に引率されてガヤガヤと元気よく歩き回っていた。
それとは別に自分は日帝時代の日本人遺品や著作、建築物などをみてノスタルジィックな気分に浸りしきってしまう。すると二人の少女が近づいているのを気づき、視線が合いちょっと声をかけて見た。
「こんにちは!」
「ミョッタニョン?(何年生?)」
一人の少女が物おじせずに小さな指三本立てて見せてくれた(三年生です)と。
兄は相変わらず陳列している遺品を懐かしそうに見入っているようだ。この本館の裏に防空壕跡があり、中へ入って見物した。歴史を学ぶに関しては有意義だと思う。
この後、港湾に面した魚介類を売る市場で食事をすませ、光州へ無事に到着した。
あらかじめ予約しておいたオアシタホステルに宿泊し、ゆっくりと体を癒す。
このホステルは閑静な住宅街の一角にあり、見た目では個人邸宅の外観と変わらないため気づきにくい。リーズナブルでオーナーは気さくな人柄で感じが良い。
翌朝、モーニング食をすませると、オーナーのペミョンウンさんから他にも日本人が泊まっていますよと打ち明けてくれた。光州ビエンナーレが目的のようだ。
ビエンナーレへ道のりについて韓国人カップルやオーナーと一緒に日本語、韓国語、英語であの手この手やりとりしながらアドバイスをもらった。
このあと、宿泊のお礼としてペミョンウンさんの似顔絵を描いてプレゼントした。
彼女は喜んで両手の親指を突き立てて「ベリーグッド!!」のしぐさをみせてくれた。
* * * * *
オアシタホステルを後にして、私達は光州ビエンナーレ会場へ向かった。
会場は二ヶ所ある。第一会場は市の中心部にあり、第二の方は市のはずれにありそれぞれシャトルバスで結ばれており不便はない。
まず、第一の方へ行くととんでもない地下空間があり、そこには大きなテレビビジョンが目につき、数か所の階段があり、ちょっときつい。間違えて保育園に入って追い出されたこともあった。欧米らしき観光客も疲れた表情で手こずっているようだ。
入場券を買うというのに、ハングル・英語案内表記のみで日本語は無い。実に不親切な主催なんだろう。
ただ、65歳以上は特別割引が付き、自分の運転免許証から「生年月日」を受付スタッフに見せると良い。半額で買えたので得した。
昔、九産大の石井先輩がここで出品された記憶をおありでしょうが、自分の実感として、よくまぁ、こんな所へ当時の交通事情から察すると労苦されたに違いないとつくづく思う。
今年のビエンナーレの題名は「国境」「境界」がテーマ。
第一会場では映像(スクリーン)やテレビ画像が主で、第二のそれは段ボールや古新聞、布、プラチックなど材料を光の陰影で巧みに表現するのが特徴だ。
なかでも、ひときわ目をひくのは初公開、北朝鮮作家キムソンミン氏の大作だ。
労働者スローガン画風がほとんどだが、ポスターというより水墨画に近い。筆の勢いが凄かった。
特に分断国家による離散家族「オモニ、末っ子がきました」の絵画をみて思わず、涙してしまった。数十年ぶり抱き合う親子姿についてをインタビュー受ける欧米人がみられた。
写真撮影は残念ながら禁止だった。
本当に見に来てよかったと兄は言う。
この後、光州松汀駅の近く通称トッカルビ通りにある専門店に入り、兄と二人で美味しい名物トッカルビ(牛の焼肉)を舌鼓打ちながら、今宵もビールで乾杯した。(終)
※フォトワールドに写真をアップしてます。(180905正二郎光州木浦の旅)
493)7月末のできごと 投稿者:あきさん 投稿日:18年8月30日(木)10時44分
ちょうどひと月前の事です。台風13号が小笠原から岐阜に上陸して、大阪〜岡山〜広島〜福岡へと逆走ならぬ、進路で進んだときのことです。
福岡から新幹線に乗り、岡山で二人、工学部とおきゃーまと合流し瀬戸大橋を初の渡橋。高松駅に着くと謙吾とトヨが出迎え。もう近くに、台風は迫って来てるのに。先に高松入りした圭さんの待つ、今夜泊まるホテルにGO!さあ、会場へ向かおう。
そうだ!何しに高松行ったのか?
そう、とうとう 小田和正コンサートに行ったのです。早くにトヨから誘われていて、お恥ずかしながら、私人生初のコンサートであります。もう近くに、台風は迫っているのに。しかも、屋外コンサートなのです。
ここまで来たら行くしかない。せっかくだから、讃岐と言えば、うどん。7年前だったか、われらがこうちが岩坂をうどん接待したことを思い出した。あのときの「わら家」ではなかったが、「うどん本陣 やまだ家」に連れて行ってもらった。高松に詳しい品川家の婿殿の案内です。長女夏ちゃんとあいくるしいお孫ちゃんも一緒です。もう近くに、台風が迫っているので雨対策して覚悟していくつもりです。なぜか、私一人が雨対策。ほかの面々は暑さ対策!トイレの心配であまり水飲まないように気を付け、結果的に汗が出るので、トイレは程遠いのです。
小田さんのコンサートは印象強かったです。わたしが云々言わない方がイイでしょう。
あれ、気が付くと台風来てませんね?むしろ、目の前の瀬戸内海に夕日が眩しく輝いているのです。
ここ、ステージはさぬきテアトロンと銘打って、すり鉢状の施設です。トヨに誘われた時、コンサートよりテアトロンに行ってみたいと思った次第。
翌日の岡山行のオマケ付きも楽しみの一つ。
夜のうちに台風は過ぎ去っており、さすがに落ち葉などの痕跡はありました。そして、JRや公共交通機関は不通でしたが、なぜか、一般車の高速渡橋は可能でした。
岡山で昼食を済ませると、謙吾とトヨは四国に帰りました。
翌日、昼に圭さんを岡山駅で見送り、私と工学部はおきゃーまの「町おこしプロジェクト」本拠地に出向きました。フェイスブックや話聞くだけより実際観ると、しかも、代表と呼ばれているおきゃーまをみると有意義な生活してるなと感じました。
わたしも三年ほど前から、自分探し といいながら、「わたし、なにがしたいのかな?なにができるのかな?」この繰り返しでした。結局「認知症の人と家族の会」で運営委員となり、おそらく、これから10年以上は続けることになるでしょう。
最近は、絵画を観て空を見て何見ても、すごい!きれい!ふしぎ!と感情増えている事実感します。
ゆっくり、歳重ねたいなと思うこの頃です。
※フォトワールドに写真をアップしてます。(180830ミニ72d in 瀬戸内海)
492)熊本城の今。 投稿者:シタマ 投稿日:18年6月1日(金)15時20分
先日、旅行に行ったのですが、熊本駅での乗り継ぎに時間があったので熊本城に行ってみました。
もちろん敷地内には入れませんでしたが、ぐるり周回しながら見学できるようになっていました。
大天守は周囲のシートが撤去されたばかりで、新しいしゃちほこが載った屋根が見えてました。小天守は心もとなく宙に浮いた格好になっていました。
まだまだ石垣が崩れたままになっている所が多く、敷地には番号の付いた石材がズラリ。これからの作業や時間を考えると人ごとながらゾッとしました。なんと全体の復旧までに20年かかるそう。今から20年後。う〜む、・・・・。
6年前、72Dの会の時に寄った市庁舎展望所からの眺望は時間的に無理でしたが、一周するのに1時間。短い滞在時間でしたが、それでも百聞は一見に如かず、地震の凄まじさとめげない人間の力を知るひと時でした。
※フォトワールドに写真をアップしてます。(180529熊本城)
491)人生が二度あれば 投稿者:い〜わ 投稿日:18年5月14日(月)21時40分
皆さんには来ましたか? 私には来てしまいました。何気なく開いた封筒からこれが出てきた時は、全く警戒していない時に喰らった強烈なパンチでした。あ〜、それは「介護保険被保険者証」。その瞬間からけっこう落ち込んでしまって。バスケの練習でいつも以上に子供たちと走ってみたり、遠征に行って審判を必死で走ってみたり。しかし妻からは「髪も白いし、髭も白くなっている。年寄りなのよ、仕方ない」と。でも、戦いたいのよ、抗いたいのよ、良く分からないものに。自分が納得できないものに。私たち時代に流行った、井上陽水「人生が二度あれば」の歌詞。なにも思わず当たり前のように若い私たちが唄っていた歌詞。「父は今年2月で六十五 顔のシワは増えてゆくばかり・・・」
490)川野くんと大阪で会いました 投稿者:シタマ 投稿日:18年3月29日(木)23時00分
彼の72Dの会の返信メッセージを見て気になっていたのですが、丁度先週、娘の引越しの手伝いに大阪に行った時に、時間がとれたので会いに行きました。
道を間違ったり、行き違い(彼は駅へ、自分は彼のマンションへ)になったりで結局1時間位ウロウロして駅でやっと会えました。年賀状の写真で見ていたので顔はすぐにわかりましたが、携帯がなかったら会えずじまいになってたでしょうね。
今は、主夫したり、週に2、3日は20〜30キロ位自転車に乗って海に行ったり、川に行ったりしてるそう。毎年お盆には故郷の鹿児島に帰っているとのことです。
駅ビルでたこ焼きを食べながらの短い時間でしたが元気そうで安心しました。
※フォトワールドに写真をアップしてます。(180320川野再会)
489)7年の罪と罰 投稿者:岩 投稿日:18年3月8日(木)09時21分
『高齢者で、「友人との交流が多かった人」や、「家族と同居していた人」は、震災時の死亡率が高かった。「友人とよく会う人」は「友人と会わない人」に比べ、「親以外の家族と同居する人」は「一人暮らしの人」に比べ、それぞれ当日の死亡リスクが2〜3倍高いと分かった。「親と同居している人」のリスクは、「一人暮らし」の6.7倍とさらに高かった。一方、震災翌日以降は、「友人と会う人」の死亡リスクは「会わない人」の半分程度だった。 これは、東日本大震災で亡くなった高齢者の家族との同居状況や友人との交流について、死亡リスクへの影響を分析したもの。(東北大大学院歯学研究科、千葉大学、米ハーバード大 調査・分析)』
という文章を見つけ、「え〜〜〜っ!」と思った。が、よくよく考えてみれば当たり前のことか。震災時、「人との絆を大切に生きてきた人」は《友人や親を助けようとしたり、家族のことに影響されたりして逃げ遅れた可能性がある》という人間らしさで命を失い、震災後は「人との絆を大切に生きてきた人」が人間らしい生き方で健康を維持できるということ。 震災後、パートナーを求める人が日本全国で増えたそうだ。突然身近な人を亡くす怖さ、寂しさをみんな感じたのに? たぶん、一人であることの切実な孤独感を経験し感じている人が、誰かの中に自分の存在を残そうと思ったからではないだろうか。でも、パートナーを得た人たちは、次のもしもの災害時に生き残る確率が下がってしまう。せっかく「人との絆を大切に生きられる人」に出会ったのに。う〜ん、死亡リスクの影響が増してしまうという、永遠に続くスパイラル。今、刻々と進む諸々の研究が最終的に目指すのは、「抗・老化」を通り越して「脱・老化」だ。未来予想図としての私の想像は・・・、コンピュータを内蔵した粒子を血液に送り込み、老いた細胞や病気の細胞を修復する。装置を脳に埋め込み、記憶を増強する。例えば、250歳の男性が現れる。外見は30代にしか見えず、頭脳も明晰で死の心配もない。しかし、彼の恋人は自然な老いを受け入れた。250歳の男性は遠い昔に死別した彼女への思いが募る・・・。 人生どちらが幸せなの?ということ。そこに、宗教という哲学がきっと必要になるのだろうと思う。 高名な僧侶、または得度を得た僧侶なみの人は「お一人様」で生き残っても心を乱すことなく生きていけるのだろが、私のような煩悩の塊のような人間は、「お一人様」で生き残っても、その後ず〜っと「お一人様」だったら寂しさで死んでしまうのだろうな〜。あ〜、悩ましい調査・分析の結果だ。
『「東日本大震災の被災地の課題に「風化」がある。一昨年の毎日新聞の世論調査で回答者の8割が風化を意識しているという数字があり、ショックだった。世代を超え、地域を超え、どう「伝承」するか。生活にとけ込む仕掛けが必要だ。」(東北大学災害科学国際研究所長 今村文彦)』
ん?ちょっと待て、8割が? 「風化」はダメだろう。 当事者はそんな理屈、許せるだろうか。なぜ「風化」するの、ではなく、させるの? あの時あんなに同じ気持ちになってくれたのに? なんだろう、この理不尽さ。でも、7年が経って、いまだに心にも身体にも余震はあるけれど、肩から少しは力が抜け頭は少し柔らかになったことは事実だ。だから「伝承」という言葉がまだ本当に理解していない言葉だけど、漠然と受け入れられるようになった。どの地域にいようと当事者となりうる可能性があるこの国の人びとは、被災した時、その現実的な課題を乗り越えることが必要になる。その乗り越えるための基本データ「伝承」が必要になってくるのではないかと考えられるようになった。とりわけ「風化」する次の世代にこそ。民間レベルでも自分たちのより細かな経験をどう伝えていくかという気持を持ち続けないと「伝承」はつながっていかないと思う。だから、やっぱり東日本大震災を「風化」させてはいけない。そして熊本地震、九州北部豪雨も「風化」させてはいけない。当事者になった人は「伝承」しなければならない、72Dのこのカテゴリーでも。「伝承」は「風化」を抑える力があると思う。
震災後、1〜3年は東日本大震災で被災したことを「そう簡単に忘れ去らせるものか」と切実に思っていた。怒りにも似た気持ちで本当にそう思っていた。当事者として、日本の国難ともいえる大災害を(大地震、大津波、原発のメルトダウン)「そう簡単に忘れ去らせるものか」と肩に力を入れ、硬直した頭で叫んでいた。怒っていた。で・・・、7年が経って、《悲しいこと》を《怒っている》ことで我慢している自分を、ある日突然、分かってしまった。あっ、怒っているふりをしないと、身近な人との別れを乗り越えられないのだと、分かってしまった。そして、分かってしまった自分が卑怯で悲しくて、愛おしい。分からないまま怒っていれば悲しまなくてもすむのに。そして辛いけど、卑怯な自分を見られるようになった。「そう簡単に忘れ去らせるものか」と怒りだけで叫ぶのではなく「風化」を前提にした「伝承」という手段を言う人に敵愾心を持たなくなった・・・許せるようになってしまった。私は7年経ってやっと少し《悲しいこと》から解放されつつあるのかもしれない。
488)福岡メンバーのある日 投稿者:あきさん 投稿日:18年2月27日(火)15時09分
2月26日(月)
雨になるか、晴れになるか分からない早い内に、この日に恒例牡蠣小屋行きを決めていた。北九州からやって来てくれるシタマ君。新福君、ありまん、そしてあきさん。ひよこちゃんとちかさんは都合悪かった。そうそう、大井手君も誘っていいのかな? 良ければ、オーケー書き込みお願いします。福岡メンバーは名目あれば、すぐに集まれる。
ここ数年のうちに、近辺の牡蠣小屋は人気殺到で、だから時間を外して15時頃に到着した。広島や松島の牡蠣が有名とは知っていても、糸島の牡蠣もよかろう?
写真の如く、牡蠣もさることながらホタテもでかく実に美味しかった。忙しい時間を外しているお陰かオーナー(じつは、髪結いの亭主を思わせる振る舞い)のサービスがいい。
10棟くらい並んでいる小屋(まるでビニールハウス)からどこを選ぶ? 最初の選択。
呼び込みの声がでかい店。賑わっている店。メニューを見比べてみる。どこも一緒やん。
そこで、ありまんの提案。「調味料無料、持ち込み可」はっきり大きな看板があるからここにしよう! 確かにその通り。集客のポイントは?ここに繋がる。
先にも記したように、もう15時。客は3組のみ。美人の女将とちょっと若い女性従業員がせっせと動き回る。次の選択。何を食べよう、何を焼こう。まずは牡蠣2ケース、生ホタテ(一昨年冷凍ホタテを食べて失敗だったのを思い出して生というのを確認する)、一夜干しイカ、カキフライ、牡蠣みそ汁、ここに髪結いの亭主ならぬ大将のサービスでホイルに包んだ芋と茹でたてのわかめを戴く。殻入れのバケツが忘れられていたのだが美人の女将ゆえにゆるしてしまう。ビールは持ち込み。昨年10月の同窓会で残ったビールが上手に仕舞えましたぞ。きょうのオーダーは6500円也。本来なら、数字なんて書かないんだが、安いよってのを知って欲しいからね。
昼間からのアルコールで盛り上がった四人、尤も新福君はアルコール禁止ッつうか運転手だから三人で盛り上がったあと写真撮影となる。大将にカメラを頼み「私ら、どういう関係にみえます?」 答えはお察し通り「二組の夫婦でしょ」 「二組のわけありカップルかもですよー」。となりのグループも笑ってはくれたものの呆れていたはず。
ついでに、「店内に店の名前大きく書いて出した方がいいですよ!」と、店の為を思って助言?してしまった。ノリだよ、ノリ。最後に、デカあまおうでしめくくり、集合写真撮って出発した。
楽しい余韻を残しながら糸島半島を北上。左手の海岸を見て、新福君が学生時代にトリップした。「あの沖に見える岩場、あそこまで泳いだことがあるとよ」。なんでも正二郎さんと二人で。意外に近いやん!? 海ってやつは目視ほどに近くないらしい。
泳いでいるうちに水温が低くなり水流も強まり、どげんしようかいな??と不安になったらしい。ほんと、二人とも、無事で良かったよ。そんな話をしながら、ついでに彦山(標高231m)に上がる道を通る。そこから、先ほどの話の岩場が見える。
近くない!近くなーい!おそろしや!
若気の至りやねー。驚かされたよ。でも、ここで疑問が。一面に広がる海が見渡せしかも夕日が眩いばかりに観えるビューポイントを持つ彦山に だ れ と 来 た の ?
先日のニュースでここ糸島の海岸に「はりせんぼん」が打ち上げられたことを知った。
途中で立ち寄った砂場でその残骸を見つけた。針はとてもとても固かった。干からびたからなのか、もともとなのか?寒波の影響で衰弱してしまったのだ。大きな目を見開いていた。死んでしまった君たちを並べて写真撮ってゴメンね。
この後に二見ヶ浦海岸の立ち並ぶレストランカフェの内の1軒に行きますが、おじさんおばさんは殆ど見当たらないくらい若者カップルばかり。ならばとこちらもカップルに。無理あったね。こわばっています。
ありまんから。
同総会も牡蠣小屋ありじゃないかい?
栫井君に会いに行きたいね。
2万3万円出すなら、韓国行って美味しいもの食べれるよ。
でも、パスポート無いしー(あき、新)
代弁です。
今回、ひとつ発見。
道の駅で買い物の時。ありまんはいつもの如くマイペースで買い物に熱中、あきさんとシタマ君は待ち長ーいと外でソフトクリーム。新福君はというとありまんに寄り添って一緒に付き合いカートを押してあげてる。 優しいんだァァ。
今日の半日は肩に力の入らない自然体で楽しかった。
72Dは、たとえ認知症になっても口ずさんでいられそうな気がする。
※フォトワールドに写真をアップしてます。(180226糸島牡蠣小屋)
487)時を見た仲間 投稿者:岩 投稿日:18年2月5日(月)21時24分
点と点の間をいかに速く移動できるかしか考えていなかった頃。「私たちは時計なしの時間を知らない。時を見た人もいないのに、時計に支配されている。ちっこい機械が悠久の時間を支配すべきだろうか?」と考えていた。 インスタント味噌汁に入れるお湯の量、カルピスを薄める水の量。レシピに書いてある量をピッタリと加えればよいから悩みはない。が、時間という厄介者。悩ましき3分。ウルトラマンの3分。3分の始まりはいつから? 変身した瞬間? 怪獣と戦い始めた瞬間? 3分の終わりはいつ? 「シュワッチ」と言った瞬間? 飛び上がって大宇宙に帰る姿が見えなくなった瞬間? カップ麺。3分の始まりはいつから? お湯を注ぎ始めた瞬間? お湯を注ぎ終わった瞬間? フタを閉じた瞬間? 3分の終わりはいつ? フタが閉じられたままで3分が経った時? フタを剥ぎ終わった時? すべて完了し麺を口にもっていく時? 私は悩む。 「どん兵衛」は5分である。が、『6分が旨い』と言ういい加減な人がいた。「なに!そんなバカな!「どん兵衛」開発者の血と汗と涙で導き出した結晶の5分はどうなるんだ!」 私はちゃんとしていたいのだ。 しかし、ある日。ワーハッハッと笑って雑談をしている間に、6分経過した「どん兵衛」に遭遇することになる。で、良い塩梅に柔らかくなった麺が(私は思ってしまった、後ろめたい気持で)ウ、ウ・マ・イ・!。 ああ、どうしよう、取り返しのつかないことになってしまった! これまで生きてきた私は、3分ピッタリにこだわるウルトラマン、カップ麺。5分ピッタリにこだわる「どん兵衛」。時計に支配されている私。
点と点をつなぐ“線”が楽しくなった今。あ〜あ、いいジャン、もういいジャン、時間になんてこだわらなくて、もういいジャン、の・私。「72Dの会、72歳までだろうか」真剣な議論。 永遠なんて無いということはよ〜く分かっている。が、機会が無くなるということを思うと、もはや寂しい。会うこと、一緒にいることのはしごが外された感じ? 気付いたら、いつの間にか時計なしの時間を共有しようとお互いに心の底に立てた契り? 時を見た仲間は誰もいないのに、はっきりと時を共有していることを実感しているから? 時計に支配されていない仲間が居るということ? ねえ、誰か指切りしようよ、誰か約束しようよ と叫びたくなる。
字を忘れ考えてるうち文忘れる私は、いま、人生で一番若い時を過ごしながら思っている。えー、そうなの? まさか、終わるのー?
486)10年後はどんな・・・!? 投稿者:SHOU−JI−ROU 投稿日:17年12月9日(土)21時18分
早いもので、12月になってしまったけど、みんな元気だろうね。来年は『平成』が最後の1年になるだろう。
今回の旅行は雨、雨、雨続きの天侯で散々だったけど、原尻の滝がものすごい水量ですさまじく瀑布したのはびっくりした。ショボイ滝しか考えていなかったから、これがかえって印象に強く残った。
この会があと数回でおしまいになると寂しい気がする。
今までの正月3、4日はずっと快晴マークに恵まれました。そして自分の誕生日なので誕生パーテイ旅行みたいに参加してたんだ。
これから先も続けるか分からないけどやっぱり年をとるごとに体にガタがくるし、物忘れもひどくなる一方だし、救急車に運ばれるのは嫌だし、周囲に迷惑がかかるかも・・・・あ、マイナス思考は考えしないようにしときます。
さて、地元で話題になっている「シルバー川柳」を紹介したいと思います。
そこで皆さんがそれぞれ10年後にどんな姿に変わっていくのか見当してみたく当ててみました。
■ 付いて来い言った家内に付いて行く・・・・ケンゴ
■ 手をつなぎ互いの杖となるあした・・・・・トヨ
■ 遺言書「すべて妻に」と妻の文字・・・・おきゃーま
■ できますと家族を泣かす認定日・・・・・ケイコ
■ 温かく迎えてくれるは便座のみ・・・・・三宮
■ 石段の下から拝む寺参り・・・・・・・ありまん
■ 字を忘れ考えてるうち文忘れ・・・・・・岩坂
■ 紙おむつ地位も名誉も吸いとられ・・・・・カッパちゃん
■ ペットロス主人の時より号泣し・・・・・恵美子さん
■ 通帳に暗証番号書いている・・・・・・・シタマ
■ 生きがいは何かと聞かれ「生きること」・・大井手
■ いつ死ぬか分かれば貯金使うのに・・・・・・西くん
■ 物忘れ知識を少し捨てただけ・・・・・・・住吉くん
■ ポケモンを捜し歩いて捜されて・・・・・・工学部
■ iPad指舐めスライド孫怒る・・・・・・・原さん
■ ピンポ〜ンにやっと出たのに不在票・・・・・新福くん
■ 「君の名は?」72D会でも流行語・・・・・あきさん
何は友あれ、つまらんことを掲載したけど、ご寛容くださいね。では、来る年のご多幸とご健勝を!
485)名簿 投稿者:シタマ 投稿日:17年11月25日(土)13時40分
ケンゴから、有志が撮った写真データを焼き付けたCDが1枚送られて来たので、その中から屋形船での集合写真をアップしました。歴史のページの表のリバーサイドホテル山水館をクリックして見て下さい。
写真が揃ったので、今からいつものように名簿の表紙制作に入ります。で、こちらで枚数分だけカラープリントした名簿の表紙と、名簿の原本を新福に送ります。で、新福に原本から枚数分をコピーしてもらい、表紙と合わせてホチキスで止めて、返信ハガキを頂いた方に送ってもらうようにしています。で、出席者にはケンゴから送ってもらっているCDも同封して発送するようになっています。
と言う訳で、まだまだ皆さんの手元に届くには日にちがかかります。気長にお待ち下さい。
取り急ぎ報告まで。
484)忘れられない日田の旅 投稿者:TOYO 投稿日:17年11月21日(火)23時36分
今回の日田の旅は、一生忘れられない旅になりました。
ひとえに品川家の今年の運のなさの象徴のような旅でした。みんなを巻き込んでしまってごめんなさい。
2週続いて土・日に台風がやって来るなんて信じられない!
雨男と雨女は確実に私とケンゴだな。瀬戸内5人組+アキさん、ありまんで香川の直島に行った時も、番外編の今治、松山もぜ〜んぶ雨だった!
今回も二日続けて、雨雨雨・・・
アキさんが詳しく報告してくれたように、日田焼そばは、もやし大好き人間の私には理想だったんだけど・・・ごめんなさい。ちゃんぽん以外の太麺は苦手なのです・・けど、めったにないことなので、全部頂きました。
豆田町に行けば、メインの草野本家は半分以上が工事中で、見学不可能「聞いてないよぅー!」全額払って、半分見た・・・
あとは、酒蔵に行った人、甘味処に行った人、コーヒーを飲んでしゃべてた人達、買い物してた人・・・ここはゆっくりできて良かったな。
私はちりめん小物のお店で、ずっと欲しかった獅子舞の獅子頭のついたキーホルダーを見つけソク購入!嬉しくて、嬉しくて、来た甲斐があったと思った♪
夜の屋形船と鵜飼も、雨の中なかなかの風情でしたが・・・あ〜晴れてたらなぁ〜
船もあまり揺れたりしてなかったんだけど、誰にもお酌にまわれず失礼しました。
鵜がかわいかったね。
その夜、新福くんが具合が悪くなって心配したけど、西クンの学生時代のワークキャンプのころを思い出させるフットワークの軽さと適切な行動、次の日の運転をかってでてくれた「代打・森クン」カッパちゃん、仲間だなぁと感動してしまった。
次の日は新福くんも見違えるように元気になって、岩坂、原さん、カッパちゃんを見送って、大観峰と原尻の滝へ・・・
ここでもまた失敗・・三人を送るためにロビーで待ってたんだけど、ケータイを取りに部屋に帰ったすきにみんな帰ってしまった!!「トヨーみんな帰ったよーどこ行ってたん!!」とおきゃーまの言葉がむなしく響くだけ・・・あーバンザイ三唱どころか、サヨナラも言えなかった。この場を借りて、「みんなまた会おうね!」
楽しみにしていた大観峰、ぐるぐるの山道に酔って、途中の道の駅に着いた時は顔が真っ青で、あぶないところだった・・・また走り出すと、今度は雨に加えてすごい風・・・降りる事も出来ず、景色さえ見れず・・あきらめて、原尻の滝へ。
原尻の滝は、あとからケンゴが「あそこだけは神様からの贈り物だった!」と感動し、私も「その通り!」と同調した。
いつもは、観光地の割にショボイ滝らしいんだけど、何日も降り続いた雨のおかげでドドドっーとしぶきが上がって大迫力でせまってくる滝になって、景観バッチリ!!おまけに雨が上がってて写真もばっちり!!あぁ神様〜ありがとう♪
そのあと道の駅二か所に寄って、早めにみんなとお別れして、「よし、5時のフェリーに間に合うぞ」と必死で港に着いたら・・・がら〜んとして車一台ない・‥「欠航中」の看板がシレ〜と立っているだけ。
「呆然とする」という言葉はよく聞くけど、ほんとに「呆然とする」をあんなに実感したのは、初めて。
おーい、どうしろって言うんだ。四国に帰るには、フェリーかしまなみ海道しかないんだぞー!ここまで、ついていないのかと泣きそうだった。ケンゴが「しまなみに渡るしかない。」と決心して、喉が痛くて、寝てなくて、くたくたなのに、ライトが暗くて夜の運転が怖い車なのに、私が代われないのに・・・そうするしかなくて、しまなみ海道めざして、ゴー!
なんですとっ!!私らが必死で高速上ってたころに、SAで、お茶を飲んで盛り上がってたって!!博多組は着いてからも食事に行ったりしてたんでしょっ!
あーもう、船が欠航してないかどうか確認すべきやったー。福岡組と帰ればよかったー。
おまけに、山口の美祢で事故があって、真っ暗な一般道へ降ろされて、ライトが暗くてビビりながら運転してたら、一緒に降りた車に見放されて、右も左もわからないところで頼りないナビに翻弄されながら、やっと高速の入り口を見つけてほんとにホッとした。怖かったー死によったー!
家に着いたらなんと夜中の1時半・・・もう、この旅は笑うしかないね・・・
私もケンゴもあれから風邪をひき、私は5日に松山の友達家族との3年ぶりの飲み会に声がでなくなり、なんにも食べられなくなり、8日には病院で点滴したのに体調が戻らず、咳はでるわ、だるいわ、昨日やっと食欲が戻ってきました。
ケンゴはまだゴホゴホやってる。絶対病院に行かないガンコ者です。住吉クンと岩坂の言う通り!
ついてない話には後日談があって、例の獅子舞のキーホルダー・・・帰ってすぐ車の鍵につけて嬉しそうに、もにゅもにゅ触ってたら、3日目には、頭から先がどこかに落ちてしまって、ヒモしか残ってない!ない!
もう今年は笑うしかないね。
483)7209 投稿者:シタマ 投稿日:17年11月20日(月)16時30分
今回も車での移動が長く運転手の方はご苦労さまでした。
で、自分は正二郎の車の助手席に座っていて、風景も見飽きて、前を走るあきさんの車を何気に見ていました。ナンバープレートの番号を読んでみました。"7209" 。ん? ん? ???・・・・ ん!
あれって、自分で決めれるんですかね。自分は免許持ってないからよく分からないけど。結構いるんですよね。ナンバーに自分の誕生日入れたり、7を3つ並べたりしてる人。知らない人でもその人のことが少し分かった気がするんです。そんなのを想像するのも楽しいです。で、あきさんの場合は・・・
で、次の降車の時、本人に確認しました。やはり、そうでした。大学時代の学籍番号でした。72Dの9。
そういえば、随分と昔のことですが、あきさんとこが転勤族のため、よく住所が変わっていたんですよね。で、自分の不注意で、古い住所のままで案内状を出したものだから届かず、その時は出席できなかったんです。本人はすごく楽しみにしてらしく、後で相当に怒られた記憶があります。
今は携帯、メール、HPなどでコミュニケーションが昔より取り易くなってるから、そういうことはないでしょうがね。
遅くなりましたが、歴史のページに今回の内容をアップしました。屋形船での集合写真はまだですが、いつものように返信状のメッセージなども紹介しています。歴史のページの表の回数から飛んで行けます。
482)DOUSOUKAI in the RAIN 投稿者:あきさん 投稿日:17年11月13日(月)13時18分
濡れネズミさんより先に書き込みするべきだった。あまりにインパクトありすぎやないかー!!ならば、ケンゴ・トヨ夫婦も悲惨な目にあったようなので、ぜひ、書き込んでください。
さあさあ、遅ればせながら2日間の報告です。
10月28日土曜日
その日は朝から雨でした。きっと、雨男だ!雨女よ!と名乗りを挙げている人もいたでしょう。一番乗りは、上村さんでした。「誰もいない?!」と連絡があり、行ってみると圭子さんとふたりで待っていました。しかし、本当はもっと早く博多界隈に着いていた人がいたのです。
その人の名は、SITAMA 私たちが、用事を済ませ歩いていると、見たことのある人物が! 「ぶらぶらしていたら、誰かに会うかも」と思いながらいたそうです。でも、シタマ君の方が驚いたかも。わたしは、岩坂と二人で歩いていたのだから。空港まで岩坂迎えの使命を受けていた私でした。岩坂が宮崎に帰るための切符を先に買っておきたいと窓口まで行くも、JRも高速バスも思うような時間帯が選べず、仕方なくも博多駅前で高速バスの手配をどうにか済ませた後でした。濡れネズミさんの難事はここから始まっていたのかも知れませんねー。
順に15名が集まりました。今年の久しぶりさんは、西君と岩坂でした。「西君はなかなかの貫録じゃね!わたしもちっとも痩せんじゃろー?」西君は宮崎に住まい、宮崎生まれ育ちのわたしもついつい宮崎訛りになります。
ようやく、出発です。新福号・正二郎号・あきさん号の三台に分かれて相乗りです。
新福号にうまく付いていけるようにと覚悟したのですが、なんと彼のスピードは、優しく私をリードしてくれるかのごとく、私と正二郎さんを引き連れて日田へと進みました。もう11月にもなろうとしているのに紅葉はまだの様です。
ホテル山水館に着くと、鷹巣君と三宮君・従弟君と四国―大分間をフェリーで来たケンゴ・トヨ夫婦たちが、出迎えてくれました。
すぐに本日のメインプログラム日田焼きそば屋さんへ。ホテルすぐそばの「三隈飯店」17名もの我らの団体が並ぶ姿を見て、他の客がよそへ行ってしまうくらいの迫力でした。強火で焼き上げてあるのでパリパリ麺がイイ!!もやしたっぷりでちょっぴり甘めのソースが食欲を増します。
食後は近くの「原次郎左衛門味噌醤油蔵」 ここでも、やっぱり試飲試食に群がっていました。もちろん、お土産買いましたね!
夏の水害により小鹿田(オンタ)焼の郷には行けなかったけど、味噌醤油屋さんの近くの小鹿田焼屋さんで、一目惚れした焼き物の購入者がおりましたね。割らずに、持って帰りーよ。
さて、本日のもうひとつの超メインの「豆田町散策」
重要伝統的建造物群保存地区だけあって、その街並みは緩やかな気分に浸ることのできる空間でした。コーヒー飲んでる時にケンゴがポツッと言った。「一人一人で自由に時間を楽しめるのもイイと思うんよ」 これまで、皆で一緒に皆とわいわい言いながらが殆どだったけど、こんなのもいいゼ!と言いたかったのでしょう。
ようやく、ホテルに帰りゆっくり温泉に浸かる間もなく、お待たせ、屋形船でのお食事です。ホテルのすぐ裏の三隈川に浮かぶ屋形船に乗りこみ、間もなく、川の中ほどに移動。近隣の旅館ホテルも屋形船を出し川の上が灯りでぼんやりとした花が咲いているようです。今回は、鵜飼の小舟がパフォーマンスで周遊して楽しませてくれました。こんな宴会もいいね。
マジックショーとか見れるのもいいなあ。歌舞伎とか、舞台を観るのもいいかも。
夜のうちに、三宮君と従弟君は大分に帰ってしまいました。
二次会は、大広間で。男性方は大部屋二間続き。いびき対策は大丈夫でしたか?
女性は、和洋室で、ゆったりでした。
29日日曜
朝から、鷹巣君・原さん・岩坂がお別れです。
鷹巣君とハグする機会を無くしました。残念。岩坂とはハグできました。2回もハグしたのが、その後のハプニングに誘因してしまったのではないかと申し訳なく思ってます。横で見ていた住吉君がやめとけと言わんばかりでした?
9時にホテルを出発です。
この日も朝から雨です。山のうえに行くにつれ視界も悪くなり、時折見える赤や黄色の紅葉に目を奪われるくらいです。阿蘇の大観峰は降車出来るはずもなく中止して、原尻の滝に移動。先日からの雨量で東洋のナイアガラに相応しい醍醐味でした。ここで昼食をとり、その後は、阿蘇くじゅう国立公園を快走?して、帰路に向かいます。
コースカットもあって、四国へのフェリー乗り場に向かうケンゴ、トヨ達と途中で別れます。まさか、このあとに散々なハプニングが待っていようとは・・・\(◎o◎)/!
福岡に帰る三台は、途中山田サービスエリアでコーヒータイム。
運転手の眠気防止のためにと喋りすぎて、盛り上がりすぎて、最初のパーキングエリアを通り過ごした正二郎号は他二台の皆に責められながらも、それを楽しい会話に変えてしまうのは、さすが、血は繋がらずとも兄弟と言われる所以ですな。
予定より1時間早く博多駅近くに到着しました。ここで、解散しました。
運転手さん、お疲れ様でした。
さて、次回からの会について様々な意見がでました。
(1)くるま出しは、安全面から控えた方がいい
(2)運転手の疲労、アルコール飲めない
(3)行程プランニングや取次連絡に、時間や経費が掛かる
(4)ホテル確保が難しい
などから、旅行代理店や同総会代行とか、誌上のツアーに便乗参加とか、委託でやってみるのもいいのでは。ということで、幹事をチカさんが引き受けてくれました。
時期、開催場所はおまかせです。
何かと、条件に合うプランが叶うかわかりませんが、チカさんと新福君にお願いいたします。
誰か言っておりましたぞ。
72Dの会 72歳まであと4回
えー、そうなの?まさか、終わるのー?
481)濡れネズミの懺悔 投稿者:岩 投稿日:17年11月8日(水)12時10分
「運休です」「えっ」「すみません、台風のため運休になりました」「それじゃ、次の便を」「すみません、満席です」「じゃ、その次の便を」「すみません、その便も・・・。」「運休の分、増便とかはないのですか?」「はい、ありません。予約料金は全額戻せますが・・・。」「・・・」
ああ、母が90歳になったお祝いのために、約束した帰郷の日に帰ることができない。仙台を出るときも母から確認の電話が来たのに。母はどんなに楽しみにしてくれていただろう。私を産んで、食べさせて、教育を受けさせてくれて、18年という短い年月で・・・。自分のことしか考えず後ろ足で砂をかけるように、故郷を、母を置き去りにした私。故郷を出て、無責任に、自分の好き勝手に生きさせてもらったのに、簡単に約束を破る息子。私はなんという親不孝を重ねる息子なのだろう。私は母のために何かをしてきただろうか? ああ、母は「こんな子に育てたつもりはない」と思っているに違いない。ああ、私はどうすればよいのだろう。私は初めて踏みしめたであろう大分駅近くのバスセンター前の歩道に濡れネズミとなってポツンと置き去りにされた。土砂降りの中、びしょ濡れになりながら歩道に両膝をつき、両手で歩道に拳をぶつけて泣いた。 なーんてね。びしょ濡れだけは本当だけど、予感はしていたし、博多で明きさんが言ってくれた「レンタカーという手もあるよね」という言葉が脳みその底に張り付いていた。「おう、おう、そう来たか。だから人生は面白い」などと口にしながら駅に向かって歩き出した。駅近くにはレンタカー屋さんが必ずある。で、駅近くの「Oレンタカー」を発見、飛び込む。ニッコリ笑った若い女性店員は、「ご予約のお客様ですか?」「いえ」濡れネズミの私を見て女性店員は、表情を変え申し訳なさそうに「すみません、本日全車予約が入っております。」「ん?」ちょっとの間が頭を整理させてくれる。車が無いということ?「え?」台風の影響で大繁盛しているということ?「え、えっ」ということは他のレンタカー屋さんも同じ状況ということ? ということは・・・ああ、母が90歳になったお祝いのために、約束した帰郷の日に帰ることができない。仙台を出るときも母から確認の電話が来たのに。母はどんなに楽しみにしてくれていただろう。私を産んで、食べさせて、教育を受けさせてくれて、18年という短い年月で・・・。自分のことしか考えず後ろ足で砂をかけるように、故郷を、母を置き去りにした私。故郷を出て、無責任に、自分の好き勝手に生きさせてもらったのに、簡単に約束を破る息子。私はなんという親不孝を重ねる息子なのだろう。私は母のために何かをしてきただろうか?ああ、母は「こんな子に育てたつもりはない」と思っているに違いない。ああ、私はどうすればよいのだろう。私は大分駅近くのOレンタカー屋さん前の歩道に濡れネズミになってポツンと置き去りにされた。土砂降りの中、びしょ濡れになりながら歩道に両膝をつき、両手で歩道に拳をぶつけて泣いた。絶望だ!!! なーんてね。びしょびしょ濡れだけは本当だけど、予感はしていたし、次のレンタカー屋さんを探しに歩き出した。母への罪滅ぼしのように、もっともっと濡れネズミになりながら歩いた。薄い髪の毛も、着ている上着も、持ってるボストンバッグも、靴下も、靴も、母へのこれまでの不義理を詫びるように、びしょびしょになった。土地勘のない大分で、探し回って1時間。「おう、おう、そう来たか。だから人生は面白い」という心が折れそうになった時、車があるレンタカー屋さんに辿り着いた。神は私を見棄てなかった!無信教の私も、土砂降りの雨を顔いっぱいに受けて、心の中で十字を切ったのでした。レンタカーを飛ばし、無事、母との会食の約束を守り、翌日には一緒にデートをし、母が気に入ったプレゼントを買って上げることができました。これが日田同窓会の後日談。めでたし、めでたし。
480)最終報告・・・なんと総勢20名! 投稿者:TOYO 投稿日:17年10月8日(日)21時48分
日田の旅、初めての10月開催で、人数集まるかしらと気になっていたけど、最終的に総勢20名となりました。あと20日でみんなの笑顔に会えるのが楽しみです♪♪
今回の幹事は新福くんとケンゴが頑張ってくれていて、私は返信ハガキのお返事催促をしただけ・・・へへへ。
キャンパスに投稿した次の日にかっぱちゃん、西公郎くんからの参加ハガキが届きました。催促してゴメン。
三宮くんはいとこのマッチョマン(未だに名前を知らない)と当日参加するとのことです。
博多集合組は、
ありまん・アキさん・岩坂・正二郎くん・田中(上村)さん・原(大石)さん・大井手くん・おきゃーま・シタマくん・新福くん・住吉くん・工学部・西くん・ケイコ・チカさんの15名。
車は、新福くん、正二郎くん、アキさんのお世話になります。いつもありがとうございます!!
かっぱちゃんは、自力で旅館に行って、翌朝、自力で有田に帰るそうです。
品川家は、ふたり淋しく八幡浜からフェリーに乗り、焼きそば屋さんで合流の予定です。遅れたら先に食べててね。
岩坂はせっかくの久々参加なのに、なんやらかんやらで忙しく翌朝早くに宮崎に帰るそうです。みんな淋しがってるよ。こんな時くらいゆっくり旧交をあたためていったらいいのに・・何とかしーやね!
ほんじゃあまた何かあったら投稿します。会える日を楽しみに〜☆
479)中間報告・・・というかお返事催促。 投稿者:TOYO 投稿日:17年9月27日(水)00時06分
岩坂、久々に遠路はるばる来てくれるんやね〜。ありがとう!!!
奥さんへの忖度だかノロケだかわからない話を読みながら、岩坂らしいやと思っています。
返信はがきの締切が間近に迫っていますが、まだまだお返事届いていない人がいます。ハガキは重要ですよ。早めに出してくださいね。とりあえず30日必着でお願いします。
今の時点での参加者リストです。
ありまん・アキさん・正二郎くん・岩坂・上村(田中)さん・大石(原)さん・大井手くん・おきゃーま・シタマくん・ケンゴ・TOYO・新福くん・住吉くん・工学部・ケイコはん・チカさん
もう少し増えるかも。早めにお返事してね。
478)GENGO! & SONTAC! 投稿者:岩 投稿日:17年9月8日(金)23時20分
私がまだまだギラギラしていた頃(世の中での勝ち負けに未練たっぷりだった頃)、「みやぎヴィジュアルプロジェクト(M.V.P)」という当時流行っていた一業種一社という組合を作り、儲けようとしている仲間と活動をしていた。組合を作るための手続き一切を自分でやったが、県に承認を得て組合登録をするのは、なかなかのものであった。そのおかげで、今でも(M.V.P)を認可していただいた組織から、毎年色気のない大型の玉カレンダーをいただく。そのカレンダーには何故か平成の年数と昭和の年数が併記されている。今年は「平成29年・昭和92年」というように。平成が始まった頃はまだギラギラしていたので、昭和の年数は何かと役に立っていたが(銀行や公的金融機関からの借り入れの返済年とか)昭和が終わって何年も経ってしまった今は、何のためにと思っていた。先日読んだ読み物に書いてあったのだが、役所の仕事の書類には「平成40年までの10年計画・・・」などと書かれているそうだ。役所の仕事は西暦ではなく、元号を使うのが原則だからだそうだ。しかし、天皇陛下の退位により平成は、30年もしくは31年までと見られているのに・・・である。で、気付いた。あ〜、だから公的機関のカレンダーには前の元号の年数が併記されているのか、と。単純に西暦にすれば良いのに・・・とか、どうも整理されていないような・・・とか。誰も元号表記のお役所仕事に対して本当の気持を語らず(忖度?)、お互いにイライラをつのらせ、そんな感じの・・・、モヤモヤした感じになってしまっている。決められる政治とか言って、望みもしないことを数の力で無理矢理決められたりして・・・、理不尽な隣国との関係は決められなくて、そんなもんで内弁慶の・・・、あー、あー、日本の閉塞感。
新婚当時、私の朝食はご飯と味噌汁。妻はパン。で、新妻は私のためにご飯と味噌汁を作ってくれた。が、今は私もパン。いつからパンになったのか?多分ある時、「パンでいいよ」なんて言ってしまったのだろうな〜。私はその日かぎりのつもりだっただろ〜に、妻は永遠にと解釈したのだろう。私は、妻の負担を考えて「ご飯と味噌汁がいい」と本当の気持ちを言えなくて、そのまま今現在に至ったのだと思う。あ〜、なんだか私はモヤモヤした感じになっている。あれっ?私、忖度している? 少しずつ、少しずつ、私の忖度という妻への偽善の優しさで、自分の気持の居場所がだんだん無くなって、あ〜!!!なんて、一事が万事と、もがいている、頭を掻きむしっている64歳。「バカヤロー!てめーで作りゃーいいだろうが!このハゲー!」(豊田議員風に)と思ってる各位の声が聞こえてきます。その通り、私はいま〜(今井美樹風に)、土日は作っているのです。わが妻は私がギラギラしていた頃から土日は家事を休む人なのでした。(これもいつの日にかの忖度がはじまり?) えっ、あっ、日本の閉塞感と私の閉塞感は、近いな〜〜〜、なんつって。
品川様、「天領日田 鵜飼いの宴」の通知ありがとうございます。九州北部豪雨で〈日田開催〉は無理じゃないかな、と思っていましたが・・・(勝手な忖度?)。あんな辛い思いをした在所だからこそ、行かなければならないのですね。あ、今、上村さんの「被災地に生きる」を読みました。熊本地震と九州北部豪雨が私(私は東日本大震災と)と同じようにリンクしたのかもしれません。だからこそ、少しでも「日田」の方々の笑顔の足しになりましょう! 岩坂、文字通り飛んで行きます!
477)被災地に生きる 投稿者:田中(うえむら) 投稿日:17年9月7日(木)12時54分
先日、72Dの会の案内状を頂きました。もう、そんな時期になったのですね。
昨年、1月、72Dの会で、皆さんと再会して、3ヶ月後に、熊本地震が起きました。
何の予告もなく、突然襲った、震度7の大地震。それも、2回、熊本の大地を揺るがし、人々は、恐怖の日々を過ごしました。
昨年、4月14日夜、大きな揺れと共に、ギシギシと音をたてて、家が、大きく揺れました。
電気は消え、家の中は、いろんな物が散乱し、手探りの状態で外へ出て、車の中へ逃げ込みました。車中泊の始まりです。
真っ暗な空に、10機余りのヘリコプターのプロペラの音と、引っ切りなしに走る救急車のサイレンの音だけが聞こえる、まるで、暗黒と恐怖の世界でした。
余震は続き、安心のできない時間が過ぎました。
そして、初めの地震から28時間後、16日の深夜に、さらに大きな、地震が、熊本を襲いました。このとき、我が家は、車中泊をしていたので、幾分、安全ではありましたが、乗っていた車は、左右に大きく揺れ動き、まるで、車が横転するほどの大きな揺れでした。
2度目の地震で、多くの家が損壊し、何人もの人が命を落としました。
家の中は、大変な状況で、タンスや本箱は倒れ、台所の食器は落ちて割れ、家の中は、住めない程に、物が散乱していました。おまけに、我が家は、瓦が大きく動き、2階から1階にかけて、雨もりの大被害でした。
震源地から、車で10分から15分位の距離にある我が家の周辺は、半壊、全壊の家が、何件もあります。我が家も、半壊でした。
今回の地震で、解体した後、更地になった土地や、新しく建築が進んでいる家等、街の風景も変わりつつあります。
私が住んでいる所は、昔から水の豊富な所で、自噴している井戸水も有り、ガスは、プロパンガスなので、水とガスには困りませんでした。
しかし、余震の続く中、片付けも思うようにできず、11日間の車中泊をしなければなりませんでした。
自然災害は、ある日突然に起こります。予期していなかった災害に、一瞬にして生活が変わるのです。本当に、怖いものです。
今年、7月に起きた、九州北部豪雨も大変な被害でした。本当に心が傷みます。
熊本も全国から、たくさんのボランティアの方に来ていただきました。大変、有り難いことです。
時間と共に、人々の心に、少しずつ希望の光が見え始め、みんな復興に向けて、前向きに歩いています。
私も、明日へ歩いています。
476)ひまつぶし?(パート2) 投稿者:SHOU−JI−ROU 投稿日:17年5月21日(日)21時07分
昨年、家業をやめてから今は副業のみボチボチしているけど、何だか若い頃の時間感覚に戻ったような気がしてならない。
周囲の人や近所の知人からヒマだろう?!とか、悠々自適だとよく言われて、決してそんなにのんびりしているのではないし、それほど見られている自分が厭でたまらない。
ただ、スローな時間に対する思考や認識の格差に違和感があるんだけど、それはもう一人の自分自身が順応しきっていないみたい。
家業をしていた以前の自分のように何かキチンと気がすまない性分が原因だろうか?
あと2〜3年たったら日常生活のリズムに慣れていくだろうね。
ヒマな時間は「72Dの会」HPをみています。やっぱ、他の人の書き込みが面白いですよぉ!
PS:::41年ぶり5人の侍が揃いました!楽しかったですね、快晴の上、まばゆい新緑の湯布院や鶴見岳ロープウェーなど景勝地を満喫しました。特に九州湯布院民芸村にある「銭屋」の料理は本当に美味しかった。忘れられません。勇悦くん幸福度100%に間違いなし!
475)ゆうえつ来福。41年ぶりの再会。 投稿者:シタマ 投稿日:17年5月19日(金)07時00分
ゆうえつが5月15日〜18日まで、3泊4日で福岡に遊びに来ました。
仙台でデザイン事務所を奥さんとしていたのを止め、盛岡に転居。自由になったのを機にやって来たのです。花巻空港から直行便があるんやね。ゆうえつは初めて飛行機に乗ったんだって。50人乗りで、かなり揺れたから怖かったそう。それはさて置き、3泊とも新福の家だから、41年分の隙間をたんと埋めたことでしょう。
自分は、2日目、朝9時に福岡市役所前で合流、3人でまずは九産大へ。去年正月に来た時は静まりかえっていたキャンパスは平日昼間とあって学生たちであふれてました。、若者たちのエネルギーを存分に頂いた後は、芸学館内へ石井さんを訪ねました。15年ぶりの石井さんでしたが変わってませんね〜。新しい学科や校舎のこと等いろいろ聞いた後、マックがずらりと並ぶコンピュータ室を見学。うらやましかったけど、またここからやり直したくはないなぁって気持ちになりました。(笑)
石井さんと別れて、一路、佐賀へ。途中、砂浜で水着姿のモデルさんを盗撮。唐津にある鏡山に車で登ったあとは、麓にある海鮮料理「漁師村」で新福おすすめの「活いか造り御前」を注文。これは、以前、岩坂が来た時も堪能した逸品。締めのゲソのテンプラをつまみながらのビールは特に旨かったなァ。新福、我慢してや。
福岡に戻り、自分は一旦ホテルにチェックイン。夕方6時に天神の大丸の角で待ち合わせ。15分遅れて正二郎登場。彼も今日はホテルに泊ります。電車事故のため30分遅れて新福とゆうえつ到着。さぁ、呑むぞぉー。
腹いっぱい呑んだあとはラーメン屋へ。新福はトンコツの味に納得してなかったけど、自分的には美味かったなぁ。ここで、今日は解散。
次の日、朝9時にホテルに迎えに来てもらって、車2台でいざ大分へ。鶴見岳のロープウェイで山上駅まで昇り、さっさと写真を撮って高原駅に戻ってきました。と、ここで7年ぶりの三宮がいつもの雰囲気でお出迎え。これで、学生時代、線路沿いの道をよく一緒に帰っていた5人が揃いました。まさか、こんな日が来るなんて・・・。
ところで、憶えてますか〜。ここ鶴見岳は17年前、72Dの会を別府でした時、2日目に行ったところです。同じ場所で記念写真をすませ、目的地の湯布院へ。
湯布院は平日だけど外人の観光客でいっぱい。服装とか言葉でしかよく分からないけど、日本人より韓国人、中国人がきっと多かったでしょう。ここで一つ感心したことは、正二郎がバスのフロントガラスに張ってあるハングル文字を読んで訳してくれたんです。以前、韓国語を勉強してるって言ってたけど挫折してなかったんだ。すごいね。
昼飯は三宮が予約してくれてました。湯布院民芸村の中にある「銭屋」という和食処。重厚な風格の中で食事を美味しく頂きました。オーナーが三宮のお客さんとのことで挨拶にきてくれました。
食事の後は金鱗湖を巡り、ここでも以前撮ったスポットでパチリ。コーヒーで一息つこうと行った「天井桟敷」(ここも前行きました)は順番待ちのため断念。土産屋の裏手でいい所を見つけ、三宮がおはぎを振舞ってくれました。この一角は静かで緑がきれいな所でした。
3時頃、三宮は東へ大分、正二郎は用事があると西へ久留米、自分たち3人は南へ阿蘇・大観峰を目指しました。自分は少々グロッキー。まだ行くんかい。車に乗ってるだけでも疲れるもんですね。居眠り運転気味の新福を置いて寝るわけいかんしのぉ。やまなみハイウェイのカーブを飛ばすは飛ばすは。途中、長者原の景色がいい所で休憩。湯布院を出て約1時間15分、大観峰に着きました。久しぶりでしたが、阿蘇五岳を遠くに望み、とにかく雄大で清清しい景色でした。
と言う訳で、次の日ゆうえつは満足して盛岡への帰途についたことでしょう。
又会おうな。
ところで、今回、久しぶりの仲間たちと会ったけど、人間てのは話し方にしても性格にしても、あまり変わらないもんだね。安心もしましたが。(笑)
※フォトワールドから写真をご覧あれ。
474)ひまつぶし? 投稿者:あきさん 投稿日:17年4月27日(木)13時09分
季節の変わり目はとっくに過ぎたのに、風邪ひいて体調こわし、家でじっとしています。
そこでひまつぶしにと、キャンパスをNO.1から読んでいた。最初の頃は、結構みな頻繁に投稿していた。おなかをかかえて笑う文章もあって、いい塩梅で楽しませてもらえる。さいきん少ないので、風邪でちっとも頭のまわらない私もひまつぶしです。
くだらん事ばかりになります。
携帯スマホで音楽聴きながら、でも止めようとするが止め方が解らない。そこで最新便利な話しかけで「音楽、終わります(あきさん)」 するとスマホが答える(スマホの声は女性)「イヤな気分にさせましたか?せめて、さよなら と言ってください」
ヒェー!!
美人に優しくも冷たく断られた時のような気がした。
こんな動揺のまま、初心貫徹、今日中に送信しよう。
さて、最近ローカルのテレビ番組が面白い。
「ドォーモ・DUOMOGH」
平成元年より放送開始の福岡kbc深夜放送バラエティー情報番組である。私が観だしたのは(録画して)ここ4,5年くらいだが。主婦は早朝起床の為、こんな遅く起きてることがない。
数ある企画の中で、最近の「前略、道路(みち)の上より」が面白い。
断っておくが、有意義を提供するために「みてください」というのではない。何も考えずに、ただ観るだけでいい。
日本各地の 酷道・隧道 を、レギュラーのマイカー軽で大の男4名(アナウンサー・ディレクター・カメラマン・地元のタレント)が乗り込んで走り回る。まさかと思う狭き道やトンネルは日本中あるところにはあるもんだ。
登場のアナウンサー君が行程をプランたてるのだが、新福君が計画するのにも似たような覚えがある。計画する時ってネットで確認したり、実際行って確認したり、すっかり頭に入っているだろうに、初めてのような顔をして案内するねェ
なかでも、愛媛県のみかん山では笑った。よくもあんな狭き、農道、山道、片側は絶壁の舗装もなき道を行ったもんだ。まさに命がけだ。その道を抜けきるまでの彼等4人の悲鳴のような叫び声や、裏腹に他を陥れるがごとき話と笑いは、何の取引もせずに観る側の笑いをとっている。
愛媛のみかんといえば、「紅マドンナ」はどんな条件のもとで作られてるんだろうね?
以前、とよさんが同窓会で持ってきてくれたよね。
このコーナーはD?XD化されて、第1段、第2断と好評中のようだ。九州外のファンも多いらしい。
福岡のテレビ局制作の番組で全国ネットに乗ったものもある。
「たびずき」
前川きよしとえとう窓口がコンビでぶらりと歩き回りながら、地元の方々と話すだけなのに結構な笑いをとっている。ぼくとつなちょっとだけ田舎人のでてくる風貌そして人生を習得したような会話、さらにエロっぽいところも見せつつ相手に失礼なおしゃべりも前川きよしという人間は、皆に好かれてしまっている。そこを旨くパッチワークしているのが、えとう窓口!窓口は、前川の失言を詫びている。二人のテレビ上での上下関係だろうが、窓口の常識たる人間性がでていて、気持ちがいい。
ぶらり旅でもうひとつ外せないのが、「なんしょ〜と?」
博多華丸・大吉の番組。ゲスト(殆どがよしもと芸人)と彼らが、しゃべくりながらその日決められた地域を歩き回る。
3月のある日、ツイに我ら72Dの会のメンバーが登場した。
「なんしょーと?」というか「何をする会社ですか?」と、パソコン相手に座っている、髪を低い位置にポニーテールしたおじさんにインタビュー。博多織の絵柄をパソコンでデザイン。彼は、15か月前の同窓会に来た時と変わってなかった。
その姿を見るや否や、ありまんにTEL「観なさい」と一言。よしもう一人、画面の彼を見逃さないように新福君に「今どこにおると?テレビ観てごらん、栫井君よ」と言うと「あ〜、だいじょうぶ〜、丁度録画しとーけん」新福君はゆとりで久しぶりの私(早く切らないとと焦っているんだよー)と話し出した。2月3月に牡蠣食いに行こうと誘われながらも返事をあいまいにしていたから、会話を進めてきた。あーッ、画面から
栫井君が消えてしまっていた。このことは、10月の日田同窓会で追及すべきか・・・
時間にして2分あったかどうか。コマーシャルの2分は長いのに、知人出演の時間としては短すぎた。
栫井君が変わりなくいてくれたことに、10月の再会が待ちきれなくなりそうだよ
すぐにやってくる連休は晴れ続きそうです。楽しい報告お届けしますね
あきさんでした
473)博多の水炊き食べたい。 投稿者:TOYO 投稿日:17年4月21日(金)21時09分
ありゃら〜ん!
せっかくのシタマくんからの提案ですが、もう旅館は予約しています。実は新福くんにもまだ相談してないけど、ケンゴが、屋形船で食事をしながら鵜飼を見物できる旅館を探して、とりあえず予約を入れました。
一番賑やかな場所からは少し離れているけれど、お値段はかなりリーズナブル♪♪
例えば博多だったら名物の水炊き、もつ鍋、塩味の焼き鳥など、もろもろの料理を堪能して、ビジネスホテルでイビキを気にせずぐっすり眠るなんていうのもいいですね〜。
行く先が決まったらその土地の名物料理を食べるなんてのもいいですね〜。
次の機会に、ぜひぜひ!!
472)桜の木って増えたよね。 投稿者:シタマ 投稿日:17年4月13日(木)16時40分
ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ
(百人一首、三十三番 紀友則)
先ほどこの情景のままの小倉城天守閣前広場で、今年3度目の花見をしてきました。
今年はこちらでは花見頃の気候が悪く、他人事ながら出店の人達が可哀想な年になりました。
今朝息子の同期生の訃報が届きました。くも膜下出血。昔から知ってる子だけになおさら、改めて人生のはかなさ、無情さを感じます。
コーチの葬儀では
ちるさくら のこるさくらも ちるさくら
(良寛) の弔電を岩坂から頂きました。
明日は我が身とは思いつつ、何故か昔のネガフィルムをデータ化にいそしむこの頃です。
ところで、トヨさん次回幹事ご苦労さん。
今まで正月だから来れなかった人が来れたら嬉しいね。
宴会場と宿泊は別で、ホテルでもいいと思うよ。
その方が安いしゆっくり寝れるかも。
471)日田焼きそば食べたい。 投稿者:TOYO 投稿日:17年4月2日(日)21時31分
皆さん、お久しぶりです。東日本大震災から6年、コーチが逝ってしまってから6年、熊本大地震からもうすぐ1年になろうとしています。
言い古された言葉だけど、月日がたつのは本当に早いものです。60才を過ぎてからは、毎日があっという間にすぎていく気がします。ああ〜もったいない!
皆さんの所では、桜は咲いていますか?
今年の頓田川の桜は、一向に咲き始めてくれません。今日は雨で様子がわからないんだけど、明日、内職の配達の時に劇的に咲いていてくれたらいいなと思ってます。いい加減に咲き始めなきゃ、早くから小屋を建てている婦人会の、おうどん屋さんが困ってるよ。ちょうちんも雨でボロボロになってしまうよ。この分では、咲いてもすぐに散ってしまうだろうなとそればかり気にしている毎日です。
さて、今回初めての試みの、お正月以外で開催される72Dの会。幹事の品川家のわがままを聞いていただき、10月か11月にということで検討してみました。
同じく幹事の新福くんの了承を得て、10月28日(土)29日(日)で行おうと思っています。
まだまだ予定も立てにくいことと思いますが、我々も日にちを決めないと宿も取りにくいので、早めにお知らせします。
開催場所は、大分県日田市・・・日田焼きそば食べたい、鵜飼も見たい、豆田町も歩きたい・・・
あと半年あるので、とりあえず日程だけお知らせしておきます。
年に1回くらいの投稿になってしまっているし、スマホにラインメールだから、パソコンの文字入力が出来なくなってるわ〜。どんどん衰えていくんやね。岩坂はすごいわ!!
470)東日本大震災・大津波から6年が経ちます。 投稿者:岩 投稿日:17年3月9日(木)10時36分
バスケットの新人戦で女川に行ってきました。女川はまだ、かさ上げ工事が行われています。新しい道路が敷設され、カーナビの画面は道なき道を走っています。高台にあり何度も行ったことのある「女川総合運動場」は見えているのになかなかたどり着けず、遠回りをしてやっと着きました。以前「女川総合運動場」には体育館を残して野球場と陸上競技場に、よく報道で見る仮設住宅が建っていたのですが、6年かかってやっとマンションのような災害公営住宅になっていました。震災を思い出すからとか震災を忘れないようにとか、6年経って「震災遺構」の論議も少しずつ落ち着いてきました。「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」役に立たないカーナビ、早くこのカーナビのデータを更新しなければ。が、この更新されていないカーナビのデータは、震災以前の女川を詳しく残す大切な「震災遺構」になるのかもしれません。
仙台市の東、荒浜。仙台空港が津波に襲われている時、涙ながらに実況していたラジオのアナウンサーが同時に刻々と入る荒浜の状況を「町が消滅したそうです!100人以上の人が流されているそうです!もうすぐ日が暮れてしまいます!早く早く救助してください!」と絶叫で報道された町です。その荒浜のミニバスケットボールチームの指導者は「建てて1年ちょいの家に津波がドンときて、家を震わせて根こそぎもっていかれたよ」と。「よく生きていたな〜」と人ごとみたいに自分の命を語ります。そして今年、国の正義を装った一方的な力と、地方自治体の努力により、消滅した町の一部の住人が高台にできた町に移転し、6年かかってやっと新しい暮らしが始まりました。荒浜地区は、亘理地区と同じように復興への取り組みが早く、復興の町造りは一番早いのではないでしょうか。だから他の地区の町造りはまだまだなのです。「前の家がよかったな〜、前の所がよかったな〜」が新しい町に移住した荒浜のミニバスケットボールチームの指導者のつぶやきです。
6年経っても、仮設で暮らしている人は3万人以上います。そこで暮らす人々の格差が明確になってきた6年でもあります。家族を失い、家を失い、仕事を失い、自信を失い、希望を失い、差別に遭い、自分の人生は何だったのだろうと、もう仮設で終えてもいいと。私たちと同年代の人たちにとって、この6年は希望をあきらめる6年だったのか。内側に剣先を向けてジワジワと刺さるのを待つ、終わりへの始まりの6年だったら、あまりにも長く残酷な年月なのかなと思ってしまう。
東日本大震災・大津波から6年が経ちました。
469)「の心配はありません」のやさしさ。 投稿者:岩 投稿日:16年12月30日(金)22時53分
「この地震による津波の心配はありません」。最近日本全国でよく流れる地震発生後のテロップやアナウンス。よく考えると→「この地震による津波はありません」で良いのでは? で、「の心配はありません」・・・の意味は?ありようは? 今年流行した「ほぼ、ほぼ」と一緒? 絶対ではない、100%ではないけどそれに限りなく近い という逃げのための言葉? それとも地震で動転し、動揺している人に対して呼びかけるために、やさしさや、いたわりを含めた言葉? =特異点= AIは、2045年に人間を完全に追い越し独自に考えるようになる。AIに、人の脳の中にある情報と神経回路網のネットワークをすべてそのままアップロードすれば、人の意識はAI上に完全移植されることになり、そこで感じたり、考えたりすることができる。つまり人はAIの中で不老不死を獲得する。このとき社会は根底から覆ることになる。これを特異点と命名した。これがレイ・カーツワイルの予言。集積されたビッグデータでAIが分析・解析して次の時間へ人間の感情・心をつないでいく(成長していく?)と。 ふざけんじゃねー!!! 突然、恋したらどーすんだ! 突然、憎しみを覚えたらどーすんだ! 人間が生き続けるときに、次を簡単に予測できるような生き方はないのだ。人間はその時その時で変化し、分析・解析なんてできない感情を持つものなのだ。 AIよ、カーツワイルよ、人間を見くびるなよ、なめんなよ、このヤロ〜! だからビッグデータだの、AIだの、エラソーな予言だの、そんなのかんけーねー! それよりは少しでも人間の心に寄り添うやさしい言葉「の心配はありません」をAIの中に満タンにしてくれよ。ビッグデータだのAIだのと共存しながら、人間の感情を決めつけない優しい未来が来て欲しい。 2日後の未来は、新しい年。みなさん、酉年だからといって、三歩あるけば、すぐに忘れるというボケ「の心配はありません」。よいお年を〜。
468)立花山の霧晴れて 投稿者:SHOU−JI−ROU 投稿日:16年12月11日(日)21時26分
この秋、香椎祭に行って来た。72Dの会に次いで2回目だった。
地元の楠風会大川支部の呼びかけに応じたけど、この日の参加者は5人と少なく寂しかった。だが、後輩たちが年長の僕に気を遣って最後までくつろげたことが気分的に良かった。
この日は曇りひとつない快晴そのものだった。駅に近い北門に入ると、人出が多く賑わっていた。並み木道の両側には白いテント群がひっきりなしに並び、食べ物や飲み物などのコーナーがそれぞれ特色を売り出ししていた。
もう300メートルぐらいあろうか、どの店も飲食関係ばかりで本当につまらなかった。あたりは焼そば、ハンバーガー、ソーセージ焼、カラ揚げなどの匂いがプ〜ンと鼻をかすめた。
濃厚な匂いの割には結構売れているとは見えぬ様子だったので彼らは手を余していた。突然、女の子が一人飛び出し前方を遮った。冷たいアイスはいかが!?特価でいいですよと。いやはや、これはびっくり、とはいえ戸惑いしつつ、しぶしぶ、仲間の分をまとめて買った。
それから歩いて、広大なステージ広場に着いた。ちょうど昼食の時だったので、後方に拡がる芝生のところに行ってベンチ代わりに座り、買っておいた唐津ハンバーガーを頬張った。
ステージ舞台の方へ視線を変えると、女の子たち5人がAKB48よろしく衣装の格好で元気よく踊って歌っていた。彼女たちの歌声は訳のわからんメチャクチャだし、絶叫で大きなスピーカーから音量が周囲を圧していた。まるで豚が悶絶した悲鳴に近かった。
食事をすませた後、楠風会本部事務所がある2号館7階へ向かった。事務所は眺望の素晴らしい部屋らしく、ベランダに出ると視界が周囲を遮るものがなく、鳥になった気分で清々しかった。
♪立花山の霧晴れてぇ〜、あの山が立花山の姿だなと、ふっと長い時空を超えた何かをとらえた気がした。今も変わらぬ立花山は永遠にそのままだろう。
ここの学生たちは本当に恵まれていると思う。なにせ、学生食堂が全部で六ヶ所があるのだから食堂というより高級レストラン風に近い。軽喫茶、カフェ、ドリンクコーナー、そして安い値段で提供している。基山パーキングよりもっとマシだと羨ましい。でも、よく考えてみるとこんな環境に慣れてしまうと厳しい社会環境に耐えられるか、資質の問題やなと彼ら達を思う。
帰途に北門に面したオープンカフェに入った。72Dの会の時は閉店だったので外から中の様子しか見られなかった。
ここでは手作りのワッフル(バナナとブルーベリー)とベルギーコーヒーを特価で買える。ホント文化祭だから百円の値段でサービスがいいのねぇ、ここは。
コーヒーの香りに包まれながら、僕は後輩たちの母校の変わりようと文化祭の感想に耳を傾けていた。すると後輩の一人が僕に感想をたずねた「僕の人生の役目は終わった。もう2度とここへ来ることないだろう」と、このように答えた。
PS::父の代から長年続いたガソリンスタンド(以下SS)自営業は8月末で廃業しました。隣接の病院が承継下さってそのまま運営しています。自分は副業をボチボチ仕事をしています。時間的余裕が増えて、これでいいのかなぁと戸惑っています。
さて、年末になると誰が大トリになるのか?またどんな名メッセージを披露
するのだろうか? 楽しみにしていまぁ〜す!
467)陥没 投稿者:岩 投稿日:16年11月9日(水)10時31分
信じられないことが起こった。よく「ビックリ映像」で中国あたりでの出来事で見かけますが、まさか日本で、しかも博多で起こるなんて!!! 博多在住の方々、生活に支障はないですか?
同じ路線の工事で過去に2回、陥没があったとか。出来上がった町の地下を掘り進めるのですから、その空間を保持する技術、地層の問題等々、素人なので良く解りませんが、地下に路線が通る地域はドキドキですね。また起こりうるかもしれないと専門家は言ってました。この後、復旧に時間とお金が沢山かかるのは想像に難くありません。不便な生活が続く人も居るかもしれませんね。長嶋茂雄が「人生山あり、海ありです」と言ったとか。落ちていく「谷」ではなく、落ちても浮力のある「海」。人生をポジティブに考える人の言い間違いなのでしょうか?
466)日本の風物詩 投稿者:岩 投稿日:16年7月14日(木)22時39分
第98回全国高校野球選手権大会の各県予選が始まった。全国紙やスポーツ紙にこの予選の全結果が掲載される。これは凄いことである。例えば、近所のよくあいさつをするお兄ちゃんが、練習試合で一度も勝ったことがなく、土日は練習休み、遠征など一度も行ったことのない弱小野球部の部員で、2度目くらいの公式戦を戦う。本当にローカルなその試合結果が全国紙やスポーツ紙に載るのである。他の運動部では考えられない、日本ならではの風物詩なのである。いつも宮崎のチームが気になり見ていたが、何年か前から、他県の有力高校の情報を得たくて全国の結果を見るようになった。そうして見ていると、予選の早い段階では野球とは思えない点差の試合があることに気づく。7月11日(月)(前日は日曜日。多分平日よりは多い観客だっただろう)新潟県の上越総合技術 対 正徳館の45対0という結果が、7月13日(水)には栃木県の今市工 対 日光明峰の49対0という結果が載った。「こんな時は負けた子供たちのことを思う。弱い部活だったとしても、高校野球を通じて、その子が自己実現したり集中力が身についたりしてればいい。数値や表面だけの成果を求めてはいけない」などと言いたいわけではない。県予選だから5回コールドだろう。今市工は(49点の大勝利なのにイマイチとは・・・。)49点を獲ったのだから49人がホームベースを駆け抜けた。それに、5回だからアウトになった人数が3人×5回=15人、例えばMAXで毎回残塁が3つとして5回だから15人、つまり、49人+15人+15人=79人がグランドを駆け回ったことになる。1回にバッターボックスに入った人数は79人÷5回=15.8人(約16人)、一人の選手がバッターボックスに入った回数は79人÷野球チーム9人=8.8回(約9回)。勝ったチームは1回に打者一巡してから6人が打席に立ち、試合が終わるまでに一人の選手が約9回も打席に立ったことになる。こうして数字を並べてみると、負けたチームよりも勝ったチームと観客のほうが、はるかに強い(負けない?)気持ちと集中力が必要だったのではないかと思うのである。もちろん人間はできたことよりも、やりきれなかったことのほうが記憶に残る。できたことはすぐに忘れるが、やりきれなかったことは、疼きのように、ちょっとした拍子に首をもたげる苦しい体験であることには違いない。だからこそ、選手諸君!勝っても負けても「めげるなよ!!」。そして高校野球に携わる全ての人に・・・健闘を祈る!!!
465)肥後もっこすで、へこたれません!! 投稿者:TOYO 投稿日:16年6月24日(金)22時50分
熊本在住の皆さん、九州在住の仲間たち、地震のお見舞いも言ってないまま、どこもかしこも大雨の被害を受けている状態になってしまいました。
特に熊本は、余震が続いているうえに土砂崩れの被害が起きて何人かの犠牲者がでてしまいました。雨はこの週末も降り続くようです。十分に気をつけて下さい。
熊本・・・阿蘇山、熊本城、美味しい食べ物が豊富で、風光明媚なな素晴らしい所です。
熊本城のあの美しい石垣が見るも無残に壊れていたのをテレビで観て、ものすごくショックでした。72Dの会で行った時に、私達の専属ガイドのごとく観光案内をしてくれた、かわいい忍者姿のゆかちゃん、そして、その指導者の先生。一生懸命、石垣の素晴らしさを説明してくれました。
あの二人のおかげで、熊本の旅が忘れられない思い出になっています。
二人ともどうしているのか気になります。
少し前に、市民の要望で、ライトアップされた熊本城が痛々しい姿でありながらも、凛として立っていて泣きそうなくらい感動しました。
私が大好きな「くまモン」が姿をあらわすと、子供たちがいっせいに笑顔になって、嬉しそうだったのも感動でした。
植木のすいか、今治でも有名ですよ。この間、義姉からもらった西瓜は「JAかみましき」産でした。美味しかったです。
すいか買います。くまモングッズ買います。熊本産の野菜買います。
72Dの会で行ったあと、もう一度ゆっくり行きたいと話していた熊本。魅力いっぱいの県なので、一日も早い復興を祈ってます。
464)震災、その後。 投稿者:田中(うえむら)) 投稿日:16年5月22日(日)18時25分
この度の熊本地震において、電話、メール、メッセージを頂いた方、そして、心配をして頂いた方々、本当に有り難うございます。
早いもので、最初の地震(4月14日)から1ヶ月が過ぎましたが、今も余震は続いています。
震度7を2回体験し、毎日が、恐怖と不安と疲労と安らぎの無い日々でした。
何から語り出したらよいのか、気持ちが見つからないまま、今になってしまいました。
熊本市内でも、震源地から近い所に住んでいる私は、大きな揺れを体験し、車中泊もサバイバルな生活もありましたが、お陰様で元気で過ごしています。
463)今、花はなごみの香で癒してくれるか? 投稿者:あきさん 投稿日:16年4月22日(金)10時14分
熊本で震度7を体験した母を福岡に呼び寄せた。寝られない数日を過ごして、血圧も神経もパンクすんぜんだった。妹や姪っ子たちは、店の再会がままならない状態で、復興に加勢し、3日で別人のように様変わりしたその顔は(姉だから言うのではないが、そこそこ綺麗な女性だ)、涙がでるほどだった。
高齢な母は、薬の管理が必要になる。熊本でかかりつけのクリニックはファックス転送で処方箋を出してくれた。それでも、おおきな検査をする必要のある病院へは、渋滞の中連れて行かなくてはならない。自家用車は乗り入れをひかえよ!だから、16日に1度行ったっきり行けずにいる。
高速が新幹線がつながり、ずっと、心は繋がっていたので尚更にホッとした。
そんな中、熊本市内の田中さんに連絡していたところ、心がほころぶメールが届いた。
短い文面に、多くの心情が含まれていた。田中さんは、自宅で入浴可、炊事可、だけど、余震が怖くて近所の人たち同様車中泊しているそうです。
彼女らしい人柄で、にわの家族同然に思える花に目が向いたのだと思います。
ときには足元をみよう。ときには周りをみよう。ときには空を見上げよう。
がんばっぺ くまもと
がまだせ くまもと
<田中(上村)さんからのメールと添付の写真>
花満開
我が家の庭に、ナニワイバラとクレマチスの花が満開です。
花は何も知らずに、今年もきれいに咲きました。
当分、車中泊が続きそうです。

462)住吉、上村さん、そして揺れている地面で生きている人たちへ。 投稿者:岩 投稿日:16年4月18日(月)9時47分
卒業の時に「言葉にならないや」と言った、言葉を大切にする住吉。いま私は同じ体験をしたものとして「言葉にならない」。何を言っても本当のところに届く言葉は無いし、上滑りのきれいごとにしか聞こえない言葉になってしまう。しかし、私は同じ体験をしたものだからこそ、勇気を出して言葉を絞り出さなくてはならないと思う。
いつになったら日常は戻るのだろう?震災以前と同じような日常に戻ることはない。失われた諸々がある限りそれを元に戻すことはできない。新たな環境に慣れていく、それがこれからの日常になっていく。そう思って1分1秒を過ごしていくしかない。
余震が続く、それがきつい。
東北は5年が過ぎた今でも揺れている。地震の発生原因は違うとしても、九州はまだまだ余震は続くだろう。その度に身体を硬くして耐えることしかできない。
「3月11日から数えて26日後の4月7日大きな余震がありました。仙台在住の作家 佐伯一麦さんは古井由吉さんとの往復書簡で「(略)震災からほぼひと月経った4月7日の深夜の最大余震は、家に留まることができた身にとっても、不安定な日常を生きていく姿勢をどうにか持ちこたえていた心の梯子を外されたような気落ちを覚えました。」と書いています。私も、本当に張り詰めていたものがプッツリと切れたのを覚えています。」と強い余震を体験した後、私は書いています。ほんとうにきついのです。気持が切れてしまうのです。でも、私は今、生きています。皆さんの温かい気持が、切れそうな自分の気持ちを結び直してくれたのだと思います。
「頑張れ」とは言えません。東日本大震災では、被災者から自然に「がんばっぺし」という言葉が出てきました。その言葉のおかげで行動を起こす力が湧いてきた経験があります。
72Dの皆さん、直接的にも、間接的にも、いま何ができるか、それを思うだけでも大切なことだと思います。住吉、上村さん、そして揺れている地面で生きている人たち「がんばっぺし」!!!
皆さまお元気ですか、
>第4回1984年の写真に大井手クン写ってますね。
>やはりドリームボートに来てたんですね
>この写真、今回整理してたら出てきました。
写真ありましたか、よかったです。牡蠣おいしそうですね、
「巨大防潮堤」。雄勝のまちは、硯やスレート屋根(東京駅の屋根材)の生産で栄えた。需要が減ると遠洋漁業に、次はホタテ養殖に活路を求めた。雄勝のまちは、海と共に活きてきた。津波をかぶったまちの跡は「災害危険区域」に指定され、もう人は住めない。高台の集団移転地が完成し、そこに人が戻ってきたとしても、住むのは震災前の620世帯から約80世帯になるという。「災害危険区域」に造られる、高さ9.7m・延長3.5kmの巨大防潮堤。海が見えなくなると海と共に生きてきた人は言う。ふるさとの原風景を「あいまいなまま」に「喪失」して、何を守るのだろう、130億円もかけて。
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「失神」とは? 耐えられない痛み、耐えられない恐怖、耐えられない絶望、それらを予見した時、その苦痛を回避するため、脳がそれらのつながりを遮断し自分を守ること。
「耄碌(もうろく)」とは? 明澄な意識に突如訪れる死は悲惨。だから、完全な暗闇に入る前に薄明りの中で現実の生臭さを忘れ、薄明りに目を慣れさせ「夢のつづき」を見させてくれる仕組みを、人間の生の後半に神は用意した。生者が現実の生臭さを忘れるどころか、「死を越えて夢を見る」という境地に入れば、死は「夢のつづき」かもしれない。
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バスケットの試合で南三陸に行ったとき、「亡霊タクシー」の話しを耳にした。まだ興味本位の怪談話として。それから1ヶ月ほどして、大学生がその類の話を集めていると新聞に載った。ああ、あのとき聞いた話しのことかと思いながら、ちょっと真面目に記事を読んだ。それからずっと「亡霊タクシー」が気になっていたが、今度は“「亡霊タクシー」と死と宗教”という見出しで新聞に載った。被災したいたるところで亡霊現象が発生していると。5年前のあの日、町や村、商店街や住宅地、家の内や外、川や海、いたるところで人が死んだり行方不明になった。「失神」もしないで「耄碌」もしていない人の恐怖まみれで、悲惨で、無念の死。行方不明という名の成仏できない人の霊が、そう、いたるところに漂っている。そんな亡霊に出会った人たちの話しでは、恐怖心から、だんだんと畏敬の念に変わっていったという。震災を過去のこととし、復興に挑む人もいるが、前を向ききれず心が追いつかない人もいる。そうした「追いつけない心」が亡霊現象を肯定しているのだろう。残ってしまった者は「追いつけない心」を抱えたまま、亡霊に出会ったことに「よく私の所に来てくれましたね。ほんとうにありがとう」と心の底から思い、自分が抱えている「追いつけない心」に折り合いをつけようと、もがいているのだと思う。加えて、行方不明者を抱える人は、死者でも生者でもない「あいまいな喪失」がいつまでも心に残っている。そしてその「あいまいな喪失」は、時が経てば経つほど、折り合いがつかない説明しがたい重い呪縛となり、残された者の「追いつけない心」を増長していく。
あの時から5年が経とうとしているのに「あいまいな喪失、追いつけない心」はまだいっぱい被災地に漂っている。
警察庁発表、2016年1月8日現在の行方不明者「2,563人」、 警察庁発表、2016年2月10日現在の行方不明者「2,562人」。年が明け1ヶ月で・・・今までなかなか減らなかった行方不明者が一人減った。
名簿、新福クンから届きましたか〜?
第4回1984年の写真に大井手クン写ってますね。
やはりドリームボートに来てたんですね
この写真、今回整理してたら出てきました。
ところで、昨日、新福、ありまん、あきさん、ひよこちゃんと糸島の牡蠣小屋に行ってきました。
飲み物の持込みOK。なんと太っ腹。新福所有のクーラーボックスにビール、ノンアル、焼酎などたっぷりと持ち込ませて頂きました。お陰さまで牡蠣、いか、ほたて、さざえ・・・たらふく食べて、一人1600円也。安かった〜。
フォトワールドに写真をアップしてます。(160215糸島牡蠣小屋)
本当に皆さまありがとうございました。
なつかしく、感動の一日でした。40年記憶がもどり、タイムスリップしたような・・・笑い
とよさん・あきさん・新福・シタマ・石橋・ケンゴ・鷹巣・住吉・栫井・森・
原(大石)・小佐井・有馬・土井・田中・金丸・石川・竹田(ひよこちゃん)
まだまだお話ししたい方がたくさんおられたのですが・・・お話ができず、失礼しました。
皆さまお世話になりました。
どうにか名前と顔を思い出し、書いてみましが、抜けていたら、ごめんなさい
今まで72Dの会を存続させていただき、ありがとうございます。
また2年後を楽しみにしております。
大井手りょうた
457)第20回 ハプニングの同窓会 投稿者:あきさん 投稿日:16年1月26日(火)15時59分
2016年 平成28年 申年
あたたかい正月で始まりました。
今回のスケジュール
1月3日 13:00 集合
14:00 九産大
16:00 香椎宮
17:00 千石の郷
1月4日 09:00 出発
10:00 鴻臚館
11:30 飯塚 旧伊藤伝右衛門邸
13:00 飯塚 昼食
15:00 博多 東長寺
16:00 オープントップバス
17:30 夕食
19:00 博多駅解散
1月3日
毎回恒例の博多駅前、銀行裏の公園前に集合です。駅前開発により景色は以前とはすっかり様変わりしています。ここで、15人が集まります。
さて、一つ目のハプニングです。
有馬・石橋・上田・金丸・小佐井・シタマ・新福・住吉・ケンゴ・とよ・竹田・田中・土井・原 そして、大井手君が参加してくれたのです。
なんと、大井手君は40年ぶりという人がほとんどでした。竹田さんことひよこちゃんも久しぶりです。久しぶりの再会に話し尽きず、なかなか出発できません。大井手君はですねェ、これがなんと、素敵なダンナになってござったとです。「久しぶりだと、褒めてもらえる」と勘違いされるといけないので、そろそろ出発いたします。
一路、九産大へ
昔とは大きく綺麗に変わっています。さすがに私大!お金のかかった校舎・校内を彩る庭園やモニュメント、さらに芸学部裏にいたってはレストラン格の学食が目に焼き付きました。いつも渡っていたあの小さな踏切。昔と違い、装甲車にも見える特急や電車が短時間に何本も行き交っていました。「学校帰りに、線路の上でポーズとって写真なんか撮ったよね」今は、そんなことできるハズがない。
最近の大学は、玄関に警備員がいて通行証がないと入れないと思っていましたが、正面の方の踏切渡って、線路沿いに小道(坂道)を歩けばそのまま芸学の方まで素通りできる。あっ、これこれ!と目に留まったのは、階段教室の横にあったあの細く、長く、高い階段です。「さあ、登って」と言われたら、老体に鞭打たなければならないほどに急勾配に感じました。
校舎の中には入れなかったので残念でしたが、記憶のままに、昔の教室・研究室・親交を深めるのに居心地の良かった学食・若い友の顔が次々に浮かんできました。今回は、とにかく皆揃って写真を撮ってます。一緒に温もりを感じながら、きょうだいのようにさえ思えました。前回の竹崎で旅館の女将に「皆さん、きょうだいのようですね」と言われたのも尤もです。
そして、産大を後にホテルに向かう途中香椎宮に寄りました。
まだ正月の3日。参拝客(車)の渋滞にあい、しかも、お詣りの列に並ぶには時間が掛かりすぎるので離れた処から手を併せて出発しました。
千石の郷に着くと、栫井君・鷹巣君・石川さんが待っていてくれました。
すると、ここで二つ目のハプニング。
森ゆうじ君が出現。出現という表現は失礼かもしれないが、誰一人知らないままに姿をみせてくれたのです。幹事二人も知らなかったのです。ここで、森君をご紹介します。チカさんじゃないよ。インテリア専攻で私あきさんと学友でした。もっとも、何故かトヨの方が親しく「ユウジ君」と呼び合う仲だったので、私も付き合わせてもらった次第です。今更ながらにして思いますが、とよの人脈というか人を引き寄せる「何か」はすごい。72Dの会がいつまでも永〜く付き合っていけるのはトヨの存在は大きいと思います。もちろん、その家長であるケンゴがトヨを支えてくれているからこそ!と断言させてもらいます。
宴会が始まり、毎回同様つつがなく進行しました。今回は幹事である自分で言うのもなんですが、料理がおいしかったァ!!
この日のうちに、ひよこちゃん・石川さん・栫井君・森君の4人は再会を約束して帰りました。
1月4日
朝食が終わると、鷹巣君が帰りました。
9時にホテルを出発です。鴻臚館へ向かいます。ここは、平和台球場の跡地で遺跡が発掘されたがため遺跡資料館ができています。黒田藩城下町の様子がわかります。ここにて、住吉君と大井手君が帰ります。今回、大井手君や森君を呼ぶためにケンゴやトヨが電話で声掛けしていてくれたみたいです。そうそう、栫井君もケンゴの声を聞いて気持ちが前向きになったみたいです。次回もぜひ来てくださいね。
この後は、飯塚の旧伊藤伝右衛門邸に車を走らせました。
「花子とアン」で放送された白蓮の、あのお屋敷です。ここでは、おきゃーまが興味を持ち熱心に写真撮影していました。おきゃーまは、岡山県総社で町興しに携わっておりこのような旧家や古民家が参考になるようです。もっと、時間を割いてあげればよかったですね。そろそろ、おなかが空いてきました。
飯塚市内のホテルのバイキングで昼食です。「ビールもいいですよ」と言うなり、おいしそうに飲んでくれましたなァ 今回は、ありまん・あきさん・しんぷくの三台車出しだったので、お酒好きのわたしには我慢のしどころでした。
博多に帰る途中、嘉穂劇場前を通過します。昔の炭鉱町、劇場も然りバーやスナックも狭い路地伝いにたくさんありました。
さて、博多の東長寺に到着。
ここで、しょうじろうさんとさよならです。東長寺に参って、そこには、地獄と呼ばれる暗黒の通路があります。一歩踏み入ると本当に真っ暗。両壁を触りながら通過するけど、無心になれば出口に出れる。キャーキャー言えば邪心で不安さえ覚える。仏様が試してるんじゃないかな?と、勘ぐってしまいました。暗闇の途中右手に金物の丸いリングに触りました。これに触ると幸運を得られるときいたのでラッキー!
この東長寺で初もうでして、最後のバスに向かいます。
オープントップバスは一時間の市内めぐりです。三コースあって、博多街めぐりにしました。福岡市が観光としてバックアップしているツアーのひとつです。
さすがに寒かったァー そのせいか、いつものおしゃべりが少なかったような気がしました。
終了でもう五時過ぎてます。最後になりますが、せめてもの夕食を!と、11人で居酒屋へ入り、でも、朝から昼からたらふく食べているので、ほどほどにして退席です。博多駅前まで送り、名残惜しい別れです。
圭子とこうがくぶはありまん宅におとまりです。
次回の幹事は、新福君とケンゴ・トヨです。
日田温泉です。
案内はがきにアンケートした結果、季節を変えて。今まで通り、二年おき。
予定は、2017年秋 か、2018年秋
幹事にお任せですので、案内来るまでおまちください。
追記
ありまんのお母様(スミさん)が昨年9月に逝去されました。
ありまんと一緒に来て下さり、やさしい微笑みをわすれる人はいないことでしょう。
かしわ手(合掌)
456)♪伝えたいことがあるんだ 投稿者:TOYO 投稿日:15年12月29日(火)00時11分
よっしゃあ〜!!待ってました、大トリ「イワサカ」くん!今年の大トリは私がもらった!!
伝えたいことがあったんよ。
今年のクリスマスの約束、委員会バンドが歌った陽水の「帰れない二人」・・・大好きな曲なんだけど、小田さんいわく、陽水と清志郎が一行ずつ作詞して2時間で作った歌だったんだってね。全然知らなかったけど、陽水の曲で、「氷の世界」の次に好きな歌だと、つい先日ケンゴと話してたとこで、小田さんが選んで歌ってくれたことに感激!
YouTubeで聞くと陽水と清志郎と二人で歌ってるよ。
それと、番組の最後の最後に流れた、チューリップの「夕陽を追いかけて」
青春時代を博多で過ごし、還暦をすぎ、夕陽を追いかける世代の我々には胸にせまるいい曲だと思います。おすすめの曲です。
聴くたびに、いつも切なくて泣きそうになるけど、いつも少し勇気をもらえます。
小田さんが歌うと、いいんだわ〜これがまた!
それと、エンブレムの件、全くイワサカと同意見です。思っていた事を文章にしてもらった気がします。
それと、72Dの会、ヒヨコちゃんと大井手くんと、カコイくんが宴会にだけ参加となりました。
安心してください、大井手くん。カコイくんが来ますよ〜♪
以上、「伝えたいことがあるんだ」でした。みなさん、よいお年を〜!
455)やはり【矜持】の問題です。 投稿者:岩 投稿日:15年12月25日(金)22時23分
【矜持】とは、その人の社会的・対外的「立場」を前提とした「自尊心」です。その立場にある者としての「誇り」「妥協できない態度」「示すべき態度」などを指すのが【矜持】です。
小田和正が「なごり雪」を唄った。同時に二人を思った。豊と上村さん。そして思えば、「水戸黄門」はシタマ、「学生街の喫茶店」は謙吾。 歌って凄い!おまけに私の大好きなサイモン&ガーファンクル。楽しいクリスマスイブ。 小田和正の【矜持】を感じてしまいました。
「東京オリンピックのエンブレム白紙撤回」。なんだか自分が責められているような、居心地の悪い感じがしたのは、レベルは違うが同じデザイナーとしての、やはり【矜持】の問題。
現役時代の事。例えば新築マンションのエンブレムの案をクライアントは10案くらいから選びたいと言う。それを受けている代理店は50案くらいから、自分たちも選んでクライアントに持っていきたいと言う。で、時間がないので、我が社では全員で資料を漁る、ネットを漁る。《マークやエンブレムはやり尽くされていて、もはやオリジナリティを求めることは不可能に近い》コンセプトにこだわったり、立地にこだわったり、商品にこだわったりして発想を得た100以上のサムネールから、私が目を通してアレンジして50案くらいに絞り込んでゆく。私が手直ししたことで逆に参考にした「元」に近づく事も。そして時間がないという理由で「検証」することなく、「エンブレム」がクライアントの前に並ぶ。あのころは時に流されて、私に【矜持】は・・・?
さて今回の「東京オリンピックのエンブレム白紙撤回」の何ともお粗末な経緯は、国家の仕事なのに、(時間がないということではなく、アイディアがでないということで)上記の経緯と似ている・・・から、なんだか自分が責められているような、居心地の悪い感じがしたのだろう。
ベルギーの「リエージュ劇場」のマークを〈パクった〉という訴えは、その作品を見ても“難クセ”だと思っていたが、「サントリーのバッグ」のイラストは〈パクった〉という問題が噴出し、その作品を見て、胡散臭さが漂いはじめた。そして「ヤン・チヒョルト展」のパンフレットが出てきた時は、これは?→!、これはもうアウトだろう!とデザインに関わっている多くの人たちは思ったに違いない。佐野研二郎氏は「ヤン・チヒョルト展」に行ったし、パンフレットも持っているという。そのパンフレットを見れば、変化球でもチェンジアップでもなく、まさに直球で〈パクった〉としか思えない!・・・全く同じものに見える。佐野研二郎氏本人がやったにせよ、スタッフがやった事にせよ、佐野研二郎氏の【矜持】の問題です。
今年は、復興に関しても、国会の進め方にしても、沖縄に対する態度にしても、原発にしても、オリンピック関連にしても、そこに関わった人たちの【矜持】がどこにも感じられない。そしてそれに気付いていない、それとも気付いていないフリ? あ〜あ、無邪気な大人たちが、無邪気なフリの大人たちが増殖しているのだろうか?
「無邪気は愛すべく、無責任は憎むべし。されども無邪気は、無責任の一種なり」
責任の無い(無責任の)私が言ってもね〜。 みなさん、良いお年をお迎え下さい!
454)コーヒー一杯の幸せ 投稿者:SHOU−JI−ROU 投稿日:15年12月14日(月)23時56分
淹れたての珈琲をすすりながら、ひろがる香りに包まれて心地よい気分を引き立ててくれる。やはり珈琲はドトールが美味しい。
あきさん、しんぷくくん、幹事御苦労さま!大宰府メモは残念だったけどいいですよ。トヨさん元気でなによりも。ありまんのお母様は天国へ逝ってしまったんだね、ご冥福お祈りします。
ところで、たわいのない話だけどもう一カ月前に知人の結婚式があったことを自由に書いていい?ちょっと長いけど・・・。
佐賀市内の城跡の掘割に面した老舗ホテルで、相方の母親から自分の娘と腕を組んで入場行進して欲しいと家内は以前それを承知していた。
母親は若い時に主人を早く亡くしたため、代わりに小生が主人の代理をする羽目となり思いもよらぬことだった。
入場行進はホテル内の小さなチャペルで、神父のいる祭壇までほんの数十メートル短い通路を試みるだけだった。
そんな訳で父の遺した古いモーニング礼服を着る格好をふりして不細工ながらも、この純情とか可憐な彼女と一緒に行進する想像はどんなものかと、胸の中はゾクゾクしたものだ。
本番では思った通り見違えるように、彼女は純白なウェデイングドレス新婦姿であらわれてきた。ドレスの裾が後方に長くひいていた。それは星が流れるようにとても美しく輝いていた。
チャペル内には相方の父兄、親族、知人、多くの友人などが集まっていた。
やがて挙式の鐘が鳴ると入口のドアが開かれる。小生は新婦と共に中へ入場する。
集まっていた皆一同に深く頭を下げる。新婦は小さな花束を片手で支えていた。
そして前方へ進もうとすると、スマートホンやカメラなどものすごいフラッシュ光を浴びて続けてしまった。お先が真っ暗で何もみえなくなった。神父の姿すら消えて分からなくなった。眩しくすぎて視線がさえぎったのは不意だった。とっさに視線を床に落とし新婦のドレス裾を踏まぬように細心の注意を払いながら、足取りを確かめて進んだ。
前から三列目に着くころになると、こつぜん新郎の姿と出会った。ほっとするやら無事に新郎と握手した。新婦の手を離して新郎の腕の中へ差し伸べるように小生は別れた。二人は静かに祭壇へ向かっていくのをいつまでも目が離さなかった。
小生は前の席に座り、讃美歌『アメジング・グレイス』が流れると二人は神父のもとで愛の誓いが始まった。
やれやと肩の荷が下りたけれど、二人のこれからの人生がいつまでも幸せに!とつぶやきながら自分の人生と重ねあわせて十字架をみつめていた・・・。
PS:披露宴では珍客?熊本県知事の蒲島郁夫さんがお祝いに来ていました。
この人、人気者らしく写真撮影ではたくさん集まっていました。
さて、年末の恒例、大トリ「イワサカ」メッセージを皆さんはウキウキと
楽しみに心待ちしているでしょう。
453)人恋しい秋から 待ち遠しい冬へと 投稿者:あきさん 投稿日:15年12月2日(水)10時14分
福岡の冬の空、覚えていますか?
黒い雲が何層にも重なって、肩をすぼめてしまいそうな、物悲しい人のぬくもりがほしくなる空模様ですね。
ところで、同窓会に参加される方 お知らせします。
新福・舌間・石橋・品川・鷹巣・住吉
小佐井・有馬・原・土井・田中・上田・とよ・金丸・石川
以上、15名です。
鷹巣君と住吉君は、朝食が済んだら、帰ります。
石川さんは、宴会のみ参加です。
正月に予約を取るのも幹事としては大変な事です。
ハガキのアンケートにもありましたが、正月をはずして、のんびりできる季節に準備や
旅行が余裕をもってできるように、つとめたいものです。
とは言っても、次回のお正月はお天気に恵まれますよう願います。
2日目に「オープントップバス」を予定していますが、ただでさえ冬の16時から17時の乗車ですので、小雨なりとも降ってほしくないものです。
熊本城での散策で小雪の中歩き回ったくらいですから、大丈夫でしょう!?!
でも、あれから4年も経っているので、みなさんの健康状態が変わってないことをねがうばかりです。
先日、産大を訪問した折に提案を投げかけてみた。
その日、こうちの作品集を持参していた。同窓生の遺作を公開したかったのである。
産大には、すばらしい美術館が出来ている。そこで、OBの作品をぜひとも出展したかったのだ。
話の相手は、総務課の部長と楠風会の会長だったので、あらためて、美術館館長に提案を持ちかけるワンステップを得て帰った。
今回の3日4日には間に合わなかったけど、皆さんと相談したいものです。
今年1年を振り返って不調な年だったけど、前向きの課題を持って新年にいどみたい。
452)人恋しい秋に 投稿者:TOYO 投稿日:15年11月7日(土)20時38分
あれから4年。今日はコーチの祥月命日。
あいかわらず薄情者のコーチは、この4年間に3回しか夢にでてきてくれません。でも、最近の夢の中で、落ち込んでいる私を「トヨ、どしたん?」と励ましてくれました。本当に耳のそばで、リアルなあの独特な口調で・・・
うれしくて涙ぐみながら目が覚めて、この1年、骨折やら火傷やら体調不良やら、いろんなことが重なって凹んでいたけど、コーチの分まで前向きに生きていかなきゃと改めて思いました。
コーチはみんなを見守っていてくれると信じています。
72Dの会のお知らせが届きました。
新福くん、アキさんお世話になります。品川謙吾・豊子 もちろん参加します。
人恋しい秋に、友達に会える知らせがくると、なんだかほっこりしますね。
楽しみにしています。
みなさん、2回も続けて幹事を引き受けてくれた新福くん、何回も幹事をしてくれるアキさんに感謝しつつ、お返事お早めにね〜
451)平氏の落人伝説 投稿者:かとう春秋 投稿日:15年11月2日(月)12時18分
家から一時間半。10月22日、紅葉を見がてら平氏の落人伝説がある山奥の寺へ。「定義如来」。実はその参道にある店の名物、「三角揚げ」を食べたくなって、加えて近くにある手打ちそば(新そば)も食べたくて・・・。「しぐれ茶屋」。午後1時くらいに家を出る。ひとつ目の楽しみ、紅葉。残念ながらまだまだ紅葉は進んでいないが、山沿いの路を秋の気配とその空気を感じながら(ひとり孤独を楽しみながら)ひた走る。線香の香りが漂う境内に着くと、おばさんがなぜか必ずワイワイ元気な参道の土産物屋さん(雑多なものを天井まで積み上げた)の横をズンズン通り過ぎて行く。ふたつ目の楽しみ、「三角揚げ」の(アツアツの揚げたてを食べられる)店に直行。揚げたての「三角揚げ」に割り箸でプツプツと穴をあけ、しょうゆをたらし、七味をパラパラとかける。何ということはない「揚げ」。サクサクの食感、シンプルで素朴な味。う〜ん、旨い! う〜ん、やっぱり旨い! 気持も腹も落ち着いたところで、ブラブラと参道を歩いて「山門」へ。「山門」の奥中央に、今にもユラユラと動き出しそうな「サル」が片手でぶら下がっている。ユーモアもあり、一つひとつの彫刻が丁寧でイキイキしている。何度行っても「山門」「拝殿」「本堂」の彫刻は素晴らしい!ホント素晴らしい!楽しい!感動する! 芸術と歴史をたっぷり堪能して、みっつ目の楽しみ、手打ちそばの「しぐれ茶屋」へ。少し寒くなってきたと思ったら細い雨が・・・。テーブル席ふたつと窓に向かって座るカウンターの店内。テーブル席は埋まっている。私より10歳くらい年上と思われる男女が座っているカウンターの横に座わらせてもらう。目を上げると窓から見える竹林が雨で濡れている。なかなか風情のある眺めだ。が、なかなか注文を取りに来ない。やっと注文を取りに来た無愛想なおばさんが、面倒くさそうに「時間かかるけど・・・」と。腹は落ち着いていたので、「良いですよ」と答える。時間がかかるということは打ちたてのそばが(そばのさんたて/挽きたて・打ちたて・茹でたて)食べられるのではないかと期待して・・・。ざるそば。トイレへ行って、落ち着いて、濡れた竹林を眺めながら、気持を整えて、そばを待っていると、聞くともなしに隣の男女の会話が耳に入ってくる。さかんに話し掛けている女性は、男性を「タイラさん」と呼んでいる。てっきり二人は熟年夫婦かと思っていたが・・・。「だからもう、ゲンさんには海産物じゃないほうがいいわよ」「いや、俺にも意地があるんだ」「今年は私からゲンさんと屋島さんにも正月飾り用の扇と弓矢を送るから」「でも・・・」「いいから、そうしよう、そろそろ、ね、ね。」共通の知人に送るお歳暮の話し? 濡れた竹林の根本に積もった黄土色の竹の葉が雨に濡れてまだらに色を変えている。竹の幹の緑色とのコントラストが美しい。隣に天ぷらそばが運ばれてきた。なかなか豪華なキノコの天ぷらが添えてある。しかし運ばれてきたのは一つだけ。気が付くと「タイラさん」もテーブル席の客もいない。「タイラさん」はトイレにでも行ったのかな、そして「タイラさん」は違うものを注文したのかな、と自分を納得させる。すると女性は「タイラさん」を待つこともなく豪快にそばをすする音を立てて、そそくさと食べ始めた。そばをおいしく食べる心地よい音を聞いると、私にもようやく注文したざるそばが運ばれてきた。じっくりと新そばの香りと喉ごしを楽しみながら食べていると、隣の女性は食べ終り、ハンドバッグを持って会計のほうへ歩いて行く。おいおい「タイラさん」はどうするのだよ「タイラさん」は!! 会計を済ませた女性は何ごともなかったように「しぐれ茶屋」から出て行った・・・。外は細い雨が竹林を濡らし続け、私は急に寒くなり鳥肌が立ち「しぐれ茶屋」にざるそばを前にした私ひとりがとり残された。
450)びくともしない 投稿者:岩 投稿日:15年10月16日(金)12時15分
ノーベル文学賞受賞のスベトラーナ・アレクシエービッチさん。(私は彼女の存在を全く知らなかった。名前間違ってないよな〜?)著書『戦争は女の顔をしていない』の取材をした時の女性が云った言葉「私たちがいなくなってから作りごとを言わないで。私たちが生きている今のうちに聞いておいてちょうだい」。
スベトラーナ・アレクシエービッチさんは「国家というのは自国の問題や権力を守ることのみに専念し、人は歴史の中に消えていくのです。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切なのです」
ん? でも〜?
「秘密保護法」「原発再稼働」「安全保障関連法」「辺野古問題」・・・・・
社会の理不尽をいくら撃ちつづけても、社会はびくともしない。抗う側の傷が深まるばかりで・・・。
なんてね、ほんと“びくともしない”もうひとつ。
妻の理不尽をいくら撃ちつづけても、妻はびくともしない。抗う側の傷が深まるばかり・・・。
449)残すところ あと 半年 投稿者:あきさん 投稿日:15年7月16日(木)15時16分
おげんきですかー
ここのところ、日本縦断するような地震が続き、心配ですね。しかも、長雨・高気温・台風接近と、落ち着きませんよね。
5月に息子の彼女がプレゼントしてくれた「あじさい」が、まだ、玄関先に鎮座しています。おおよその家では、すでに、来年に向けて枝を切り落としているだろうに、それが出来ない。彼女に悪いからではない! なんともいえないクラシックと言うか、アンティークな色合いなのです。絵具で出せない色。もしかしたら、私自身もセピア色になってきているのでしょう。嫌いな色ではありません。
今年になって、義理の両親や実家の母のこれからについて、本格的に決断しなくてはならなくなったのです。1番は、鹿児島で独居の母がどうなるか!?長女だから母の事は自分が1番よく知っていると思ったのに、意外と知らなかった。これは、弟や妹に嫉妬するくらい悔しいおもいでした。これまで、福岡在住の義理の両親の面倒をみてきて、そのくせや性格を理解できるのに、実母の事 あー、あまり深くは知らなかったんだなー と、気分がセピア色になろうとしています。
ま、時間がきたら乗り越えられますから、大丈夫です。
同窓会メンバーにも介護で参加出来ない方が結構いらっしゃると思います。
どうにか、同じ境遇でいる友と話しできる機会があればなーと思うところです。
これまで、宴会が始まる前に「孫と薬と介護の話は無しよ」と、おふれが発せられたものでしたが、もう、そうは言ってられませんよね。
どうにかして、時間がつくれるならぜひ、いらしてください。
福岡での開催ですので、3日・4日よろしくおねがいします。
10月中旬前には、発送できると思います。
話かわって
インターネットされてる方 検索してみてネ
「博多織 匠工芸」
4:博多織物工場「匠工芸」を知ってください
ああー 元気なんや 良かった と、思う事でしょう
では、みんな げんきでね
448)自分の顔を、直接自分では見られない。 投稿者:岩 投稿日:15年4月27日(月)11時30分
父の三回忌で故郷へ帰った。菩提寺で我が家と父の弟の家族で質素に行った。父は亡くなって現世には存在しないのだが、集まった人の記憶の中に、父を知っている人の記憶の中に父は生きている。間違った記憶でも確実に生きている。コーチも私たちが生きている限り、私たちの中に生きている。当たり前のこと、言い古されたことだけれど、最近心にしみる。
久しぶりに学生時代(高校・大学)の友に会い昔話に花が咲いた。やはり楽しい、懐かしい。そして、その頃の自分を教えてくれる。「あ〜そうなんだ、そんなふうに見られ、思われていたんだ」と。若い頃の自分は余裕が無く、生きることに将来のことに懸命だった。だから自分が見えるはずもない。自分の顔を、直接自分では見られないのと同じ。ライブでは鏡を通してかろうじて左右逆の顔しか見られない。だから、記憶も昔話も自分の思いとのズレが奥行きを加えるのかもしれない。
447)楽しかったなぁ。 投稿者:シタマ 投稿日:15年3月19日(金)16時35分
河地先生の退任記念祝賀会に行ってきました。
同期で新福、正二郎、西、ケイコさん、オキャーマ、きのさんのほか、
いっこ下では久二くんと、あやさんが来てましたよ。
天神の貘で二次会、締めにラーメン食べて、北九州に戻ったのは夜中1時過ぎでした。
いゃー久二くんと、あやさんには、卒業から40年近くぶり。懐かしかったなぁ。
ケイコさんからの写真も一緒にフォトワールドにアップしてますんで探してみてね。
最後になりましたが、
ありまん、お疲れさまでした。
446)心から御礼を申し上げます 投稿者:ありまん 投稿日:15年3月17日(火)15時38分
参加者への御礼
過日は 河地先生退任記念の祝賀会にご参加頂きまして ありがとうございました。そしてご友人達にお声をお掛けくださいまして ありがとうございました。心から御礼を申し上げます。
おかげ様で30周年のお祝いをはるかに上回る215人 沢山の方に参加頂きました。今回は寄付などを募らなかったので参加人数だけが頼りでした。
ありがとうございました。おかげ様で一つの締めくくりの会ができました。
ボランティアは かなりの時間を費やして準備し、しっかりした覚悟がいるということを再認識しました。私も、そのプロセスを楽しみましたので 少しでも 皆さんに伝わったらいいなと思いながら。あっという間の2時間の祝賀会でした。差し入れを頂いた方 作品や作品集を購入頂いた方 陰で情報の拡散にご協力頂いた皆様 参加者を募って頂いた方 祝辞や電報 メール・動画にご協力頂いた方 ご無理を申しまして すみませんでした。ありがとうございました。
温かく見守って頂いた皆様に 心から感謝致します。
残り 二か所の展示の搬出と研究室の解体式までもう一山 越えなければなりません。在学生と発起人の方達ともう一頑張り致します。
まだまだ 朝夕冷え込みます。皆さまくれぐれも健康に留意されます様に。皆さまのご多幸を心から願っております。
取り急ぎ御礼まで
2015/03/17 72D-6
やはり震災のことを書こうとすると、真面目になってしまう。「語り部」になったつもり? 今をちゃんと書き残しておきたい? どちらにしても「当事者」として、自分にプレッシャーをかけている。
震災後、あらゆることの「活気」が許せなかった。共に悲しんでくれる人が欲しかった。情報溢れる時代なのに、人とは何と分かり合えないものなのだろう、と思った。災害は人から多くのものを奪う。そして、人とのつながりをも奪っていく。大切なものをなくしたからこそ人にすがりたいのに、それが実はなによりも難しい。今も災害が起きる度に思う。被災者を苦しめるのは結局のところ、この孤独ではないだろうか。孤独という穴ッぽこに落ちた人は、「生きる・・・何のために?誰のために?」つながりが失われれば死は想像以上にすぐそこにある。「ウサギは寂しいと死ぬ」というが、寂しいと死ぬのはヒトである。
「孫よわが幼きものよ、この国の喉元は熱きものを忘れき」=竹山広(長崎で被曝した歌人)=
東日本大震災から4年になる。わずかな歳月しか経たないのに「風化が堂々と進んでいる」と倉本聰は言う。確かに安全を押しのけるように「経済」が前に出てきて、政府や財界の原発回帰は鮮明だ。今も福島県民だけで、12万もの人が避難先で暮らしている。なのに世の中は、喉元を過ぎたかのように関心は薄れつつあるようだ。福島からの電気を使い、それを反省したはずの大都会にも、その気配は濃い。
「震災後、勤め先へかけつける途中で『助けて』と言う声を聞いたのに、先ずは勤め先へと通り過ぎてしまった。そのことを話す度に彼女は涙声でした」「辛さを抱えていたから、彼女は人に優しくなれたんじゃないでしょうか」そんな文章に、すとんと落ちてくるものがあったのだ。人はなかなか分かり合えない。でも分かり合えない傷を抱えているからこそ、他人を支えようと思うことができる。傷ついた人が、傷ついた人を支える。人は思っているよりちゃんと助け合えるはずだ。だって傷ついたことのない人などいないのだから。忘却を拒み支え合う志を、忘れてはならない。今日現在、死亡15,890人・行方不明2,590人。 合掌。
3月14日の「河地先生退任記念の祝賀会」の様子、この場にぜひアップして下さいね。
「河地先生退任記念の祝賀会」の件 (15.1.15投稿)
ありまんです。
シタマくんが「ニュース」の覧に載せてくれています。
河地先生が九州産業大学芸術学部を退任されます。70歳になられます。
髪が少し白くなられましたが お元気です。
皆様との再会の日を楽しみにされておられます。
3月14日土曜日の午後からです。
申し込みの締切まじかです。2月1日(日)です。
私達が習った先生方も既に退職しておられますがお声をかけています。
小さな同窓会の様な感じになると思います。
公開では最後の集まりだと思ってお世話係りをしております。
皆様年度末でお忙しい頃と思いますが どうぞご参加ください。
「河地先生退任記念祝賀会のご案内」
〈日 時〉 2015年3月14日(土)
受付12:00〜13:00 祝賀会13:00〜15:00
〈会 場〉 ホテルオークラ福岡
〈会 費〉 12,000円
〈発起人〉 代表 有馬厚子 阿比留 潔
※詳しくは、参加申し込みのフォームをご覧下さい。
左上の「ニュース」の覧をクリックすると申し込み書pdfあります。
わからない時は お電話ください。092-525-1539 ありまん
今年も年末ジャンボを買った。
抽選日まで「楽しみ」がある。
「はやぶさ2」の打ち上げに成功した。2020年末に還ってくるそうだ。
「東京オリンピック」が2020年に開催される。
2020年まで「楽しみ」がある。
高倉健が死んだ。と、すぐ菅原文太が後を追うように死んだ。
高倉健が死んだと聞いたとき、渥美清の死を思った。
「さん」付けで呼ぶ俳優が居なくなった。と。
香椎で暮らしていた頃
「寅さん」と「健さん」は私の文化の一つだった、そして「じゃけんの〜」も。
あ〜あ〜、やっぱりあの人達も死ぬんだ、死んでしまうんだ。
なんだか感じるよね、若いころと違って・・・死という・・・なにか。
生きているということは、死へのカウントダウン。
だから毎日、ほんと、今日を一所懸命生きないとね〜。
で、年末ジャンボの「楽しみ」は叶えられそうだが
「はやぶさ2」と「東京オリンピック」の「楽しみ」は叶えられるのかな〜。
みんな、健康第一、1日1万歩。
私はまだ、小学生のガキ共と1分間走をしても負けません!!!
442)大宰府メモリアルパーク 投稿者: SHOU−JI−ROU 投稿日:14年11月16日(日)21時13分
次回の72Dの会は福岡:能古島が開催予定されているようだけど、楽しみにしている。ちょっと一足先にこのプランを採ってくれたらどうかな?と思って書き込みした。
先日、其新聞の広告に歴史と自然も公園墓地「大宰府メモリアルパーク」の文字が目についた。昔のことが懐かしく思い出され、もうあれから10数年以上歳月が流れて桜の木は大きくなっただろう。
当時、著名な画家先生が亡くなり一周忌を迎えたときに数人の知り合いと供養先を案内されたのがきっかけだった。「・・メモリアルパーク・」の語感からどんな意味も分からず何の記念公園なのか、これが霊園だとは思いつかなかった。山の自然を利用して見晴らしの良い丘陵の形に墓地が並んで集まっていた。手入れも良く管理が行き届いているのを感心した。優雅な霊園だったから印象に残っている。
ここは墓石の博物館か、墓地の美術館のように考えたらいい。そりゃ、見事なものため息がでるでる。ピカピカ光沢を放つ御影石、澄まされた大理石、先祖代々の格調高い墓地の素晴らしさ、そしてペットの墓、クリスチャン墓地などいろいろ興味が尽きなかったし、墓石のデザインがとても面白かった。
一般の菩提寺のように殺伐とした墓場と違って、いまどきの霊園は宗派、宗旨を問わず自由に永代永久していいそうだ。 ねぇ、幹事様、花樹木葬へ行きましょう!
441)11月7日 投稿者: シタマ 投稿日:14年11月7日(金)21時55分
早いもので、あれから3年。
年々時が経つのが早く感じます。
学生時代は1年が長く、いろんなことも多くあったように思えます。
残りの人生を考えるには少し早いかも知れませんが、
身体もあっちこっちガタが来てるし、
物を探すことが多くなり、少しゾッとしているこの頃です。
440)長崎 投稿者: 大井手 投稿日:14年9月11日(木)13時38分
この年になって・・・同感! そうだね〜
ちなみに 生まれは長崎市で、被爆2世になります。
ものごころ付いた時から、親から原爆の話し聞いてます。
もう そのお袋も85歳になりました。
今も戦争・原爆の話ししてます。
439)この年になって・・・。 投稿者: 岩 投稿日:14年9月5日(火)09時39分
この年になって・・・
自然の移ろいが心に沁みるようになりました。
この年になって・・・
歩いて景色を楽しむ余裕ができました。
この年になって・・・
彼は私より一つ年下です。生まれはとても悲惨でした。彼は人間社会へ仕返しするために生まれてきたのでしょうか。彼は今、アメリカへ渡り、全世界にその恐ろしさを啓蒙しています。2011年3月11日、彼は姿を変えて日本に上陸しました。地面を揺らし海水で陸地を侵略し、原発を襲って・・・。自分が殺されたメルトダウンを誘発し、人間の心と健康と生活を破壊しました。その破壊は3年が過ぎた今でも続いています。そんな彼が創り出された意味は何なのでしょうか?どうして彼は日本で生まれたのでしょうか? 彼の名は「ゴジラ」。
世界で唯一の被爆国であり水爆で被害を被った国、日本という国を本気で考えるなら、私たちは子孫のために「ゴジラ」が生まれた原点に返って、しっかりとした方向を示すべきだと思います。それが「ゴジラ」と同年代の私たちの役目なのではないでしょうか。
この年になって・・・
子供の笑顔が本当に素晴らしいと思うようになりました。
この年になって・・・
かけ引きをしなくても生きていると思うようになりました。
438)ご無沙汰 投稿者: 大井手Ryouta 投稿日:14年7月8日(火)12時02分
とよさん本当にご無沙汰してました。
とよさんもお元気そうで・・・72D会参加決定ありがとう
あと卒業制作展の資料なんですけど、76、グラフィック・デザイン卒業制作誌上展1976年7月 アイデア 成文堂新光社
このアイデアの専門誌に72Dの作品6人掲載されています。ちなみに私も載っています。学生時代の思い出として、大事に持っています。資料になればと思い、お伝えしました。
437)そんなことより幸せになろう by kazumasa,oda 投稿者: TOYO 投稿日:14年7月3日(木)21時21分
7月2日に発売された小田和正のアルバム『小田日和』の最初の曲。
チャンスがあったら、ぜひ聴いてみてください。
なぁ〜んて、楽天で買った我が家には今日の夕方届いたばかりで、私はまだ聴いてないのです。
ケンゴは一足先に一人で勝手に聴いてた!!
曲も聴いてないのに、このタイトルがこころに残って、「そんなことより幸せになろう」がおまじないの言葉になりそうです。
『小田日和』のジャケットが十何年ぶりかの、小田さんの写真だったのがめっちゃ嬉しくて、それが私の今の「幸せ」
久々の投稿で相変わらずアホなことを書いていますが・・・
新福くん、先週火曜日に届きました。ありがとう!お世話になりました。ありまん、アキさんコンビも写真ありがとう!生写真も、なんだかあったかく感じていいね!
私の撮った写真はそのうちなんとかして、お届けします。・・・実はスマホの説明書を失くして、どうしたらいいのかわからないのだ。情けない。
シタマくんも住所録お世話さまでした。とある友人のユージくんも仲間に入れてくれてありがとでした。
卒展の時の写真もあるし、ケンゴが撮ってたスライドの写真もたくさんあったけど、それ、お役にたつの? シタマくんに送ったらいいのかな?
話かわるけど、大井手リョータくん!なんというご無沙汰!!保津川下り以来じゃないですか〜。お元気そうでなによりです。
次回72Dの会参加決定!!だね。
436)届きました 投稿者: シタマ 投稿日:14年6月25日(水)19時35分
しんぷく、それにありまん、あきさん 写真ありがとう。
取り急ぎ、お礼まで。
435)もう還暦 まだ還暦 投稿者: しんぷくトリオ 投稿日:14年6月24日(火)22時54分
みなさん、遅くなりました。届いたでしょうか?
半年も過ぎてしまいました。
かに三味ツアー、お楽しみいただけましたでしょうか?
けっこうな移動距離だったので時間ばかり気にしていました。チョッとせかした感がありますが・・・・。
謙吾ともスムーズ合流でき、住吉もJRに間に合わせる事ができ、ホッとしました。レンタカーの手配、運転してくれた正二郎、美術館のチケットの手配してくれたありまん、ありがとう。
それでは次回の幹事の方、よろしく。あっ、またオレか!
PS:以前NHKの番組『鶴瓶の家族に乾杯』で大良漁港をおとずれ、画面に一福荘が映っていました。
434)福岡県文化会館資料募集中! 投稿者: シタマ 投稿日:14年6月17日(火)13時10分
イワサカくん経由で、石井さんからの情報(?)があります。
福岡県立美術館が、福岡県文化会館(現在の福岡県立美術館)50年記念の展覧会を催すそうで、
下記のお願いをしているそうです。
でもって、卒業制作展の時の資料などお持ちでしたら、ご一報ください。とのことです。
う〜ん。そういえば卒展の冊子どこだろ。
詳しくは、
http://fukuoka-kenbi.jp/blog/20140506_kenbi2550.html
72Dのホームページでは、青春の一枚/022.「卒展会場」に1点ありますね。
TOYOさんが投稿してますね。
ぜひ提供してください。
歴史のページには、1989年の72Dの会でドリームボートに集まった翌日、須崎公園で写真を撮ってるね。
当時アキさんが住んでたアパートに行った時だね。バックの建物が県文化会館かな。
まだ皆若いね。
433)芸術の春? 投稿者: 澤田 投稿日:14年5月5日(月)12時09分
三、四月にかけて、二つの展覧会を観た。一つは、宮崎駿監督作品「風立ちぬ」・高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」原画展である。「風立ちぬ」は零戦作者・堀越二郎に焦点を当てた物語。複葉機のラフスケッチは緻密なまでの表現、確かなデッサン力が見て取れる。「かぐや姫の物語」では原画そのものと思われる、流れるような人物表現が印象的である。原画であるので大作は見られないが、両氏の作品にかける意気込みが伝わってくる。
もう一つは、「ボストン美術館・ミレー展」である。ジャン=フランソワ・ミレーの代表作「種をまく人」は、しっかりと大地を踏みしめ働く人物や決して裕福ではない、家族たちの姿が見事に描写されている。そこには、ミレーの優しさも伝わってくる。
「フォンテーヌブローの森」「バルビゾン村」の作品群からはどこまでも静寂さが伝わってくる。どの作品にも共通しているのは、ほの暗い木々の表面に一筋の光が当てられていることである。言い換えれば、「光と陰」が見事に表現されていることである。これらの作品は、現在「バルビゾン派」と呼ばれている。
この作品展は日本で四か所しか開催されず、西日本では高知のみである。
いい作品展に巡り合った。
432)挨拶のネタ 投稿者: 岩 投稿日:14年4月21日(月)21時26分
最近、いろんな人の前で挨拶をさせられることが増えてきた。で、少しはまっとうな挨拶をしようと、ネタ探しにいそしんでいる。そのネタのひとつ・・・。
7〜8年前くらいに、飲んだ女性の名字が思い出せなくて・・・。
話の内容はしっかり覚えているのだが、彼女の名字がこの話の重要なオチなのに、である。
日本最大手印刷会社のクリエイティブ部門の彼は、ある日突然倒れ意識の戻らぬまま帰らぬ人となった。過労死だという噂が流れ、会社はそういう事を表沙汰にしたくないからか専業主婦だった彼の奥さんを高待遇で雇ったといわれていた。3年くらい後、郊外にある支社の不便さを解消するため、街中に事務所が開設された。私は打ち合わせや納品、見積書、請求書等の届けに毎日のように顔を出していた。そして親しく喋るようになった受付の女性が彼の奥さんであることを知った。彼女は事務所に出入りするために署名する私の名前を見て主人と親しくしていた岩坂さんだと分かっていたが、中々言えなかったと、後で聞いた。お互い、素性が知れたところで、「じゃあ今度、飲みに行きますか!」ということになり私は未亡人(未だ亡くならない人=なんというひどい言い方か!!!)と飲むことになったのです。某ミニバスチームの父兄が営んでいる小料理屋で未亡人と酌み交わしながら聞いたのがこれからの話です。小田さん(!!そう、思い出した!!!小田さんだ!!!!彼女の名字は小田さん!!!!!だ)は旦那さんが亡くなっても、旦那さんの実家で旦那さんのお母さんと自分の娘の3人で暮らしているとのこと。名字も昔のままで「小田」姓を名乗っている。義理のお母さんがとてもいい人で尊敬しているという。義理のお母さんは教育者で最後は小学校の校長先生で終えたそうだ。人望は厚く今でも現役の先生が相談に訪れることもあるのだそうだ。
その頃私は、ミニバスの子供達に対して無力感を抱いていた。中々成果が出ないのだ。そんな話をしていたら、その義理のお母さんが彼女が子育てで悩んだ時に、彼女に諭してくれた話を始めたのだ。
「子供は褒めてあげなさい。子供の悪いところは誰でも気が付くけど、子供の良いところは中々気が付かない。だから子供の良いところを探して褒めてあげなさい。それは子供を注意深く見ることにもなります。」
「『豚もおだてりゃ木に登る』と言いますが、子供も出来るだけおだてて、その気にさせてあげるのです。物事に積極的に関わるようになります。」
「『いい気になる』『調子に乗る』と言うと悪いことのように言われますが、言葉本来の意味を考えると良いことなのです。子供は褒めて『いい気に』ならせ、『調子に乗せて』あげるのです。」
会話の中でそんな宝物のような言葉を聞かせてもらい、改めて子供達に接する心構えを心の中で再確認していたら、最後に彼女は下を俯いて言った。
「それで・・・お母さんの名前は『てる』というのです。」
「えっ!?」と私
酒のせいではなく、頬を赤らめて、強い口調で、私を真っ直ぐ見て
「本当です!」と、彼女は言った。
431)お久しぶりです。 投稿者: 澤田 投稿日:14年3月31日(月)10時31分
昨年末、引っ越し、そのせいで「腰痛」が悪化し一月から二月末まで「入院生活」を送っていました。それまでは、一人で10mも歩くことが難しく何度か転倒。救急車で病院に搬送されたことも。入院当日、身長を測ると膝が曲がったままで直立姿勢が保てなく、歩く時も「歩行機」の世話が必要。それでも、なんとかスケジュールをこなし、数週間後、自立歩行が出来るようになりました。退院後、まだ完全ではないが、少しでも歩くことを心掛ける毎日です。インターネット工事が完了、これで72Dの会へも連絡が取れると、思いきや、繋がらない。会社に連絡を取り、追加機材を送ってもらい、少々手間取ったがやっと繋がる。その時の安心感は忘れられない思い出になりました。
楽しみにしていた、キャンパスを開くと、予想外の多さに驚き、読みふけったのはまだ昨日のこと。やっぱり、いいもんです、旧友の現在の思いを知ることが出来るのは・・・。日本シリーズを制覇した「楽天」田中のマーくんは、破格の契約金で大リーグへ、何とチャーター機で米国へ。彼の抜けた穴をどう埋めるかが、大きな課題となるが、今シーズンは上々のスタート。連覇はなるのか、今から楽しみである。セ・リーグは、巨人優位が動かないだろう、こんなことを早からいうと他チームファンから批判されそうであるが、巨人のひとり歩きだけは面白くない。
自分の生活に帰るが、引っ越しの荷物はまだ殆ど段ボール箱の中。ぼちぼちやるしかないでしょう・・・。ふと思い出すのは、忘れ物の多さ、貴重なものも沢山あるけれど、もう諦めるしかないでしょう。
430)辿る香椎界隈コーナーを更新しました。 投稿者: シタマ 投稿日:14年3月27日(木)09時02分
実は去年の5月、また新福を誘って、8年前に撮った香椎界隈45箇所を歩きました。
その時の写真をやっとアップしました。
今日しよう、明日しよう、と考えていた宿題がやっと一つ片付きました。
だめですねぇ。締め切りがないもんで、延ばし延ばしになって早や10カ月。
ずっと気にはなってたものの、45回も同じような作業をしなくちゃあいけないから、
途中でほったらかしになってました。
8年前と大きく変わってたのは、立花寮と西鉄香椎駅舎が新しくなってたこと、
JR香椎駅から北九州よりの地域で広く土地開発が行われていたこと位かな。
まっ、実際に写真を見てください。
今回撮った写真はクリックすると大きな画像にリンクします。
元のページに戻る時は、写真の周りの白い部分を右クリックで前に戻るを選択してください。
それにしても、前回と同じ立ち位置で写すのは少し大変でした。
散策が終わった後、香椎駅前の食事処で飲んだビールはうまかったなァ。
8年前と同じ店でしたが、つぶれてなかったからちょっと嬉しかった。
429)感激 投稿者: 大井手 投稿日:14年3月10日(月)21時41分
いやあ〜 びっくりしました。
72Dの会まだやっていたとは、すごい!
皆 おじさん おばさんになって、
いい感じに歳とって、本当に懐かしいです。
ああ 申し訳ない 長い間ご無沙汰していました。
なにを話せばいいのか1978年(36年ぶり)の保津川下り以来です。
同窓会参加したいですね・・・
現在 福岡市中央区在住
428)父、死す 投稿者: 謙吾 投稿日:14年3月5日(水)21時07分
2月26日 心不全のため 父 死去。92才
よって、遅くなっています 72Dの会の写真集
今しばらくお待ち下さい。
427)《まる3年、フーテンの寅さんに言ってもらう》 投稿者: 岩 投稿日:14年3月4日(火)9時54分
まだ行方不明者が2,636人もいる。「行方不明」という言葉を聞くとまだ胸が苦しい。もうすぐ、まる3年。その時の流れが震災、津波の事実をより複雑にしていく。
『「当事者」ではないものが「当事者」を代弁してみせる行為の内には、紛れもない善意と同時に、一種の無自覚な欺瞞が隠れていることがある。私たちは、自分(たち)とは絶対的に無関係な他人、文字通りの「他者」たちの悲嘆や絶望に共感する術は、実のところは、無い。だがそれでも、だから最初から諦めるとか、どうでもいいということではなく、それでも、それだからこそ、他者を思いやる能力が必要なのではないか。その能力を「想像力」と私は呼びたい。』
ちょいと前に目にしたこの文章は、至極当たり前のことを書いている。その当たり前を理解するまで「当事者」は「当事者」だから、随分かかった。そして、「想像力」は人間にとって大切なものだと心に仕舞い直した。
フーテンの寅さんは、もっとシンプルに教えてくれる。
「お前と俺とは別な人間なんだぞ。早え話がだ、俺が芋食って、お前の尻からプーと屁が出るか?」と。
芋の食感と屁の香りは、各々の「想像力」で、だろうか。
私は悟りきっていないので「想像力」を「妄想」に置き換えているが。
■《想像力》想像する能力やはたらき。過去の表象を再生するもの,全く新しいイメージを創造するものなどに大別される。
■《妄想》根拠のないありえない内容であるにもかかわらず確信をもち、事実や論理によって訂正することができない主観的な信念。
『「当事者」は“ありがとう”しか言わないから「他者」が「想像力」を駆使してちゃんと言葉を残さなければならない。』
と震災に向き合えずにいた山田太一が語っていた。彼が言いたいのは、耳障りの良い言葉ではなく、“ありがとう”という《雪景色》の下に隠れている本当の《景色》を「想像力」で焙り出そうというのだろう。3年前の「当事者」は、何をどうして良いのか分からず、ただオロオロとして、身近な人が命を落としても、遺体が発見されれば「良かったですね」「おかげさまで」があいさつになるほどの非日常が、日常になっていた。そんな時「他者」が駆け付けてくれて、非日常を日常に戻す手伝いをしてくれた。「当事者」は非日常を抱えながら日常を取り戻す作業に違和感を覚えるが、それが何なのかは分からなかった。多分「当事者」も整理できない程の重すぎる体験を「他者」に説明しても・・・と感じていたからなのだと思う。だから「他者」には“ありがとう”としか言えない。「当事者」がまだ整理できていないのに、「他者」が「想像力」で生んだ言葉は、「当事者」のいろんな所に分散した必死な思いの《景色》と、はたして同じだろうか?
フーテンの寅さんは、言う。
「それを言っちゃあ、お終いよ」と。
私たち「当事者」は、3年経って言葉を取り戻し発信し始めた世間に「それを言っちゃあ、お終いよ」という感覚を持ったまま、「他者」から忘れ去られること、風化することを一番“怖”れているのです。
■「それを言っちゃあ、お終いよ」映画フーテンの寅さんの台詞。寅さんはこの台詞を家族に対してしか使わない。山田洋次監督は「家族ほどやっかいなものはない、家族だからって何でも言っていい訳ではない」からと、寅さんに語らせた。
426)いつまでも若いと言う訳にはいかない 投稿者: あきさん 投稿日:14年1月23日(木)14時05分
同窓会の報告はどげんしたんかいな? というわけで
今回の参加者は、17名
あきさん・アリマン・おきゃーま・カッパ殿・圭子・けんご・工学部・
後藤夫妻・舌間君・正二郎さん・新福君・住吉君・チカさん・トヨ・西君・原さん
博多駅前に集合。ボックスカー2台で出発。基山パーキングで昼食。 423)に記されたように、正二郎さんは、今年もパンを食べていた。
その後、一路有田へ向かう。すると突然縦走する我らの車間に割り込みの車。ヤツは尻を向けたまま走りつづける。 愛媛ナンバー えっ? ケンゴの車なの?
誰が運転してるの?外から見える頭の高さがどうみても助手席の方が高い。ということは、トヨが運転?うまいじゃん!時間を見計らって高速で合流できるなんて 映画みたい。
無事にかっぱ殿の店に到着。
有田にある「陶山神社」に行く。さすがに有田。門柱やこま犬など陶器でできている。古い。
歴史の中に生まれ育ったなんてうらやましい。かっぱ殿は代々家業を受け継いで歴史を守っていくのだろう。彼の重み・深みを実感した。バカ話相手になってくれる かっぱ殿は芸人?と思われるほどであるが、じつのところ、尊きお方なのだ。
さあ、ほめすぎたところで、有田をあとに、竹崎(多良)に向かう。
会食では、ありまん提供の赤い晴れ着の着用の甲斐あって、参加者全員の還暦会をお祝いする機会を得た。
着慣れない赤いかぶりものと羽織りで二度三度シャッターが押されるうちに、モデル気分になってしまった人・イヤダイヤダと言いながらもポーズをとってしまう人・60歳であることを忘れて撮られている人、さまざまの様子。
しかし、こんな余興みたいな楽しみごとより最高なのが、竹崎カニ三昧であった。
想像していたよりも大きな(両手を広げたくらいの)甲羅に驚き、お姉さんの食べ方説明を受けるも、みな、皿の一品から目が離れない。ぶっつけ本番で、固くとざされた甲羅を開ける。かにみそもさながら、卵を充満させたカニ殿は、我らに食べられる為に気を熟していたのだろう。うまかった!隅々までおいしかった!エビのおどりもある・刺身もある・たべきれないくらいの料理が次から次へと。本来なら、酒がふんだんに行き交うであろうが、この日ばかりは皆カニから手も眼も離れなかった。みな、酒 弱くなったね。歳の所為かな?カニの所為であろうことはわかってるけどね。
小さな漁港にある旅館。また、家族で来よう。
旅館の女将に言われた。
「家族か兄弟姉妹のようですね。仲いいですね。楽しそうですね。」
「女性方のパワーはすごいですね」
{いつでもそうですから・・・}
{私たち女性は、対等でいるつもりなんですけどねェ}
四日の朝は、住吉君を見送る為、鹿島の駅へ。
鹿島は、知られた酒処。由緒ある酒屋が立ち並んでいる。ここを見たからには、ぜひとも利き酒を・・・一歩でも車から降ろそうものなら、スケジュールに影響あり。ゆっくりと走りながら、町を抜けて行った。
新福君の行程コーディネートには感謝
2月15・16日は、久留米城島で、酒蔵開きがある。今年は、行ってみることにした。
今回は佐世保まで車移動が多かったが、車中での話も結構おもしろいのでそれもまた有意義である。
この日のメインプランは、九十九島めぐり遊覧船である。両日とも天気が良かったので船が揺れることもなく、快適に風を切って爽快であった。デッキにたたずむ仲間の姿を見るにつれ、やっぱ、おじん・おばんやなあ。
いつまでも、若いというわけにはいかんのやなァ
でもこれから、何回も何回も付き合っていく人たちなんだなァ。もしかしたら、うちのだんなさまと居るときよりも 楽しいゾ!?!
皆、元気でいてくださいよ。
夕方6時の博多着を目指して、高速は渋滞の情報がでているので、峠越え。正解でした。ピッタシ着くと、そこには、ケンゴ・トヨの長男コウタロウが。生コウタロウは初めて。芸能人にでも出会ったような歓喜で、胸がおどった。握手を求めるおばさんが二三人。当然だろう。
ここで解散。あっけなく「さようなら、おつかれさま」
正二郎さん・新福君には、車の手配・運転でお世話になったのに、最後の最後がうまくなかった。食事もせずに帰してしまった。
申し訳ありませんでした
二年後は、必ず、福岡で開催します。
チカさん・新福君・あきさんでがんばります。
425)還暦 投稿者: 岩 投稿日:13年12月26日(木)23時05分
同級生だから当然みんなも還暦を迎えた、(あっ、来年4月1日までに迎える人も、そして同級生でも先に還暦を迎えた人もいる・・・。)昔の人は「人生は、生まれて20年は自分のために、次の20年は人のために、その次の20年は社会のために使う」と言っていたが、還暦を迎えてしまった私の人生をこの言葉に無理矢理あてはめると「生まれて24年は自分のため、次の33年は人のため、それ以降は社会のために」というところだろうか。
節目ということを考えると、どうしても過去を振り返る。歳をとるにつれ「前はさばけた人間だったのに」「前はあんなに身体に張りがあったのに」「前はあんなに元気だったのに」・・・と、過去の自分と比べて劣等感を持つ機会が増える。「自分はけっこうできる人間なのだッ」という自我イメージを持つことで脳は快感を感じるものらしい。問題は、その快感に騙されて、ありのままの自分の弱さが見えなくなること。あの時やれたのだから今もできるはず、という、過去の栄光にすがるような気持ちで生活をしている自分が居ます。
「グランディ21」で冬の県大会のコート作りを、朝7時からやってきました。残念ながら今年の我がチームは県大会出場は叶わなかったのですが、支部長をやってる以上、大会運営に参加しなくてはなりません。「グランディ21」は宮城県で大きなバスケットの大会が開かれる、バスケットの聖地です。日韓共同開催のサッカー・ワールドカップでイタリアが試合をしたサッカー場の隣にあります。多目的のアリーナでコンサートにもよく使われます。多目的であるが故に震災の時は、遺体安置所に使われました。その後、アリーナの床を張り替えるとか、取り壊すとか言われましたが、予算が付かないまま放置されました。そんな時、桑田佳祐が病後復活コンサート初開催の会場に選んでくれました。彼が、自身の厄払いと会場の厄払いをやったのです。桑田佳祐のコンサートのあと、「グランディ21」は普通に以前と変わりなく何事も無かったかのように、使われています。あの時、「グランディ21」を使いこなせるのは彼しか居なかったし、彼以外の人では駄目だったのです。何百人もの魂を救い、何十万人の心を癒したのです。彼以外の人では絶対、駄目だったのです。
年末に、還暦を迎えた自分の心の有り様を見つめると、過去の栄光にすがるような気持ちで生活をしている自分と、自分と戦いながら人を救い今を生きている人と「同時代」に生きている、その事をちゃんと想っていなければならないと思ったのです。
みなさん、良いお年をお迎えください。
424)来年の72Dの会は・・(パート3)? 投稿者: SHOU−JI−ROU 投稿日:13年12月8日(日)22時19分
お待たせしました。第19回『72Dの会in佐世保』参加人数は18名となりました。ほぼ、2年前の熊本と変わらない見事な集まりです。
(小生は幹事の立場ではないけどここで書き込みしていいのかな、とおもいつつ、
まっ、いいか、PRにでもお手伝いしてみなさんに知らせよう。)
では、今回も2年前と変わらぬ善男善女の常連だから、名前は要らんでしょう。
そんな中で、忘れられたはずの”珍客”一名が宮崎県から参加します。え、誰だろう?イワサカ?じゃないよ。当日会えるのを楽しみにしてください。
しかし、殿様とお姫様は自分の車で博多を素通りし、有田焼の鷹巣くん所へまっすぐ行くときいた。
どうも私たちは田舎から来た集団とみて無視するための存在らしい。博多を通るときはたぶん九州観光を読んでいるか、熟睡しているんでしょうね。殿様が事故のないよう、運転にくれぐれ気をつけてくださいね。
年末が近づいて来たようです。では、みなさん風邪をひかぬようにご自愛ください
最後になりましたが、このあとイワサカが本年最後のメッセージを贈るでしょう。
PS::あちゃま〜、パソコンプリンターが故障した。年賀状が出来ないで困った
423)来年の72Dの会は・・(パート2)? 投稿者: SHOU−JI−ROU 投稿日:13年11月17日(日)22時08分
2年前の『72Dの会in熊本』のことで、ちょっと気になったことがある。
1つは、基山PAで食事したときに、ここの食事のマズさは頭から消えないため
記憶に残っているからだ。小生はカレーを選んで注文していた。他のみんなはウドンを早く食べていたようだ。しかし、小生のそれはあんまり美味しくなかった。
ウドンもさぞ美味しくなかっただろうと思った。もう少しマシなものはないだろうか、と近くを探し回って、美味しそうなパンベーカリー店を見つけた。そこでアップルパイを18人分買い、みんなに一人ずつ分けて差し上げた。そうしたらみんなはとても喜んでくれた。
という訳で、今回もまた同じところで食事をするとしたら、何人が賛成するのだろうか?暗い気持ちになるのだけれど。出発前にどこかで、最寄りのコンビニとか、食堂にいって食事をすませたらいいだろう、と案じている。
それにもう一つ、4年前の『唐津・呼子』のことで、今治のお姫様は船酔い、車酔い二重苦にやられて、散々な思い出となって気の毒に思った。殿様は心配しただろう。
今回の遊覧船は揺れの少ない静かに進むので大丈夫でしょう。ご安心ください。
PS:あちゃぁ〜、1月3日は小学、中学卒業生の同窓会の案内状が来てる!還暦 同窓会のオンパレードだ。
422)来年の72Dの会は・・? 投稿者: SHOU−JI−ROU 投稿日:13年11月7日(木)23時09分
先日、新福くんがウチの店にやって来た。
来年の72Dの会旅行の事で車の手配をお願いに来たのだ。と同時にわざわざ僕のために母校の思い出アルバムを持ってきてくれた。今年創立50周年を迎える高校だけど、自分の写真を見つけたときは頭がきれいな髪でフサフサして、とても印象的だった。もう42年も昔のことだけど、あの頃の甘酸っぱい青春が蘇ってきた。
さて、話はもどり、仮に72Dの会の中間報告をしておこう。
新福くんの話を要約すると、まず初日。博多駅に集合する。高速道路を利用してPAにて食事する。そして有田焼の鷹巣くんのお店に直行して、じっくり買い物、鑑賞する。
このあと太良竹崎温泉に出発するのだが、近くに陶磁器で造られた陶山神社と日本三大稲荷のひとつとして有名な祐徳神社を出来ればお勧めしたいところだ。
竹崎温泉に泊まり、入浴で疲れを癒し、珍味の竹崎カニを賞味する。あとは二次会しだいで延々と・・・。
2日目、竹崎温泉を出発し酒蔵通りに向かう。ここは白塗漆喰の建物群が見どころ。ゆっくりと散策を望みたい。このあと西海国立公園の九十九島へ佐世保に直行。九十九島周遊は木造帆船『海王』で海上クルージングする。波止場付近でシーリゾートで自由にグリルしたり、お土産買い物をする。
という訳で今回のコースの内容を大体分かってもらえたでしょうか? これ、新福くんひとりで下見したそうで、皆さん褒めてあげてくださいね。
近々、案内状が皆さんのところへ届くでしょう。以上、幹事に代わって中間報告をお知らせしました。
PS:幹事は二人ともかに座生まれ。海に近いところが好きなんだね。なるほど。
421)3.11 to 11.3 投稿者: 岩 投稿日:13年11月5日(火)18時14分
6,500人以上、70回以上、1億円。
被災地から主催試合に招待した人の数、選手が試合の合間に被災地に訪れた回数、そしてチャリティ活動や監督の見舞金など震災孤児を支援する事業への寄付。
11月2日、160球を投げ今年初めて負けた「田中」。優勝の瞬間を見に球場に詰めかけたファンは、「ここまでこれたのもマー君のおかげだもの」「よく頑張ったね〜」「マー君も人の子だもん」。
今までに日本一になって「おめでとう」や「よくやった」ではなくて、お互いに「ありがとう」と言い合う球団や監督、選手、そしてファンがあっただろうか?
私が名前を挙げた「藤田」そして早口言葉「美馬学」覚えていましたか?
延長10回デッドボールを受け、そのあと、痛みをこらえて3塁まで激走して涙の交代をした「藤田」、日本シリーズで強力打線の巨人を無得点に抑えたMVPの「美馬学」。
ね、楽天って良い球団でしょ、楽天ファンって素敵でしょ。
まだまだ、思い出すだけで泣きそうになります、あれだけ感動して泣いたのに・・・。
420)相手は私の永遠のライバル。胸を借り、頭を下げ、やっつける。 投稿者: 岩 投稿日:13年10月25日(金)12時36分
早口言葉みたいな名前「美馬 学」が10月19日プロ初完封をしたFSの試合を見に行きました。
日本シリーズ第6戦のチケットが取れました。
3勝2敗で戻ってきて欲しい!!!そして目の前で優勝だ!!!
(勝手な私のストーリー)
伝統と人気と資金力のある都会の球団vs伝統も人気も資金力もない田舎の球団
都市vs田舎
阿部寛vs猫ひろし
都会vs故郷
モンブランvs栗饅頭
消費vs生産
スマホvsガラケイ
享受vs供給
キャビアvsとびっこ
巨人vs楽天
「白河以北一山百文」
「白河の関を越える」
都会目線で東北を軽くみた言葉。
“都会の絵の具に染まらないで帰って”
“季節が都会では わからないだろと 届いたおふくろの 小さな包み あの故郷へ 帰ろかな 帰ろかな”
目指すところvs帰るところ
どうなるのかな〜、日本シリーズ。
星野監督、三回出場しているけど一回も勝ってないんだよね〜。
419)コーチの遺作展 投稿者: ありまん 投稿日:13年10月6日(日)23時00分
福岡も朝夕涼しくなりました。ありまんです。楽天が優勝したから仙台の髭のオジサンが飲む口実が一つ増えたと祝杯をあげていることでしょう。いずれにせよ東北に嬉しいニュースがあると手放しで喜んでいますよ。
コーチが逝ってもう二年が過ぎ3年目に入ろうとしている。この人は不思議といない気がしない。神様に祀っていても、ずーっとどこかにいる気がしている。たむら内科に行くと 白衣を着たコーチが素足にスリッポンをはいて バタバタと走って出てくる様な気がして。約束の場所に来ないのは、駐車場の入口がわからないと 白の小さなベンツで周辺をぐるぐる回っているような気がする。向こうで御両親の世話をしながら、次の作品のアイデアをまとめているのだろうかと思い巡らすことしきり。元気でいてくれたらどこにいてもOKなんだよね。今度会ったら白内障の話をもっと詳しく聞いておこう。今日は何しているのか 不思議な友をもったもんだ。
先日 コーチの妹さんから連絡があり、この11月6日で三回忌になること、その時期に以前から言っておられた「コーチの遺作展」をする予定との連絡でした。
場所はコーチが事務長をやっていた愛媛県高松市の義兄と妹さんの病院と併設の介護施設で 11月6日から12月中旬をめどに展示されるそう。四国に旅をされる方、近くに御用の方、是非ご覧くださいとのこと。 武政純代の遺作展
〒761-8076 高松市多肥上町1461 TEL 097-888-3311「たむら内科」
418)良かったねー岩坂 投稿者: TOYO 投稿日:13年10月1日(火)21時07分
私からも、楽天優勝おめでとうございます!!
良かったねー岩坂。唯一「東北」という地方の名前の付いている地域の応援をバックにいろいろなところに「絆」を感じさせる素晴らしい球団。
マー君の最後のマウンドの真剣な顔に鳥肌がたちました。
誰かが言ってたね、「魂の8球」まさにその通り!!感動的な優勝でした。
ところで、シタマくん、アキさん、お先にィ〜♪
我がカープも初のCS決めちゃいましたよー!勝率5割もいってないチームがCSにいけるなんておかしいなどと陰口をたたかれてもへーきだもんね。
あと3試合勝って5割超すかもしれないし、運がよけりゃ短期決戦で、巨人をボロボロにやっつけて、マエケンVSマー君もアリかも!!
夢をみようよカープファン! なあんて、野球は知らないけど、時々郷土愛にめざめる、にわかカープファンの願いでした。
とにかく楽天もカープも良かった、良かった!!あとは、ソフトバンクやね。
417)祝・楽天優勝。 投稿者: 澤田 投稿日:13年9月28日(土)12時12分
岩坂君、おめでとう。そして多くのファンにも、東北人達にも。
結成当初は、寄せ集め集団と揶揄された同球団。野村監督から星野監督へ・・・
シーズン前は下馬評にもほとんど上がらなかった同球団。しかし、開幕を迎え、田中投手中心の脅威的な投手陣の奮闘により、負け試合かと思わせる試合も逆転。
マジックが点灯し始めた頃、なぜか自分も楽天ファンになっていた。
球団創設から、10年足らず…他球団も学ぶ点も多いはず、それが無ければ、パ・リーグの人気も、実力も低迷するであろう。
C・Sが今から楽しみである。
416)おめでとう 投稿者: シタマ 投稿日:13年9月27日(金)16時10分
イワサカよ、おめでとう。
楽天が優勝争いのチームに入るのは10年はかかると考えていたが、思ったより早かったね。
まるで、一昔前のホークスのよう。一皮むけたね。
あとは、我がホークスがCSで対戦できるように願うのみ。
ところで、今朝、娘に2番目の息子が誕生。2児のジィチャンになりました。
娘は今年いっぱいは、うちに居る予定だそう。
会社を辞めて約2年半。のんびり出来ると思っていたのに・・・。
イクジィの修行はまだまだ続きそうです。
415)泣いた 投稿者: 岩 投稿日:13年9月26日(木)22時31分
今、楽天が優勝を決めた。泣いた。凄いです、優勝までの9年間の思いを、思うと。上手い事いえないけど、他のチームが優勝するより、物語があり、感動する要素がめいっぱいある。多分マスコミはそんなところに食いつき、感動的な話を作り上げるのだろう。しかし、震災以降、一緒に戦ってきた選手、ファンの気持ちは違うところにあると思う。だから、泣いた。仙台で開催されるCSの試合には必ず行くぞ!!!そこでまた、思う存分泣いてやる!!!
414)自然の猛威を知る 投稿者: 澤田 投稿日:13年9月16日(月)14時56分
関東地方を中心に大きな災害をもたらした「竜巻」からまだ日も浅いのに、今度は「台風」。西日本から関東・東北まで、15日から翌日にかけ多大の「風水害」をもたらした。まだ、北海道に向かうという予報である。自然の猛威の大きさに人間はどうすることも出来ない事を改めて知らしめられた。一方、「福島原発」、事故から2年半が経つのに、「除染活動」はほとんど進んでいないのが、実態である。「事故処理」全般を「東電」任せにしてきたが、やっと「国」が腰を上げた。「人的災害」ともいわれているが、地震・津波の大きさも忘れてはならない。事故後、全国いたる所で「津波対策」が行われている。被害を最小限にとどめるために・・
話は、変わるが2020・東京オリンピックが開催決定。多大な予算を必要とされるだけに、大きな成果が求められる。七年後、無事に観戦できるだろうか?
413)秋が来る?いや、飽きないで!!! 投稿者: 岩 投稿日:13年8月29日(木)21時47分
《あついあつい、と言われていても、三月も経てばアキが来る》
こんな都々逸、何気なく聞いていたが、やっぱり都々逸 男と女!!!
仙台は朝晩すっかり涼しくなってきました。
ネ、ネ、知っとるけ〜。我が楽天にマジックが出たんやで〜。
あの〜、私の長男、楽天野球団インターネット販売の社員。
私、暇に飽かせて、ファームの試合も、一軍の試合も・・・通っています。
楽天、優勝したらどうしよう!!!
ずっと西武ファンだったのに(私も九州出身、西鉄ファンだった。西鉄が身売りして西武になっても西日本鉄道から西武鉄道になったのだからやっぱり「西鉄」だ。などと訳の解らない理屈でファンを貫いていた)仙台に楽天が来たら、いろいろ迷ったけど、楽天ファンになってしまった。長年の西武ファンを捨てるのは、自分を裏切るようで、自分のアイデンティティが無いようで、苦しい思いが重く深く、有った。
しかし今、息子の事といい、マー君といい、マイブームの横浜から来た藤田といい、すっかりはまってしまった。
ホント、楽天が優勝したら広瀬川に飛び込もうか、仙台四郎を川へ投げ入れようか。
日々、快調な生活を送っていますが、困った事も・・・。
先ず、大江健三郎が読めなくなった。あんなに大切に一行一行正確に読みとろうと行間まで読めていたのに。
次に、老人性早起き病になった事。睡眠不足、睡眠不足!!!
気持ちの持ちようがいい加減になリ“老人力”なのか忘れる瞬発力が増してきた。
みんな、元気に過ごしてますか?
私ばかり寄稿しても仕方がないので、ちょっとの時間があった時、舌間君の手を患わせましょう!!!
412)今田君がまたこのホームページを見てくれると思って 投稿者: 謙吾 投稿日:13年7月4日(木)22時41分
今田 Kinichi様
聞き覚えのある名前だったので確認しました。
僕たちより1学年下の卒展の委員長ですよね。
卒展の前後に何度か会ったと思います。
卒業後、東京銀座の「田村画廊」で、誰かの(忘れてしまった。ごめんなさい。)個展の時にも会ったと思います。その後飲みに行った記憶があります。
覚えていますか?
その時、写植の写研に就職したと聞きました。
ブログを見ました。活躍されているようですね。
これからも頑張って下さい。
私、品川 Kengoと申します。
411)サイトへ訪問者 投稿者: シタマ 投稿日:13年7月4日(木)15時10分
先日、72Dの会のホームページ経由でメールが届きました。
本人の了解を得て、以下に全文を紹介します。
(名はローマ字にて表示させてもらいました)
73Dの今田 Kinichiともうします。
突然のメールで、失礼いたします。
たまたま検索していて、「72Dの会」のサイトを見つけました。
わたしは1年下ですが、栫井さんや住吉さんは宗像寮で知っていますし、
オキャーマさんは同郷で(コーチさんという人もいたっけ)、
チトセヤ画材とかでときどき話したことがあるので
とてもなつかしい思いで拝見いたしました。
ところで、
わたしはブログに「福岡の夢」という思い出話を書いておりまして、
http://imadakin1.seesaa.net/
できれば「青春の一枚」のなかから、
004「芸学校舎より臨む」と、025「印刷実習」の写真を転載させて
いただけないでしょうか?
とくに「印刷実習」の写真は、当時の印刷実習室の様子がわかるので
ぜひともお願いしたいのですが……。
お忙しいところ恐縮ですが、
お返事よろしくお願いいたします。
今田 Kinichi
サイト:
http://www.kinkido.net/
プロフィール:
http://www.kinkido.net/JX/qinqidong.html
問題なさそうなので、025「印刷実習」の写真の転載を承諾しました。
一応、報告まで。
410)くずガラスの十字架 投稿者:あきさん 投稿日:13年5月31日(金)16時10分
岩坂義明さん 心よりお悔みもうしあげます
宮崎と仙台の距離があるからこそ、こころの繋がりも深かったことでしょう。私の場合、昨年の2月に父を亡くしましたが、半年過ぎたくらいからじっくりと父との関わりを振り返るようになりました。墓参り(福岡に墓を建てたのです)に月参し、信じてはいないけど目の前に居る父と話しています。葉・花びらが揺れると返事してるんだな・・・と。かわいいもんでしょ?
今月19日に妹が洗礼を受けました。何故、この歳になって?とお思いでしょう。昨年6月妹のつれあいが亡くなりました。癌の痛みに苦しむ中家族の愛ともう一つ確信の強い救いが必要だったのでしょう、病床、洗礼を受けました。表情がかわったような気がします。亡くなってからは、妹は毎朝教会に出向きお祈りを続けました。そして、洗礼を決めました。教会の皆さんからは「おめでとうございます」と言われます。クリスチャンの母には慣れた光景でも、無宗教の私には??? !!の感しかありません。何故、祝礼なんだろう?? キリストや信者と姉妹になるというお祝いごとなんですって!!
この日、同席した母からある一言を聞いて、50年間の負の思いがやっと溶けました。子どもの頃から私一人が洗礼を受けていなくて、弟や妹に嫉妬しつづけていました。日曜礼拝に行く母を見送るのはつらく、そんな日の留守番は嫌いでした。ところが、「あんたたち3にん(私・弟・妹)とも幼児洗礼は受けてるよ」
あああああーー うるうるうるーー
両親の愛につつまれてたんだー
これまで、教会・礼拝など不要語句だったし、教会へのお誘いのピンポーン来訪者はハナッからノーサンキューでした。でも、いまでは、カドもとれた様な気がします。もっとも、カドがとれるということは丸くなる・・?ただでさえ、洋梨体系なのに_
こんな儀式の最後にステンドグラスの当たるイベントがあると聞き、当たればラッキーなんて思っていましたところ、やりました。幸せを運ぶ はと が、私の手元に。すごい、私なんかがもらっていいのかしら・・ と書くと、高価な代物とお思いでしょう。
イスラエルの戦地からの大切な十字架でした。アメリカ軍が戦車で対戦します。現地の子ども達も身近にあるガラス瓶で応戦します。なんども繰り返され子ども達のこころは荒んできます。一人の信教者がこのままではいけないと、割れた瓶でクロスをつくろうと。出来た十字架は子ども達がアメリカ軍に手渡しました。おとなたちのこころに響いたはずです。その一つが私の手元にわたったのです。10?pくらいの透明ガラスに青いガラスの鳩がコーティングしてあります。決して、くずではありません。十字架いえば神の象徴、でも私にどれほどの大切感があるかと問われると・・今まだ、うちのどこに所蔵しようかと考慮中。
はなし変わりますねー
先週土曜日、ふくおかのイベント 「バルウォーク福岡」に参加と言うか、飲み歩きました。元々は函館で実施されたイベントだったみたいですね。87の飲食店が参加していて、行ってみたい店5店舗をハシゴするというお楽しみなのです。事前に、いいね!など下調べしておくとむだに歩き回らなくてもいいわけです。
700円(1ドリンク・1プレート)×5店舗の一綴りで、物足りるかしら?と思ってましたが、15時からスタートなので結構ごきげんさんでした。気に入れば現金追加で居座ってもいいんです。福岡の広さ・距離感がマッチしたんだと思います。4軒目でふと気づくとスタンドバーOGUNIの前。岩坂が来福した折ありまんが連れて行った界隈。思い出しながら、食し飲んでおりました。みなさん、福岡に来たら声かけてね。遊興っぽいけど、町興しにぜひプランニングしてほしいね。
楽しかったでーす。
409)パンのみで生きる 投稿者:岩 投稿日:13年5月30日(木)15時14分
2013年5月25日(土)長男夫婦が孫を連れて訪ねて来た。孫は生まれて8カ月の月誕生日。20センチ近くも身長が伸びたそうだ。その表情や仕草を見ていると、「無邪気」だの「純粋」だの実感を忘れてしまった言葉が、いちいち実感を持って私の毛の生えた心を鷲掴みにする。この子は私の息子の子で、息子は私の子である。これは人間の連鎖で、私の目の前でそれを証明してくれる。5月2日(水)八十八夜の日の08時17分、宮崎の実父が88歳で虹の橋を渡った。小さく細くなった亡骸は私の父で、この父が居なかったら私も、息子も、そして「無邪気」で「純粋」な、可愛い孫は存在しなかった。
「人はパンのみにて生きるにあらず」 本当の意味は『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』ということらしい。何故キリストはこんな事を言ったのだろう? アキさんが聞いたら「乱暴だな〜」と言うかもしれないけど、私は「パンのみで生きる」で良かったのにと思う。「あらず」が付くから人間は余計なことを考え、悩み苦しむ。「パンのみで」生きてくれたのかどうか分からないが、父が生きてくれたから今の私の幸せがある。父の遺骨を抱きしめて、私が知っている父の人生や性格を一つひとつ確認していくと、私の人生や性格と重なっている部分が多い。遺伝子がそうしたのか、遺伝子がそう思わせているのか。「絶対」から「凄い」になって、「目標」から、「背負いて三歩歩まず」になって、「寂しく」になって、父親像の王道を歩んで彼岸へ行った父。孫の「無邪気」な仕草を見ていると、どんどん胸が苦しくなって・・・笑いながら、涙がこぼれた。ひと月たって、やっと私の中に父の死が訪れた。
408)私の愛読書 投稿者:澤田 投稿日:13年5月3日(金)22時05分
最近ほとんど本を読んでいない。高校時代は「破戒」の島崎藤村、ほとんど読んだが長編の「夜明け前」で躓いた。大学時代はふと知り合った友人から、借りた「松本清張」の「点と線」の小説。舞台は「東京駅」と「香椎」、向かいのホームが見渡せるのは、「三分間」その間に男女のペアがいたことが目撃されている。一方、「香椎」海岸でその男女が遺体で発見される。時間的に当然間に合うことは出来ない。そのトリックに臨む二人の刑事。
映画化もされ、古い「香椎駅」が出てくる。テレビでも放映される。
この「点と線」により、「松本清張」作品を社会人になっても、読みあさった。
清張作品に共通するのは、和服の似合う美人である・・・、私見であるが・・・。
407)「私の田舎」 投稿者:澤田 投稿日:13年4月16日(火)14時35分
私の田舎は、前にも述べたが「四国山地」のど真ん中にある。今回はそれに触れてみる。
私の実家には、いまだに車が横付け出来ない。車庫から五十メートルほど、急こう配の坂道を上らないといけない。父母がまだ元気だった頃、「柚子」と「ししとう」を栽培していた。その運搬のために「モノレール」を付けた。町内で唯一である。私はいまだに、運転方法を知らない。
夏場は、汗だくになりながら、上り詰めると「町内を百八十度」見渡せる絶景が広がる。これも町内一である。夏の「花火大会」は目の前に広がる、見上げる必要はないのである。
もう一つ珍しいのは、家の中に「湧水」の池がある。炊事・洗濯等全てをまかなっていた。たまに水が枯れたときは、大変である。家族総出で下の家からのバケツリレー。今は、水道もひかれ「水」に困ることはない。
こんな懐かしい時代もあったと思い出す昨今である。
406)「帰郷」 投稿者:澤田 投稿日:13年3月15日(金)15時46分
学期ごと講義終了後、香椎から博多まで電車で、そして急行で岡山まで、もう夜が明けている。さらに。電車に乗り宇野まで乗る。いつ乗っても満員。宇高連絡船に乗って高松へ向かう、よく讃岐うどんを食べた。二時間ほど経って、高松着。今度は急行で高知行きに乗る。これから、まだしばらくかかる。大歩危・小歩危のV字谷を通過すると、大杉駅が近づく。何となく、心が躍る。到着後、田舎行きのバスに乗り換え、しばらく走る。峠を曲がると、街が広がる。なぜかほっとする。バスを降りて徒歩で十分ほど歩いて、母の務める雑貨屋に着。
荷物を置いて、母校へ向かう。何をしに行ったかというと、「卓球部」に会いに行くためだった。こんな生活が教職を目指す切っ掛けとなっていった。
三年間の時間講師を務めたが、高校での採用試験はなく、養護学校(特別支援学校)受験。何とか合格。幾つかの養護学校経験し、振り返れば、いい経験になったと思う昨今である。
405)澤田よ、メール見よるか? 投稿者:シタマ 投稿日:13年3月18日(月)20時41分
ところで澤田よ。先日投稿があった「帰郷」のタイトルの書き込みは、「あぁ学生時代」に投稿する分じゃあないと?キャンパスに投稿しとるぞ。どっちにアップしていいか分からんから保留しとるよ。メールでその旨を送っとるのに返事がない。メール、見よると?
404)博多漫遊記/3 投稿者:いいわ〜 投稿日:13年3月11日(月)12時19分
人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る
歩いてゆくんだしっかりと 自分の道をふみしめて
人生勇気が必要だ くじけりゃ誰かが先に行く
あとから来たのに追い越され 泣くのがいやならさあ歩け
人生涙と笑顔あり そんなに悪くはないもんだ
なんにもしないで生きるより 何かを求めて生きようよ
温水プールの中に潜ったような心地よい酔いの中で、S:1号氏に「今日1日運転本当にお疲れ様、ありがとう!」と別れを告げ、熊本まで帰るS:2号氏を地下鉄駅までA:2号氏と送って(名残を惜しんでハグし、投げキッスまでした)、そして次の記憶は春吉のスタンドバーOGUNI。A氏行きつけの店で、本来は日曜定休なのにA氏の人徳で特別に開けて貰った。佐藤健という(健をタケルと読めば)芸能人にいそうな名前の気さくなマスター。もっとも、実在の芸能人「佐藤健」とは正反対の、ゴツクて笑うと面倒見がよく、祭り好きの頼れるおじさんという感じである。実際「山笠」では毎年担いでいるそうだ。話が尽きないA氏、A:2号氏、S:3号氏と私の4人はS:3号氏が乗る最終のバスが出るバス停まで送って行き、まるで愛を引き裂かれる恋人同士のように、何度も何度も握手をして、ハグをして(酔っていたのでほとんど覚えていないが、多分みんなそうしたと思う)見送ったのだ。その後私は現役女子大生と人妻の両手に花の状態で帰路についたのでした。あ?、本当にたのしかった、頭の中がとろけるくらいに。
九州国立博物館の[ボストン美術館・日本美術の至宝/特別展]は本当に素晴らしかったし、その価値は世界に認められているけれど、私にとって 九州博多博物館の[九州産業大学・芸術学部の至宝/72D・2013年特別展]は 九州国立博物館の[ボストン美術館・日本美術の至宝/特別展]の何百倍も価値のある集いそのものでした。
震災時の皆の励ましの電話を切った後の涙や、善意の贈り物を受け取った時のあふれる涙の意味は(その当時整理できずにいましたが)こうして皆と過ごした時間を通して、心の底深くにゆっくりと積もって行く「感謝」の気持ちなのだと、ボンヤリと分かってきたような気がします。(ごめんなさい、「感謝」という言葉を、大切な言葉が安っぽく使い捨てられた震災時のように使いたくない、と思うから恐る恐る確かめながら使っています)皆、本当にありがとう、幸せな時間を本当にありがとう、生き残って良かった。
■出演
A氏=ありまん
S:1号氏=新福くん
S:2号氏=住吉くん
S:3号氏=舌間くん
A:2号氏=あきさん
403)新コーナー「あぁ学生時代」開設 投稿者:シタマ 投稿日:13年3月9日(土)22時30分
少し前、澤田クンから学生生活や卒業制作の思い出を語りたいという書き込みがありました。
それではちゅうことで新コーナー「あぁ学生時代」を開設しました。
学生時代、それぞれに楽しかったこと、つらかったこと、いろんなことがありましたね。
忘れたい記憶。人にも知っておいてもらいたい記憶。
学び遊んだ学生時代を共に生きた証として残すのもいいかもしれません。
先日、岩坂と再会したとき、「シタマは教育実習で水戸黄門を歌ったんよな」てな話がありました。
そうなんだぁ。水戸黄門なら歌ったんやろなぁ。全然憶えてないんやけど、学生の時そんな話をしたんやろねぇ。
先の澤田の書き込みでも、きざみタバコをキセルで吸っていた変なやつちゅう学生時代の評価も頂きました。
本人が憶えてなくても、人が憶えてることもあるんやねぇ。
ということで、自分自身への書き込みはもちろん、他のメンバーへの書き込みもご自由にどうぞ。
ネットしてるかどうか分からないので、とにかく各自1ページを提供します。
一気に書き込まなくても思い出したつどでいいです。
さっ、澤田、準備は出来たぞ。
「あぁ学生時代」の自分のページから思う存分書き込んでくりぃ。
402)3.11から二年が近づく。 投稿者:澤田 投稿日:13年3月8日(金)08時43分
3.11からまる2年が過ぎようとしています。
陸前高田の「奇跡の一本松」のレプリカが完成しようとしています。原木は塩分を吸い上げているため、腐食が進む。そこで原木を小刻みに切断し、中心に金属を通す・・・、葉や実まで表現。日本の技術の凄さを知る。
一方、浸水を帯びた地域を桜の木で覆い尽くす事業も進んでいる。完成までには数年を要するとの事。完成後の風景が楽しみである。
安倍首相は、「科学的に安全」が立証された所から再稼働する。「原発」については、これのみ。原発担当大臣も置かれていない。東電任せという感強し。
復旧・復興は徐々に進んでいる感もあるが、原発10K圏内は立ち入り禁止。チェルノブイリはいまだに作業中。このままでは、福島に帰るのは、夢。
復興支援募金の使途、合計金額も明解でない。
今、我々は何が出来るのだろうか?何をなすべきなのか?
401)2年が過ぎようとしています 投稿者:岩坂 投稿日:13年3月7日(木)11時28分
被災した地域はほとんどが過疎で悩んでいた。復興が遅れて人口の2割、3割と人が流出している。人が居なくなっている。この地域には何人以上の人が居ないと予算は付けられませんという。残ってその地域を本当に復興させようとしている人はちゃんと居るのに。復興できれば人は帰ってくるかもしれないのに。どうしてやらせてくれないのだろう、復興は国がやってくれるの?昔からの決まりで予算を考えるのではなく、被災地に合わせて決まりを考えてくれないかな〜。使われていない予算がまだまだ有るというのに。まるまる2年、全く手が付けられていない処がほとんど。
まだまだ2,700人弱の人が行方不明。南三陸町の港近くで3回目の潜水捜索が行われた。その度、人骨が発見されるという。過去2回で全て引き上げてもまた。吹き溜まりのように、そこは潮溜まりなのだろうか。合掌。
民主党から自民党に日本丸の船長が替わって、アベノミクスだ、国土強靱化だ、TTPだ、原発推進だ、と震災が日本の政治の目次から無くなってしまったようだ。「風が吹けば桶屋が儲かる」ということでそれらの政策が全て震災に繋がるというのだろうか。何も悪いことをしてはいないのに、住む場所を、暮らす場所を、仕事を、家族を、理不尽に奪われた国民のことを、毎日放射能に怯えている国民のことを、日本という国は救う意志はないのか!!!(※「風が吹けば桶屋が儲かる」=意味=意外なところに影響が出ること、また、あてにならない期待をすることのたとえ。)
どうしたんだろう、震災後、震災を語ると皆目を潤ませて一生懸命聞いてくれたのに、最近は日常会話にすらならず、軽くいなされてしまう。ちゃんとした語る場を用意して語るそんな「語り継ごう」という話になったのだろうか。まるまる2年が過ぎ人の生き死に関わる根源的な事を、哀しいかな先に経験した地域の、人の思いをもっとちゃんと受け取らないと(風化していったら)その時その時のおまつり騒ぎに終わってしまう。まだ、「記念日」ではない筈だ。
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