善悪を知る木

 

 

生命の木

 

 

 

 

天界の秘義126

 

「しかし善と悪の知識の木はあなたはそれを食べてはならない。あなたはそれを食べる日には必ず死ななくてはならない」(創世記2・17)。

 

この言葉は今し方説明したばかりの言葉と共になって、主から発した凡ての知識により真で善い物を知ることは許されているが、しかし自己と世からそれを知ることは許されていない、即ち、私たちは感覚と記憶の事柄により信仰の諸々の秘義を探求してはならないことを意味している、なぜならそうした場合信仰の天的なものは破壊されるからである。

 

 

 

天界の秘義127

 

感覚と記憶に属した事柄により信仰の諸々の秘義を探求しようとする欲望は、次章に取り扱われているように、最古代教会の子孫の堕落の原因であったのみでなく、また凡ゆる教会の堕落の原因である。なぜならそこから誤謬のみでなく、生命の諸々の悪が発生してくるからである。

 

 

 

天界の秘義128

 

世的な形体的な人間は、もし私は感覚に属した物により信仰について、信仰に関わる凡ゆる物について教えられてそれを認めないならば、また記憶に属した物により教えられて、それを理解しないならば信じはしないと心に語り、自然的な物に相反する筈はないと考えて、このことを確認するのである。かくて彼は天的で神的な物を感覚の諸々の物により教えられようとするが、それは駱駝が針の穴を通ることが不可能であるように不可能なことである。なぜなら彼はそうした手段によって賢明になろうとすればする程、益々自分自身を盲目にしてしまい、遂には何物をも信じなくなり、霊的なものが在ることさえも、または永遠の生命が在ることさえも信じなくなるからである。このことは彼の仮定している原理から生まれている。これが善悪の知識の実を食うことであり、彼はそれを食うに応じて益々死んだものとなってしまうのである。しかし主から賢明になろうとは欲するが、世から賢明になろうとはしない者は、主を信じなくてはならない、即ち、主が聖言において語られたことは真理であるため、それを信じなくてはならないと心に語り、この原理に従ってその思考を規定するのである。かれは理性、知識、感覚、自然に属した物により確認するが、確認させない物は捨て去ってしまうのである。

 

 

 

天界の秘義129

 

人間はその仮定した原理が如何に誤ったものであっても、それにより支配され、その者の知識と理性は尽くその原理を支持することを人各々知ることができよう、なぜならそれを支持するようになる無数の考察がその心に現れてきて、かくて彼は誤った物を確認するからである。それゆえ、見て理解しない中は何物も信じることは出来ないということを原理として心に確認する者は決して信じることはできないのである。それは霊的な天的な物は眼で見たり、想像により考えついたりすることは出来ないからである。しかし真の秩序は人間は主から、すなわち、聖言から賢明になることであり、そのときは凡ての物は続いて起り、彼は理性と記憶知に属した事柄さえも明るくされるのである。

 

 

 

 

結婚愛353

 

そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。