木
1.認識
2.聖書より
3.杉の木
4.果のなる木
5.木を植える
6.生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になること
7.木を切る
8.草を刈る
1.認識
天界の秘義124
知恵、理知、理性、知識は人間のものでなく、主のものであることは、主の教えられた凡てから極めて明白である。例えばマタイ伝には主は御自身をぶどう畠を作り、その周囲に垣根を作り、それを農夫たちに貸し与えた家の持ち主にたとえられており(マタイ21・33)、ヨハネ伝には―
真理の霊はあなたらを真理の凡てへ導き入れるでしょう、かれはかれ自身で語るのではなく、何であれその聞くことを語るでしょう。かれはわたしを栄化するでしょう、わたしを崇めるでしょう、それはわたしのものを受けて、あなたらにそれを明らかにするからである(ヨハネ16・13,14)。
また他の所には―
人は天から与えられなくては、何も受けることはできない(ヨハネ3・27)。
それが真にそうであることは天界の若干のアルカナしか知らない人にも知られている。
天界の秘義125
「神エホバはその人に命じて言われた、庭園の凡ての木の果はあなたは食べて食べてもよろしい」(創世記2・16)。
「凡ての木の果を食う」ことは善で真のものを認識してそこから知ることである。なぜなら前に言ったように、『木』は認識を意味するからである。最古代教会の人々は啓示により真の信仰の知識を持っていた。なぜならかれらは主と天使たちと語り合い、また幻と夢により教えられたが、それらはかれらには極めて歓ばしいものであり、また至福のものでもあった。かれらは主から絶えず認識を与えられ、かくて記憶の内に貯えられた物を反省した時、直ぐにそれが真で善であるか否かを認め、誤った物が現れると、それを避けるのみでなく、恐怖を以って眺めるほどであった。かくの如きが、また天使の状態である。しかし最古代教会のこの認識に代って後には、以前すでに啓示された物から、またその後聖言の中に啓示された物から真で善いものにかかわる知識が続いて起こったのである。
天界の秘義2972
天的な教会が取り扱われている時は認識(103,2163)であるが、しかし霊的な教会が取り扱われている時は知識(2722)。
天界の秘義4013
木は全般的には認識と知識とを意味されており、それが天的な人について述べられているときは、認識を意味しているが、霊的な人について述べられているときは、知識を意味していることを知られよ(103、2163、2682、2722、2972番を参照)。ここから木は特定的には善と真理とを意味しているのである、なぜなら善と真理は認識と知識とにかかわりをもっているからである。オリーブとぶどうといった種類の木は霊的な人のものである内的な善と真理とを意味しており、はこやなぎ、はしばみ、すずかけといった種類のものは自然的な人のものである外的な善と真理とを意味しているのである。古代各々の木は或る特殊な種類の善と真理とを意味したため、森[木立ち]の中で行われた礼拝はその木の種類に順応していたのである(2722番)。
天界の秘義9011
善(643,2812,3720,8354)
善と真理の認識、その知識そのもの(103,2163,2722,2972,4552,7690,7692)
天界の秘義9337
人間
天界と地獄111
木はその種類に従って、理知と知恵を生む善と真理の認識と知識とに相応している。
2.聖書より
エレミヤ17・5−8
主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。
恵みの雨を見ることなく
人の住めない不毛の地
炎暑の荒れ野を住まいとする。
祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない。
詩篇1・1−6
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。
マタイ12・33−37
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪ある者とされる。」
3.杉の木
ヴァッスーラ
私の天使ダニエルP121
信頼しなさい 私はあなたの神であるから、我が利益となるようにあなたを見守り助言を与える。ヴァッスーラ、みことばは杉の木のように高くそびえ、その枝は開いた手のように広がり、多くのくに民に届いて、貧しい者を養い、あなた方の傷も 病人も癒す。染みを取り除き 惨めさを癒し、慰め、我が胸に引き上げ、あなた方を愛して どうやったら再び互いに愛し合い 私を愛せるかを教える。 我が腕であなた方を悪から救う、皆私のものだから、愛しい者たちよ。見なさい!見上げなさい、私の創ったものを、すべての被造物は我が意思に従っている。 小さな者よ、あなたを見通すようだ! 恐れないで、私にすがっていなさい。 被造物を飾るこの燦然とした輝きが見えるか?これは我が多くの神秘の一つに過ぎない、まだ多くは隠されたままです。 選ばれた娘よ、あなたに我が心の宝を現わし あなたは英知によって豊かとなる。 小さな者よ、あなたを喜んでいる。 さあ、学びなさい。
4.果を結ぶ木
天界の秘義776
最古代の人々が人間の思考を鳥にたとえたのは、思考は意志の事柄に対照すると鳥に似ているためである。ここに『鳥』と『飛ぶ物』と『翼のある物』と言われ、しかもこれらが人間の中の知的なもの、合理的なもの、感覚的なもののように継続的に言われているため、それらがこうしたものを意味していることをたれも疑わないように、聖言から若干の記事を引用して、確認しよう、そこからまた『獣』は今述べられた事柄を意味していることも明らかになるであろう。
[2]ダビデの書には以下のように記されている―
あなたはかれにあなたの御手の業を支配させたもうた、あなたは凡ての物をかれの足の下におかれた。すなわち羊と牛、まことに野の獣、天の鳥、海の魚の凡てをおかれた(詩篇8・6−8)。
これは主について言われ、人間を、また人間に属したものをことごとく治められる主の主権[支配]がこのように記されているのである。もしそうでないなら、『獣』と『鳥』を治める主権とは何であろうか。さらに―
果を結ぶ木よ、すべての香柏よ、野生の動物、すべての獣、這う物、飛ぶ鳥、かれらにエホバの御名を讃えさせよ(詩篇148・9、10、13)。
『果を結ぶ木』は天的な人を、『香柏』は霊的な人を意味している。
5.木を植える
天界の秘義8326
「彼らを植えられる」。これは絶えず再生することを意味していることは、『植えること』の意義から明白であり、それは再生させることである、なぜなら再生の場合も〔木を〕植えることに似ているからである。なぜなら木は植えられると、成長して葉、果実をつけ、その果実の種子から新しい木に成長し、また前のことが繰り返されるからである。人間の再生の場合もそれに似ており、それで聖言では人間はまた木に譬えられ、再生した人間は庭園または楽園に譬えられ、彼における信仰の諸真理は葉に、仁慈の善は果実に譬えられ、新しい木が生まれてくる種子は善から発している真理に、またはそれと同一の、仁慈から発している真理に譬えられているのである。『絶えず再生する』と言われているのは、再生は人間の中に始まるが、決して停止はしないで、単にに彼が世で生きている間のみではなく、また他生においても永遠に、絶えず完全なものにされているからではあるが、それでもそれは神的なものに較べることが出来るほどの完成には決して到達することは出来ないのである。
6.生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になること
結婚愛353
そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。
天界の秘義1110
自分の善行による義と功績とを主張し、救いの効力を自分自身に帰して、主とその義とに帰しはしない、そしてそのことを思考と生活の中に確認した者らは、他生ではその誤った原理を幻想に変えられ、かくて彼らは木を切っている者のように自分自身に思われているが、これは彼らにそのように思われているようにそのまま起っているのである。私は彼らと語ったことがある。彼らがその仕事に携っていて、疲れてはいないかと尋ねられると、自分たちは天界に価することが出来るほどの仕事を未だ成し遂げていないと答える。彼らが木を切っていると、木の下に主の何かが在るように見え、かくてその木が彼らの獲得しつつある功績であるかのように見える。主のものが多くの木の中に現れるに応じ、益々彼らは長くこの状態の中に止まっているが、しかしそうした外観が停止し始めると、彼らの剥奪も終りに近づいているのである。遂に彼らは彼らもまた良い社会に入れられることが出来るようなものになるが、しかし依然真理と誤謬の中に長く動揺している。彼らは義務を重んじた生活を送っているため、主により非常な配慮が彼らに与えられており、主は時折彼らのもとへ天使たちを送られている。これらはユダヤ教会の中で木を切る者により表象された者である(ヨシュア記9・23,27)。
天界の秘義1111
善良な公民的なまた道徳的な生活を送ったものの、自分は自分の業により天界に価すると自分自身に言いきかせ、ただ一人の神を宇宙の創造者として認めるのみで充分であると信じた者らは、他生ではその誤った原理を、自分が草を刈っているように自分自身に思われて、草刈りと呼ばれているといった幻想に変えられる。彼らは冷たい、それで自分自身をこの草刈りで温めようと試みる。時折彼らは周りに行って、その会う者たちの間に、あなた方は私たちに熱を与えて下さるであろうか、と尋ねる。実際霊たちはその熱を与えることが出来るのであるが、しかし彼らの受ける熱は外なるものであって、その欲しているものは内なる熱であるため、それは彼らには何らの効果も与えないのである。それで彼らは草刈りに帰り、かくてその労働により熱を得るのである。その寒さを私は感じたのである。彼らは天界に挙げられることを常に望んでおり、時折いかようにして自分自身を自分自身の力により天界に入れることが出来るであろうかと共に協議している。これらの人物は良い業を行ったため、剥奪される者たちの間におり、遂には、ある時間が経過した後で、良い社会に入れられて、教えられるのである。