生命の木
真の基督教520
生命の木は、来り給う主を見上げることを、善悪を知るの木とは凡ゆる人間の中に在り、両者がエデンの園の中に在ったことは、主に向かうか、あるいはこれに背を向けるか、その何れかを為し得る人間の自由意志を意味することが示されている。
天界の秘義2187[2]
ナザレ人に与えられた律法は、すなわちナザレ人はそのナザレ人である日にはぶどう酒の材料であるぶどうの実から、その種子から皮に至るまで何一つ食べてはならないという律法は(民数記6・4)、以下の理由からであった、すなわち、ナザレ人は天的な人を表象したのであり、天的な人は(第一部202、337、880番の終わり、1647番に見ることができるように)霊的な事柄を口にすることすらも欲しないといった者であったためであり、ぶどう酒とぶどうの実は、またぶどうの実から作られたものは何であれことごとく霊的なものを意味したため、それでナザレ人はそうしたものを食べることを、すなわち、そうしたものを伝達され、それらのものに自分自身を連結し、それらのものを自分自身のものとすることが禁じられたのである。
[3]それに似たことがイザヤ書における『食べること』によっても意味されている―
渇く者はことごとく水に来よ、銀を持たない者は来て、買い、食べよ、しかり、来て、銀なしに、価なしにぶどう酒と乳を買えよ。パンでもないもののためになぜあなたらは銀をはかるのか。満たしもしないもののためになぜ労するのか。勉めてわたしに聞けよ、善いものを食べよ、あなたらの魂はあぶら身を歓ぶであろう(55・1、2)。
同じくまたヨハネの書には―
勝を得る者にはわたしは神の楽園の真中にある生命の木の実を食べさせよう(黙示録2・7)。
『生命の木』は天的なものそれ自身であり、最高の意義では主御自身であるが、それは主から天的なものがことごとく、すなわち、愛と仁慈とはことごとく発しているためである。かくて『生命の木の実を食う』ことは主を食べることと同一であり、主を食べることは愛と仁慈とを与えられ、かくて天界の生命にぞくしたものを与えられることである、このことを主御自身ヨハネ伝に言われている―
わたしは天から降った生きたパンである、もし人がこのパンを食べるなら、その者は永遠に生きるであろう、わたしを食べるものはわたしによって生きるであろう(6・51、57)。しかしかれらは言った、これははげしい[つらい]言葉である。イエスは言われた、わたしがあなたらに話す言葉は霊であり、生命である(60、63)。
[4]ここから聖さんで食べることにより意味されていることが明白である(マタイ26・26−28、マルコ14・22、23、ルカ22・19、20)すなわち、それは伝達され、連結し、自分自身のものにすることである。ここからまた主が以下のように言われたことにより意味されていることが明らかである―
多くの者が東と西から来て、アブラハムとイサクとヤコブとともに席につくであろう(マタイ8・11)。
これはかれらが神の国でかれらとともに食べるということではなくて、かれらが『アブラハムとイサクとヤコブ』により意味されている天的な善を享受するであろう、すなわち、愛の天的なものを享受するであろうということであり、たんに『アブラハム』である最も内なる愛の天的なもののみでなく、イサクであるところの、合理的なものの愛の天的なものであるような、中間にある低いものを享受し、また第一の展開の中にあって『ヤコブ』により意味されているものであるような、天的な自然的なものであるところの、さらに低いものをも享受するであろうということである。この言葉の内意はこうしたものである。(こうした事柄が、『アブラハムとイサクとヤコブ』により意味されていることは1893番に、また他にかれらがとり扱われている所にはすべて認めることができよう)。なぜならそれらの天的なものを楽しむと言っても、またはそれらの人間により表象されている主を楽しむと言っても、それは同一のことであるからである、なぜならそのすべてのものは主から発し、主はそのすべてのものであられるからである。
◎生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になること
結婚愛353
そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。