欲念

 

 

1.欲念

2.悪と誤謬にいる者らは意志の代わりに欲念を持ち、理解の代わりに科学を持っている

3.痛み

4.欲念はその快楽とともに道をふさぎ、主に対し扉を閉じる

 

 

 

 

1.欲念

 

 

天界の秘義1666

 

なぜなら誤謬を生み出さない欲念は到底あり得ないからである。欲念の生命は炭火に、誤謬はそこから発してくる薄暗い光にたとえることができよう。火は光なしにはあり得ないように、欲念も誤謬なしにあり得ないのである。欲念はことごとく醜悪な愛にぞくしている、なぜなら愛されるものは欲求され、かくて欲念と呼ばれ、欲念そのものの中には問題の愛の連続してものが存在しているからである。この愛または欲念を支持し、またはそれに同意するものはことごとく誤謬と呼ばれるのである。ここから『塩海』という言葉が『シデムの谷』という言葉にここに附加されている理由が明白である。

 

 

天界の秘義1666[]

 

欲念と誤謬とは人間を剥奪し、または荒廃させるものであり、すなわち、人間から善の愛の生命と真理の生命をことごとく剥奪するため、剥奪は多くの記事の中で塩により記されている。

 

 

天界の秘義4776

 

「悪い野獣がかれをかみくだいたのだ」。これは悪のいくたの欲念がそれを消滅させてしまったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『悪い野獣』の意義は欲念の生命からくる虚偽であり(4729番)、従って欲念であり、『かみくだくこと』の意義は、それが教会の真理について述べられているため、消滅させることである。教会の真理そのものは主に対する愛と隣人に対する愛とが主要なものであるということである(マルコ12・29−31)。欲念がこの真理を消滅させるのである。なぜなら欲念の生命の中にいる者らは愛と仁慈との生命の中にいることはできないからである、なぜならその二つのものは全く対立したものであるから。欲念の生命は自己のみを愛して、隣人を自己からでなくては、または自己のためでなくては愛しないことに在るからである。ここからこの生命の中にいる者らはその者ら自身の中に仁慈を消滅させてしまい、そして仁慈を消滅させる者らは主に対する愛もまた消滅させるのである、なぜなら主は仁慈の中におられるため、仁慈以外には主を愛する手段は存在しないからである。仁慈の情愛は天界的な情愛そのものであって、それは主のみから発しているのである。このことから以下のことが認められるであろう、すなわち悪のいくたの欲念は教会の真理そのものを消滅させるのであり、それが消滅すると、救うものと言われる手段が、すなわち、信仰が考案されるのであり、これが仁慈から分離すると、真理そのものが汚されるのである、なぜならそのときは仁慈とは何であるかがもはや知られなくなり、隣人とは何であるかさえもまた知られなくなり、従って人間の内なるものとは何であるかも知られなくなり、天界とは何であるかさえも知られなくなるからである。なぜなら人間の内なるものは、また人間の中の天界は仁慈であり―すなわち、他の者に、社会に、自分の国に、教会に、主の王国に、引いては主御自身に善かれと願うことであるから。このことからわたしは、本質的なものであるものが知られないとき、またそのものに反したものが、または欲念が支配するとき、教会の真理の性質はいかようなものであるかを結論することができよう。欲念の生命がこれらの諸真理について語るときは、その諸真理はもはや認められることができないほどにも汚されはしないであろうか。

 

 

天界の秘義5662[2]

 

現今では聖言に、例えば『エホバはその御顔をあなたに上げて、あなたに平安をたまわるように』(民数記6・26)という祝とうや、その他の所に言われている『平安』の意義をほとんどたれも知ってはいないのである。ほとんど凡ての者は平安は敵から安全に守られていることであり、またおだやかにくつろいで仲間の間にいることであると信じている。この記事にはこうした平安は意味されているのではなく、それに無限にまさっている平安が、すなわち、今し方語った天界の平安が意味されているのである。この平安はたれにも、もしその者が主によって導かれて、主の中にいないかぎりは、すなわち、主が凡てのものにおける凡てのものであられる天界にいないかぎりは、与えられることはできないのである、なぜなら天界の平安は自己への愛と世への愛とから起ってくる諸々の欲念が取り去られるとき流れ入ってくるからである。この欲念が平安を取り去るものである、なぜならそれは人間の内部にとりついてそれを苦しめ、ついにはかれに安心を不安なものにおかせ、平安を苦しませるものにおかせるからである。なぜならかれの歓喜は悪の中に在るからである。人間がこの悪の中にいるかぎり、平安の何であるかを到底知ることはできない、いな、かれはこうした平安は無価値なものであると非常に長く信じており、もしたれかが自己への愛と世への愛から発した歓喜が取り去られるとき、それが認められるようになると言うなら、かれは、平安の対立したものである悪の歓喜に平安をおいているため、嘲笑してしまうのである。

 

 

2.悪と誤謬にいる者らは意志の代わりに欲念を持ち、理解の代わりに科学を持っている

 

 

新エルサレムの教義33

 

善と真理にいる者たちは意志と理解を持っているが、悪と誤謬にいる者らは意志と理解を持っていない。彼らは意志の代わりに欲念を持ち、理解の代わりに科学を持っている。なぜなら真に人間的な意志は善を受ける器であり、理解は真理を受ける器であるから。そうした理由から意志は悪について述べられることは出来ないし、理解も誤謬について述べられることは出来ない。なぜならそれらのものは相反したものであり、相反したものは互いに他を破壊するからである。そこから、悪におり、かくて誤謬にいる人間は合理的であり、賢明であり、理知的であると呼ばれることは出来ないことが生まれている。悪い者のもとでは、また意志と理解を第一次的に宿しているその心の内部は閉じられている。悪い者も、私は意志する[欲する]、私は理解すると語っているため、彼らも意志と理解を持っていると信じられるが、しかしその欲するところは単に欲念にすぎず、その理解も単に知ることにすぎないのである。

 

 

 

 

3.痛み

 

 

天界の秘義4496

 

「かれらが痛みをおぼえていたとき」。これはいくたの欲念を意味していることは割礼の後の『痛み』の意義から明白であり、それは欲念である。この痛みが欲念を意味している理由は、割礼は自己と世を求める愛から浄められることを意味しているということであり(2039、2044、2049、2632、3412、3413、4462番)、肉の欲念はことごとくこれらの愛から発していて、それでこの『痛み』により意味されているのである、なぜなら人間が再生しつつある場合のように、人間がこれらの愛から清められつつあるときは、かれらは痛みを覚え、苦しみ悶えるのであり、痛みを覚え、苦しみ悶えるものはそのとき遠ざけられつつあるいくたの欲念である。

 

 

 

 

4.欲念はその快楽とともに道をふさぎ、主に対し扉を閉じる

 

 

神の摂理33

 

そしてこれらの欲念は自然的な人に宿っているゆえ、また人間はその自然的な人から為すものを凡て自分自身から為すように感じるゆえ、彼はその愛の悪を恰も自分の力により除くように除かなくてはならない。かくて彼がそれを除くに応じ、主は更に近づき、御自らを彼に結合させられるのである。人間自身がその扉を閉じて、片側からおさえ、おしつけて開かせまいとしている間は、欲念はその快楽とともに道をふさぎ、主に対し扉を閉じ、かくて主により追放されることは出来ないことは何人でも理性から理解することが出来よう。人間は人間自身その扉を開かねばならないことは黙示録の主の言葉により明白である、「見よ、私は戸口の外に立って叩く、人がもし私の声を聞いて、戸を開くなら、私は入ってその許に行き、彼と共に食べ、彼は私と共に食べるであろう」(3・20)。それゆえ以下のことが推論される、即ち人は悪を悪魔的なものとして、主の入られるのを妨害するものとして避けるならば、主に益々密接に結合し、それを凶暴な暗黒の悪魔として嫌忌する者は最も密接に主に結合するのである。