内なるもの
天界と地獄34
内部は神的なものに更に近く、それ自身において更に純粋なものであるが、外部は神的なものから更に隔たっていて、それ自身においては更に粗悪なものであるため、完全はすべてまた内部に進むにつれ増大し、外部に進むにつれ減退している(*4)。天使の完全は理知、知恵、愛、善い凡てのもの、またそこから発する幸福の中にあるが、そうしたものから離れた幸福の中にはない。なぜならそうした幸福は外なるものであって、内なるものではないから。最も内なる天界の天使たちの内部はその第三の度が開かれているため、彼らの完全は、内部の第二の度の開かれている真中の天界の天使たちの完全に無限にまさっている。同じく真中の天界の天使たちの完全は最低の天界の天使たちの完全にまさっている。
*4
内部は神的なものに更に近づいているため、更に完全である、3405、5146、5147。内なるものの中には巨万の物が存在しているが、それは外なるものの中には一つの全般的な物としてしか現れていない、5707。人間は外なるものから内部へ挙げられるに応じて、光の中へ入り、かくて理知へ入り、その挙げられることは雲の中から澄明なものの中へ入るのに似ている4598、6183、6313。
天界の秘義2018
「わたしはわたしとあなたとの間にわたしの契約を立てよう」。これは結合を意味していることは『契約』の意義から明白であり、それは結合であり、(それは前の665、666、1023、1038番に説明した、その結合は本章にまた前に幾度もとり扱われているが、ここに話されているエホバは、主はそのエホバと、初めにみごもりたもうたときから、また生まれたもうたときから、一つのものであられたため、主の中におられたことが示されている、なぜなら主はエホバからみごもられ、そこからその内なるものはエホバであられたからである。このことは人間の中にある類似したものによりさらに説明されたところである(1999番)、すなわち、人間の霊魂はその身体と一つのものとなっており、またはその内なるものはその外なるものと一つになっているのである、たとえそれらは[霊魂と身体は]相互に明確に区別されていて、ときとしては、試練の場合にきまって起ることではあるが、その一方が他方と戦うほどにも明確に区別されており、その試練にあっては内なるものは外なるものをけん責して、その中にある悪を斥けようと欲してはいるものの、それでもそれらは霊魂も身体もともに同一の人間に属しているため、連結しており、または一つのものとなっているのである。例えばその考えていることが、その者がその目つきに見せ、口で語り、その身振りで行ってみせるものと異なっている人間を考えてみられよ。その者の中には外なるものと相反している内なるものがあるが、それでもそれらは一つのものとなっているのである、なぜなら思考[その考えていること]は外なる目つきと口と身振りとがその人間のものであるようにその人間のものであるが、しかしその目つきが、唇の言葉が、身振りがその思考と一致するときは結婚が存在するのである。説明はこれくらいにとどめよう。
天界の秘義10468
聖言の内なるものと外なるものと言うも、または単に内なるものと外なるものと言うも、ここではそれは同じことである、なぜなら聖言は神的な真理[神の真理]であり、そこから人間は認識を得ており、ここではそのイスラエル国民のもとに、礼拝であれ、または教会の凡ゆるものであれ、または聖言の凡ゆるものであれ、その中に存在したような外なるものについて認識を得るのである。外なるものについて認識することはことごとく内なるものから発していることを知られたい、なぜなら外なるものの中に存在するものは内なるものから認められることは出来るが、外なるものからはその外なるもの自身の中にあるものは認められることは出来ないのであり、ましてや外なるものからは内なるものの中に在るものは認められることは出来ないからである。ここから内なるものを欠如した外なるものの中にいる者らは内なるものを感じもしないし、見もしないため、それを承認はしないのであり、またそれを否定し、それとともに、天界の、神的な事柄を否定する者もいるのである。
人間の内なるものは、外なるものがそれに連結していない限り、その状態をもって存続することは出来ない
啓示による黙示録解説533
しかし諸天界の教会は、それに和合した愛と知恵の中にいる教会がまた地上にも存在しない限り、存続することで出来ないため、またその教会がまさに存在しようとしていたため、それで『月がその女の足の下に見られ』、その月はここでは特定的に、現今在るがままの、(諸天界の教会と)連結していない信仰を意味している。諸天界に教会が、その教会に連結した教会が地上にも存在しない限り存続することが出来ない理由は、天使たちのいる天界と人間のいる教会とは、人間における内なるものと外なるもののように、一つのものとして活動しており、人間の内なるものは、外なるものがそれに連結していない限り、その状態をもって存続することは出来ないためである、なぜなら外なるもののない内なるものは土台のない家のようなものであり、または土の上に在って、土の中にはない種子のようなものであり、それで何か根を持たないもののようなものであり、約言すると、原因がそれを存在させることの出来る結果を持たないようなものであるからである。これらの事柄から、世界の何処かに聖言が在り、聖言によって主が知られる教会が存在しなくてはならないことがいかに絶対的に必要であるかを認めることが出来よう。