外なるもの

 

 

内なるもの

 

 

 

 

天界の秘義3855

 

「レアは嫌われた」。これは外なる真理の情愛[外なる真理に対する情愛]は神的なものからは更に遠ざかっていたため、さほど愛しいものではなかったことを意味していることは以下から明白である、即ち、『嫌われる』の意義は愛しくないものであり、レアの表象は外なる真理の情愛[外なる真理に対する情愛]である(そのことについては前を参照)。外なる諸真理は内なる諸真理よりも神的なものからはさらに遠ざかっていることは外なるものは内なるものから発生しているという事実から認めることが出来よう、なぜなら外なるものは巨万の内なるもので構成されている映像と形であって、一つのものとして現れており、それが外なるものの性質であるため、その外なるものは神的なものから更に遠ざかって入るからである、なぜなら神的なものは最も内なるものの上の方にまたは最も高いものの中に存在するからである。主は最も高いものから人間の最も内なるものの中へ流れ入られ、その最も内なるものを通して人間の内部へ流れ入られ、さらにその内部を通して人間の外なるものの中へ流れ入られ、かくて主は間接的にまた直接的に流れ入られているのであり、外なるものは神的なものから更に遠ざかっているため、それはまたそうした理由から相対的には秩序を欠いており、それ自らが内なるもののように秩序づけられることにも甘んじないのである。この間の実情は種子の場合と同一であり、種子はその内部は外部よりも完全であって、種子に植物全体を、または木全体を、秩序正しく、その葉と果実とともに生み出させるほどに完全であるが、その外の形は色々な原因から容易に損傷を受け易いが、その種子の内なるまたは最も内なる形はそれ程損傷は受けないのであり、それはさらに内的な、完全な性質を持っているのである。人間の内なるものと外なるものの場合も同一であり、それで人間は再生しつつあるときは、彼は自然的なものの方面で再生する以前に合理的なものの方面で再生するのであり(3493番)、自然的なものの再生は遅くもあり、また更に困難でもあるのである、なぜなら自然的なものの中には秩序を持たず、身体と世から来る損傷にさらされている多くのものが存在しているからである。それが実情であるため、これらのものは『それほど愛しくはない』と言われているが、しかしそれが内なるものに一致するに応じ、またその中に在る内なるものの生命と視覚[判断]に貢献するに応じ、また人間の再生に貢献するに応じ、益々それもまた愛しいものとなるのである。