秩序

 

秩序づける主の全能

 

 

1.主は秩序そのもの

2.主御自身は秩序であられるため、主は秩序に反したことは何一つ決して為されはしない

 

 

 

 

1.主は秩序そのもの

 

 

天界の秘義5703

 

 主が現存されるときは、凡ゆる物は主の現存そのものにより秩序づけられるのである。主は秩序そのものであられ、それで主が現存される所には秩序が在り、秩序が在る所には主が現存されているのである。その秩序そのものは今以下に記されている頁に記されており、それは諸真理が善の下に正当に秩序づけられるということである。

 

 

 

天界の秘義5704

 

しかしイスラエルの息子たちが表象している教会の諸真理は基督教的な善によらなくては、すなわち、隣人に対する仁慈と主に対する愛の善によらなくては些かも秩序づけられはしないのである、なぜなら善の中には主が現存され、引いては善の中に天界が存在しており、従って善の中には生命が在り、かくて生きた活動する力が在るが、しかしそれは善のない真理の中には決して存在しないからである。善はその善自身の形に似た形に従って諸真理を秩序づけることは、凡ゆる愛から、自己と世を求める愛からさえも、かくて、復讐、憎悪、またそれに類した悪を求める愛からも非常に明らかである。これらの悪の中にいる者らは悪を善と呼んでいるが、それは彼らには悪は歓ばしいからである。彼らの所謂善は、彼らには真理である誤謬を、その誤謬がその善を支持するように、秩序づけ、ついには彼らが真理と呼んでいるこの凡ての誤謬を、信念を生み出すように秩序づけるのである。しかしこの秩序は地獄の秩序のようなものであるに反し、天的な愛の善の下に在る諸真理の秩序は諸天界の秩序のようなものであり、そこから己が中にこのような秩序を持っている人間は、すなわち、再生した人間は、小天界と呼ばれており、さらに最小の形の天界である、なぜならかれの内部は天界に相応しているからである。

 

 

 

天界の秘義5704[2]

 

諸真理を秩序づけるものは善であることは諸天界における秩序から明白である。そこでは凡ゆる社会は主から発しているところの善の下に諸真理に従って秩序づけられているのである、なぜなら主は神的な善以外の何ものでもなく、神的な真理は主の中にはなくて、主から発していることは世の太陽と比較することにより説明することが出来よう。太陽は火以外の何ものでもなく、光はその中にはなくて、そこから発出しており、同じく植物の形のような、世の光のものである幾多の物は、春と夏の時に明白であるように、太陽の火から発出して、その光の中に在る熱により秩序づけられているのである。自然全体は主の王国を表象している劇場であるように、この普遍的なものもまたそれを表象しているのである。太陽は主を表象し、その火は主の神的愛を、そこから発する熱はそこから流れ出る善を、光は信仰のものである諸真理を表象しており、それらは表象的なものであるため、それで聖言ではその霊的意義では『太陽』により主が表象され(1053、1521、1529−1531、3636、3643、4321、5097、5377番を参照)、『火』により愛が意味され(934、4906、5071、5215番)、かくて太陽の火は表象的には神的な愛であり、そこから発している熱は神的な愛から発している善である。(光は真理を表象していることは前に見ることが出来よう、2776、3138、3190、3195、3232、3339、3636、3643、3862、3993、4302、4409、4413、4415、4526、5219、5400番)。

 

 

 

2.主御自身は秩序であられるため、主は秩序に反したことは何一つ決して為されはしない

 

 

天界と地獄523

 

主御自身は秩序であられるため、主は秩序に反したことは何一つ決して為されはしない。主から発している神的真理は秩序を作るものであり、神的諸真理は秩序の法則であって、その法則に従って主は人間を導かれ、そうした理由から直接的な慈悲から人間を救うことは神的秩序に反しており、神的秩序に反していることは神的なもの[神]に反している。神的秩序は人間のもとにある天界であって、この秩序を人間は神的諸真理である秩序の法則に反した生活[生命]により自分自身のもとで歪めてしまったのである。この秩序の中へ人間は主により純粋な慈悲から秩序の法則により連れ戻されるのであり、人間は連れ戻されるに応じて、天界を自分自身の中に受け入れ、天界を自分自身の中に受け入れる者は天界へ入るのである。従ってまた主の神的慈悲は純粋な慈悲であって、直接的な慈悲でないことが明らかである。

 

 

 

天界と地獄523注

 

悪に生きる人間は慈悲のみで救われることは不可能である、なぜならそれは神的秩序に反しているからである、8700。

 

 

 

真の基督教341

 

 良く生活し、正しく信ずる人間が救われず、神はその自由意志によってその欲する者を救い、罪に定めることが出来ると想像することは、神を無慈悲、残忍、残酷な者として非難することであり、否、それはまた神の存在を否定するに等しいのである。かかる信仰は、神はその聖言の中に無意味な言葉を語り給い何等重要でない命令を発し、自らシナイ山に立てて、二枚の石板に書き録し給うた契約を犯し給うことを暗示する。神はその誡命に従って生き、彼に対する信仰を持つ者を救わざるを得ないことは、ヨハネ伝の主の言(14・21−24)によって明白である。宗教を持つ理知的な人間は凡て是と同一の結論に到達するであろう。何故なら、神は絶えず人間と共に在し、これに理解し、愛する生命と力を与え給うからである。それ故神は良く生活し正しく信ずる人間に御自らを愛に於いて結合させ給わざるを得ないのである。この事は神によって凡ての人間と凡ての動物に刻み付けられていないだろうか。父と母はその子を、鳥はその雛を、獣はその仔を斥ける事が出来ようか。虎、豹、蛇ですらその子を愛している。神がそれ以外のことを為すことはその存在の秩序に反し、また神が由って以って人類を創造し給うた秩序に反している。それ故良く生活し、正しく信ずる人間を罪に定めることは神に不可能であるが、誤った物を信ずる人間を救うこともまた不可能である。何故ならこれは再び秩序に反し、また公正の道に添わない限り発することが出来ない神の全能にも反するからである。公正の律法は変更することの出来ない真理である。何故なら、主は「律法の一画の落つるよりも天地の過ぎ行くは易し」(ルカ16・17)と語り給うからである。

 前に述べた事は、神の本質と人間の自由意志について多少知っている者には明白であるに相違ない。例えば、彼はアダムは生命の木の実とまた善悪を知る木の実を食う自由を持っていたことを知っている。若し、彼が只生命の木、或は生命の木々の実のみを食ったならば、神は彼を楽園から放逐することだ出来たであろうか。確かに不可能である。然し、彼が善悪を知るの木の実を食った後も、神はこれを長く庭園に留め置くことが出来たであろうか。これも確かに不可能である。同様に、神は地獄に天界の如何なる天使をも投げ込むことは出来ないし、また天界に如何なる地獄の悪魔をも入れることは出来ない。神はその神的全能によるもその何れをも為すことが出来ないことは上述した所(49−70番)から明らかである。