秩序づける

秩序

 

 

集める

 

 

天界の秘義4015

 

内的な真理の力により秩序づけることは、内的な人が外的な人へ、または霊的な人が自然的な人へ働きかける力である、なぜなら自然的な人の中に善と真理とを秩序づけることはすべて霊的な人から来ており(すなわち、主から霊的な人を通して来ており)、事実その中に在る真理を通して来ているからである、なぜなら主は霊的なまたは内的な人の善の中へ流入され、その中に在る真理を通して自然的な人の中へ流入されるが、しかしその人間が再生してしまうまでは、善を通して直接には流入されないのであり、それで自然的な人の中で秩序づけることはすべて内的な人により行われるからである。自然的なものは、または自然的な人は、それ以外の方法では到底秩序づけられることはできないのである(すなわち、再生することはできないのである)。このことは内的な人により為されることは真理を承認することから明白であり―そのことが内的な人により行なわれないかぎりそれは承認ではないのである―また内的な人による真理の承認であるところの良心からも明白であり、また認識からも明白である。秩序づけることは内的な人により真理を手段として行なわれるため、力は真理について述べられ[真理に属性づけられ]、また力を意味している『杖[枝]』も述べられ、同じく、手も述べられるが、それによりまた力が意味されており(3091番)、そのことは聖言の極めて多くの記事から確認することができよう。真理の中に真理自身から力が存在しているのではなく、善の中に力が存在するのであり、かくて善から発した真理の中に、すなわち、主から善を通して真理の中に力が存在しているのである。このことが真理の内的な力が秩序づけることにより意味されていることを在る程度示している。主を取り扱っているその最高の意義では、主御自身の力が意味されている、なぜなら神的なものはそれ自身の力を持たれるからであるが、それはその力は神的なもの以外のものからは発しないためである。

 

 

天界の秘義4075

 

このようにして主はまた天界も地獄も秩序づけられたのであるが、しかしそれは主が御自身を完全に栄化してしまわれるまで、継続的な段階をもって行なわれたのである。

 

 

天界の秘義5704

 

しかしイスラエルの息子たちが表象している教会の諸真理は基督教的な善によらなくては、すなわち、隣人に対する仁慈と主に対する愛の善によらなくては些かも秩序づけられはしないのである、なぜなら善の中には主が現存され、引いては善の中に天界が存在しており、従って善の中には生命が在り、かくて生きた活動する力が在るが、しかしそれは善のない真理の中には決して存在しないからである。善はその善自身の形に似た形に従って諸真理を秩序づけることは、凡ゆる愛から、自己と世を求める愛からさえも、かくて、復讐、憎悪、またそれに類した悪を求める愛からも非常に明らかである。これらの悪の中にいる者らは悪を善と呼んでいるが、それはかれらには悪は歓ばしいからである。かれらの所謂善は、かれらには真理である誤謬を、その誤謬がその善を支持するように、秩序づけ、ついにはかれらが真理と呼んでいるこの凡ての誤謬を、信念を生み出すように秩序づけるのである。しかしこの秩序は地獄の秩序のようなものであるに反し、天的な愛の善の下に在る諸真理の秩序は諸天界の秩序のようなものであり、そこから己が中にこのような秩序を持っている人間は、すなわち、再生した人間は、小天界と呼ばれており、さらに最小の形の天界である、なぜならかれの内部は天界に相応しているからである。

 

 

 

天界の秘義6703

 

 主が現存されるときは、凡ゆる物は主の現存そのものにより秩序づけられるのである。主は秩序そのものであられ、それで主が現存される所には秩序が在り、秩序が在る所には主が現存されているのである。その秩序そのものは今以下に記されている頁に記されており、それは諸真理が善の下に正当に秩序づけられるということである。

 

 

集める

 

天界の秘義6338

 

「集まり」。これはそれらのものがそれらのもの自身を秩序づけなくてはならないことを意味していることは、『集まること』の意義から明白であり、それは秩序づけられることである、なぜなら諸真理と諸善とはまた秩序づけられない限り集められることはできないため、『集められること』はその霊的意義ではそれ以外の意味を持たないからである。