主の全能

秩序

 

 

1.聖書より

2.マリア・ワルトルタ

3.ヴァッスーラ

4.サンダー・シング

5.神はその神的全能によるもその何れをも為すことが出来ない

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

創世記18・14

 

主に不可能なことがあろうか。

 

 

 

エレミヤ32・17

 

あなたの御力の及ばない事は何一つありません。

 

 

 

マタイ3・9

 

言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできなる。

 

 

 

マタイ19・26

 

イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 

 

 

マタイ28・18

 

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」

 

 

 

マルコ9・23

 

イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

 

 

 

マルコ10・27

 

イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 

 

 

ルカ1・37

 

神にできないことは何一つない。

 

 

 

ルカ18・27

 

イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。

 

 

 

ルカ22・69

 

しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P

 

「おっしゃる通りです! しかし、あの犬がもしあなたを見つけたら?」

「シモン、遠くからでも病気と自然界に命じ、悪魔を追い出すこともできる者が、その意思を一匹の犬に伝えられなかったと思うのですか?そこを曲がる道に入ろう。もう見つかるはずはありません。行きましょう」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P35

 

「川を止め、海を治めるあなたでも、時の流れを止めることはできないのでしょうか?」

「できないことはありません。しかし天の御父とこの世の御子、すなわち天と地の“愛”は、ゆるしを完成することを切に望んでいます・・・」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P371

 

それは天も地獄も、その思し召しには服従するからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P373

 

もし神が自ら人間の手に自分を渡さなければ、神を打つことはできません。では、あなたの前にひざまずこう。人の子がここ、足の前にいます。さあ、打て。(中略)

神がどのように死ぬかが見えないと恐れているのですか。では火のそばに行こう。火は生贄に必要です。見よ、こうすれば、よく見えるでしょう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P114

 

安息日に奇蹟を行うことは神の恵みであり、その慈悲を現すものだ。安息日は神の日である。全能の主がその威力を示す奇蹟をもって安息日を扱うことが、どうして悪いのか?

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P138

 

病気の妻が気の毒であったのと、あなた自身の心を幾分かため直したいと思って、私はあなたの家には行かずに妻を治してあげました。あなたはその恵みを受ける値打のない男ですが、私はそこに行かずとも事ができると教えるためにそうしました。私の行為は望みさえすれば、実現します。皆に言っておくが、あなたたちが軽蔑している人々は、あなたたちより善良であり、同時に私の力を信じています。行って主に感謝し、これからは信仰することを学びなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P38

 

 おまえたちがその一部始終を見るとおり、私の意志力の一撃だけですべてを灰に変えて散らせられるにもかかわらず、三年もの間、倦むことなく皆に愛の招きの手を差し伸べてきたのに、いまこの手が傷つけられるのを見ます“

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P39

 

 『まだ、おまえに与えられているこの時間内に、おまえが救い主のもとへ行くことを知ったら!』私よりも偉大なる愛はない!また、これ以上大きな権力もありはしない。私が“望む”と言えば、御父も賛成します。そして、倒れた淵から私の方へ手を差し出している人々に対して、私はあわれみのことばしかもたない。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P265

 

‘87・7・7

 

ヴァッスーラ、厳しい試練が待ち受けている、私の現存を忘れないように、そばにいる。 私の神聖な働きを信じることも 与えている恵み ♡ 私のわざは あなたの目には 伝統からはみ出したものと映ろう、しかし 私は神 誰と比べられようか? そして 私のわざを何と比べることができよう?

ヴァッスーラ、私は多くの聖職者たちが、 私の印 そしてわざを否定し、あなた方の間に私がとどまっていることを世に思い出させようとして 恵みを与えた人びとを どう扱うかを見て、深く悲しんでいる・・・この者たちはそのつもりでなくても 私のからだを傷つけている、pono!(*)

 

    ギリシャ語で、「私は痛む」という意味。

 

この聖職者たちは私のわざを否定し、土地を肥沃にするかわりに 沙漠にしてしまっている!

 

主よ、もし彼らが御わざを否定するとしたら、理由があるに違いありません!

 

霊的に彼らは死んでいる。 彼らは自分たち自身が沙漠であって 自分たちのつくったその荒涼とした原野に花を見かけると、そこへとんで行って踏みつけ、傷めてしまう、

 

どうして?

 

どうして? それは彼らの荒野には不釣り合いだから。彼らは自分たちの沙漠が不毛のままでいるように念を押している! 彼らの中に聖らかさは見出せない、少しも、私に与えられるものが何か 彼らにはあるだろうか?

 

守っているのです、主よ! みことばが歪められないように守っているのでしょう!

 

違う、彼らは私を守ってはいない、神としての私を否定している、我が無限の富を否定し、私の全能を否定している、私と自分たちとを比較しているのです。 彼らが何をしているか知っているか? 無神論を助長している。 私を鞭打つ人を倍加し、霊的に耳の聞こえない人びとを増やしている、彼らは私を守ってはいない、嘲笑しているのです! 私は彼らの否認にもかかわらず、助けることを望んだ。 その分、私の子羊たちを助け 養うように。 私を愛しなさい ヴァッスーラ、決して拒まないことによって 名誉を与えなさい ♡

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P268

‘87・7・9

 

わが神?

 

私です、ヴァッスーラ 私にはあなたに現していない奥義が数多くある! あなたに現したわずかなものも人間的な目で「見られて」(*)いる。

 *理解されて。

そこで 理解されずに 放っておかれるか、誤った説明が付け加えられてしまう、一体どうして 私のわざと人間のわざとを比べられようか ♡ 科学は神聖なわざとは比較し得ない、あなた方は私と人間とをまるで比べたがっているようだ! 確かに、私のわざはあなた方の目には正統に見えまい、しかし 私の一番の嘆きとは 私自身の司祭たちが私のわざを疑い、信じるのを拒み、こうして 私を支持する代わりに遠ざけているのを見ることです。

被造物は 砂漠に変わってしまった。 乾燥し、不毛で、愛に飢えている。 彼らに与えるものが何もないのでは 私の仔羊たちは何をもって養えようか? ♡

 

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P204

 

 始まりのあるところ、生命には必ずや終わりもあるに違いないという人々も多いが、これは本当ではない。その聖旨によって無から有を創造された全能者はまた、その力ある聖言によって、造られたものに不滅性をお与えになることもできるのである。でなくば、神は全能とはいわれえぬであろう。この世の生命が崩れやすくみえるのは、それが変わりやすく崩れやすい事柄に従っているからである。だが、この生命がこのような移ろいやすい力から解かれ、永遠の生命の源泉たる永遠不滅の神の保護の下におかれるならば、それは死の淵より免れ永遠性を得る。

 信じる者たちに、わたしは永遠の生命を与える。彼らは決して滅びることなく、わたしの手から彼らを奪える者は誰一人いない。わたしは神である主、常にいまし、昔いまし、後にくる万物の支配者である。

 

 

 

 

5.神はその神的全能によるもその何れをも為すことが出来ない

 

 

真の基督教341

 

 良く生活し、正しく信ずる人間が救われず、神はその自由意志によってその欲する者を救い、罪に定めることが出来ると想像することは、神を無慈悲、残忍、残酷な者として非難することであり、否、それはまた神の存在を否定するに等しいのである。かかる信仰は、神はその聖言の中に無意味な言葉を語り給い何等重要でない命令を発し、自らシナイ山に立てて、二枚の石板に書き録し給うた契約を犯し給うことを暗示する。神はその誡命に従って生き、彼に対する信仰を持つ者を救わざるを得ないことは、ヨハネ伝の主の言(14・21−24)によって明白である。宗教を持つ理知的な人間は凡て是と同一の結論に到達するであろう。何故なら、神は絶えず人間と共に在し、これに理解し、愛する生命と力を与え給うからである。それ故神は良く生活し正しく信ずる人間に御自らを愛に於いて結合させ給わざるを得ないのである。この事は神によって凡ての人間と凡ての動物に刻み付けられていないだろうか。父と母はその子を、鳥はその雛を、獣はその仔を斥ける事が出来ようか。虎、豹、蛇ですらその子を愛している。神がそれ以外のことを為すことはその存在の秩序に反し、また神が由って以って人類を創造し給うた秩序に反している。それ故良く生活し、正しく信ずる人間を罪に定めることは神に不可能であるが、誤った物を信ずる人間を救うこともまた不可能である。何故ならこれは再び秩序に反し、また公正の道に添わない限り発することが出来ない神の全能にも反するからである。公正の律法は変更することの出来ない真理である。何故なら、主は「律法の一画の落つるよりも天地の過ぎ行くは易し」(ルカ16・17)と語り給うからである。

 前に述べた事は、神の本質と人間の自由意志について多少知っている者には明白であるに相違ない。例えば、彼はアダムは生命の木の実とまた善悪を知る木の実を食う自由を持っていたことを知っている。若し、彼が只生命の木、或は生命の木々の実のみを食ったならば、神は彼を楽園から放逐することだ出来たであろうか。確かに不可能である。然し、彼が善悪を知るの木の実を食った後も、神はこれを長く庭園に留め置くことが出来たであろうか。これも確かに不可能である。同様に、神は地獄に天界の如何なる天使をも投げ込むことは出来ないし、また天界に如何なる地獄の悪魔をも入れることは出来ない。神はその神的全能によるもその何れをも為すことが出来ないことは上述した所(49−70番)から明らかである。