戦う教会

 

 

ヨシュア

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない(マタイ10・34−35)

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.グリニョン・ド・モンフォール

3.聖母から司祭へ

4.アグレダのマリア

5.マリア・ワルトルタ(ヴァルトルタ)

6.サンダー・シング

7.トマス・ア・ケンピス

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義59

 

人間が霊的なものにされつつある再生の経過では、彼は絶えず争闘に携わっていて、そのため主の教会は『戦闘的』教会と呼ばれている。なぜなら再生以前は人間全体は全く諸々の欲念とそこから発している諸々の誤謬とから成っているため、その諸々の欲念に支配されているからである。再生の間にこれらの欲念と誤謬とは瞬時に廃棄されることは出来ない。なぜならそれらは彼が獲得した唯一の生命であるため、そのようなことは、その人間全体を破壊してしまうからである。それで悪霊等は長い間彼の許に止まっていることを許されているが、それは彼らが彼の諸々の欲念を刺激して、その諸々の欲念が、主により善に向けられ、かくてその人間が改良される程になる迄も、無数の方法をもってゆるめられるためである。

 

 

 

天界の秘義1692

 

 試練は、または試練の争闘はいかようなことを遂行するかは殆どたれ一人知ることは出来ない。それは幾多の悪と誤謬とが破壊され、消散される手段であり、またそれにより悪と誤謬とに対する恐怖が生まれてくる手段であり、それにより良心が与えられるのみでなく、また強固にもされ、かくしてその人間は再生するのである、それが再生しつつある者が争闘に入れられて、試練を受ける理由であり、身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することが出来るならば、他生でそれを受けるのであり、そうした理由から主の教会は戦闘の教会と呼ばれている。しかし主のみが御自身の強さによりまたは御自身の力により試練の中でも最も残酷な争闘に堪えられたのである、なぜなら主は凡ゆる地獄に包囲されたもうて、絶えずそれらを征服されたからである。

 

 

 

天界の秘義2708[6]

 

ここでは『荒野』は試練の中におかれている者がその中へ陥ってしまうような剥奪と荒廃を意味している。彼らが四十年の間荒野を旅し、さまようことにより、戦う教会の凡ゆる状態が記されているのである。ヨハネの書における『荒野』に逃れた女により教会の試練以外には何ごとも意味されてはいないのであって、それは以下のように記されている―

 

 息子を、男の子供を生んだその女は荒野へ逃れた―そこに彼女は神から備えられた所をもっている―彼女はその荒野へ、彼女の場所へ逃れるために、大きな鷲の二つの翼を与えられた。蛇はその女の後から水を洪水のように口から吐き出して、彼女をその洪水により流れ去らせようとした。しかし地はその女を助けた、なぜなら地はその口を開いて、その竜がその口から吐き出した洪水を飲み込んでしまったからである(黙示録12・6、14−16)。

 

 

 

黙示録講解734二

 

「戦」は、奈落の事柄に反抗する霊的な戦いを意味することは以下から明白である。すなわち、集会の天幕にかかわるレビ人の任務または職務はモーセの書の以下の言葉から明白なように、「軍務」と呼ばれたのである―

 

「モーセに以下のことが命じられた、すなわち、三十歳の息子から五十歳の息子に至る迄、レビ人は数えられなくてはならない、軍務を行うためであり、集会のテントの中で業を行うためである」(民数記4・23,35,39,43,47)。

 

また他の所には―

「これがレビ人の任務である。すなわち、二十五歳以上の息子から、かれは集会の天幕の奉仕における軍務を行うように来なくてはならない、しかし五十歳の息子からは、かれは奉仕の軍務から退き、重ねて仕えてはならない」(民数記8・24,25)。

 

集会のテントに関わるレビ人の業と奉仕は「軍務」と呼ばれているのは、レビ人は教会の諸真理を表象したためであり、アロンは―彼にレビ人が与えられて、任務を割り当てられたのであるが―愛の善に関連した、また救いの業の方面の主を表象し、主は愛の善から聖言から発する諸真理により人間を再生させ、救われ、また地獄から発している幾多の悪と誤謬とを遠ざけられ、それらに反抗して絶えず戦われるため、それゆえレビ人の任務と奉仕とは「軍務」と呼ばれたのである。それと同じことは以下からもまた明白である。すなわち、彼らの任務は、レビ人たちはその地の敵と戦わなかったものの「軍務」と呼ばれたのである。このことは祭司職は軍務であるが、誤謬と悪とに反抗する軍務であることを示している。同じ理由のため、教会は現今戦闘的教会と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義6308

 

しかし善の中にいる者たちはそれを知ることが出来るのであり、彼らはまた聖言から以下のことを知っているのである、すなわち、彼らの内部には彼らのもとで悪と誤謬とに反抗して戦うものがあり、霊的な人は自然的な人と戦っており、かくて天使たちは、人間の内部の中に、また人間の霊的なものの中にいて、人間の外部の中に、また人間の自然的なものの中にいる悪霊らと戦っており、教会が戦闘的なものと呼ばれているのはまたこのことから発しているのである。しかし悪霊らから思考の中へ流れ入っている悪は、もしその人間がその悪を受け入れないなら、その人間に何の害も与えないが、しかし彼がそれを受け入れて、それをその思いから意志の中へ移すなら、彼はそれを彼自身のものとするのであり、その時は彼は奈落の霊らの側について、天界の天使たちから遠ざかってしまうのである。このことが主が、人間の中へ入ってくるものは人間を汚しはしないが、人間から出るものは、心から、すなわち、意志から出てくるため、人間を汚すと言われるとき、教えておられる事柄である(マルコ7・14−23)。

 

 

 

天界の秘義6419

 

ヨセフにより表象されている霊的な教会は絶えず攻撃されているが、主は絶えずそれを防御されている。ここから聖言ではこの教会に属しているものは、城壁、外塁、門、かんぬきを備えられた都に譬えられ

 

 

 

天界の秘義7090〔4〕

 

 ここから霊的な教会は『闘う』ものと呼ばれなくてはならないのである。しかし今日ではそれは世の何人のもとでもめったに闘う教会とはなっていないのである、なぜなら教会の人間は、世で生きている間は、悪い者の群の真中に置かれているため、また弱い肉の中に置かれているため、争闘に堪えることは出来ないからである。他生では人間は良心の絆の中に堅く留められることが出来るが、しかし世ではそれは不可能である、なぜならもし彼が、争闘に置かれている者の常として、何か絶望状態に入れられると、彼はすぐにその絆を破ってしまい、もしそれを破るなら、その時は降伏し、もしそのように降伏するなら、その救いは絶望となるからである。ここから今日の教会の中では僅かな者しか真理のために誤謬に反抗する争闘に主により入れられることを許されていないのである。この争闘は霊的な試練である。(低地とそこにおける剥奪について前に示したことを参照されたい、4728、4940−4951、6854番)。

 

 

 

黙示録講解734ニ

 

「都」は教義を、都に入ることを与える「門」は自然的な真理を意味している。

「戦いの人間」は真理の中にいて、真理から誤謬に反抗して戦う者たちを意味し、抽象的な意味においては誤謬に反抗して戦う真理を意味している。

 

 

 

生命98

 

基督教会は戦闘的教会と呼ばれているが、悪魔に反抗し、かくて地獄から来ている悪に反抗しない限り、戦闘的とは呼ばれることは出来ない。地獄は悪魔である。それで教会の人間が受ける試練はこの戦いである。

 

 

 

 

2.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心214

 

なぜ、天国でも信仰の徳をもち続けておいでになるかというと、それは“戦う教会”のために、すなわち、ご自分の忠実なしもべたちを信仰に固めるために、それが必要だからです。

 

 

 

 

3.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1983.8.15

 

 あなたがたを待っている天国を、心と魂をもって眺めなさい。天国はあなたがたのほんとうの決勝点です。これほどあなたがたの心を奪い、疲れさせ、すりへらす地上の生活のために、あなたがたはつくられていないのです。地上の生活は、あなたがたにとって、天のみ国に入るために天の御父が準備して下さった、長く、苦しい待合室のようなものです。

 

 

 

 

聖母から司祭へ1986.8.8

 

 わたしから愛され、わたしの心に奉献された子どもであるあなたたちは、戦う全教会にとって、ご聖体におけるイエズスに立ちかえるための、強いよびかけとなってください。

 

 

 

 

4.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P197

 

聖ぺトロはキリストの代理者、戦闘の教会の頭になることになっていましたし、聖ヨハネは主の御受難の後、主の代わりに御母の世話をすることになっていました。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P242

 

「正しい選ばれた者たちは、罰せられるべき者たちや悪魔たちの上に立ち、私の敵たちを怖がらせ、従わせる。理性的、非理性的被造物の主人となる。天、惑星や星、また地、地上の自然や動物は選民たちを大切に扱い、生命を与える。私の所有物であり、私に仕える被造物全部は彼らのものであり、彼らを私の子供たちとして大切にする(1コリント3・22.智恵16・24)。彼らの祝福は天の露となり、地の果物となる(創世記27・28)。彼らは私の喜びである。私は彼らに私の秘密を教え、話し合う。戦闘の教会に於ては、パンと葡萄酒の形色の中で彼らと共に生きる。永遠の幸福の相続者として認め、天国に於て私と共に喜ぶようにする。」

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P260

 

御母がそのまま留まり、地上に戻らないことにするか、または、一旦戻るか、御母御自身が決定することになりました。そのため、御母は地上の戦闘の教会の様子を御覧になります。信者たちが孤児になっていることを見て、主が地上で人々のために尽したことを思い浮かべ、玉座から降り、聖三位の御足許に平伏して申し上げます、「永遠全能なる神にして我が主よ、御親切に私に下さる報いを今受け取りますことは、私の安息の保証になりますが、地上に戻り、アダムの子らや教会の信者たちに働きますことは御身の聖旨に叶い、地上に追放され、旅している私の子供たちのためになると思います。私は労働し、人類に対する御身の愛のために苦しみたいと思います。私の主よ、この犠牲を受入れ、私を助けて下さい。御身への信仰が広められ、御名が崇められ、御身の教会が大きくなりますように。御独り子と私の血により教会は建てられました。御身の光栄と霊魂の獲得のため、もう一度働きたいと思います。」主は御喜びになり、御母に浄化と啓示を下さいました。至福の幻視と天の賜物は、人間には想像できません。

 

 

 

 

5.マリア・ワルトルタ(ヴァルトルタ)

 

 

わたしのことばを書きとらせた理由/イエズスが口述された福音書の最後の言葉/

マリア・ヴァルトルタ/天使館/霊のパン第4号/P16〜32

 

[1947年4月28日]

イエズスは言われる。

「小さなヨハネ(マリア・ヴァルトルタ)を照らし、わたしのエピソードと言葉を書きとらせようと、わたしの気持ちを動かした理由は、わたしに関する正確な認識を、この霊魂=生贄(いけにえ)、愛する人に伝える喜びの他にもたくさんあります。

 しかし、そのすべての中でも核心となっているのは、教え、戦う教会へのわたしの愛と、完徳への上昇を目指す霊魂たちを助けたいという熱い望みです。わたしを知ることは、この上昇を助けます。わたしの言葉生命です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P367

 

 私は、私の英雄的な生死をもって、あなたたちのために天を勝ちとったのである。あなたたちは私に倣うべきである。英雄であることは、殉教して死ぬ人々だけのことではない。キリスト的生活は、永久の英雄性である。なぜなら、世間、悪魔と肉体に対しての絶えざる戦いだからである。私は、あなたたちが、私に従うように強制しない。私は、あなたたちを自由なものとして残す。しかし私は偽善者をきらう。私とともに、私のように生きるか、それとも私に反して生きるか、あなたたちは私をだますことはできない。敵との妥協までに下がることはできない。もし、あなたたちが彼を選ぶならば同時に私を友人として考えてはならない。彼か、それとも私を選べ。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/P63

 

数日前、イエズスが、太陽をまとった女のうちにそれとなく見せようとしたマリアの霊的母性に関する注釈に似た言い回しをされていたことに気づきます。しかし、きょうイエズスはそれについてもマリアについても語りません。最後の時の闘う教会について語ります。

 

 

 

 

6.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P79

 

 人と被造物全体は虚無に従っているとはいえ、永遠にそうなのではない。人は従順なる気持ちを失いこの災いだらけの儚き状態に全被造物を巻き込んだが、このような霊的戦いの場においてしか人の霊的力は完全に開発され得ないのである。この戦いにおいてしか、人は完成に必要とされるレッスンを学びとることはできないのだ。そこで、天の完全さの状態についに辿り着いた暁には、人は現世の苦しみと戦いについて神に感謝することだろう。神を愛する者たちのために何もかもがうまく働いてくれていたことが、そのときにはっきりわかるからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P243/神との対話

 

この世の人々があなた方を迫害し中傷しても、それに驚き悩んではいけない。この世は、あなた方にとって休息所ではなく戦場である。あなた方がこの世の者たちから讃えられるなら災いである。それは、あなた方が彼らの悪しきやり方と習慣に合わせていることを証しする。わが子供たちを讃えるのは、彼らの性質そのものに反することである。光と闇とは共存できない。悪人たちがその本性と逆のことをしているとみせかけ、迫害をやめるなら、あなた方はいっそう大きな害を被っている。彼らの影響が霊的生活の中にまで入り込み、あなた方の霊的進歩が阻まれているからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P245/神との対話

 

信ずる者とそうでない者の生活は、初めのうちは大差なくみえるが、最後は蛇と芋虫ほどの差が生じる。蛇は幾度脱皮しようとやはり蛇である。だが、芋虫は醜いサナギを脱皮して新しい生物となり、美しい蝶となって空を舞う。同じように、信じる者は肉体を脱して霊的栄光の域に入り、天をいつまでも駆けるようになるが、罪人は死んでもやはり罪人である。

 芋虫はまた、十字架に括り付けられたかのように、木に張りついたサナギの中でもがき苦しむが、この苦しみが翼に力を与えて新生命に備えさせる。同じように、わが子らも地上にあって霊的戦いに苦しみ解放のときを溜息とともに待ちこがれるが、十字架を負う中でわたしから力を与えられ、終りなき生命に対して完全に準備する。

 

 

 

 

7.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・12・5

 

 だからあなたは、もしほんとうの楽しみを味わい、いっそう豊かな慰めをわたしから受けたいと思うならば、いっさい世間の物事を軽んじ、あらゆる卑しい楽しみを捨てるがよい、そうすればあなたは祝福をこうむり、豊かな慰めを与えられるだろう。

 そしてあらゆる物質的慰めから離れれば、離れるほど、あなたはわたしの慰めのますます甘美で力強いことを知るだろう。

 けれども、その境地に達するには、まず多少悲しみをなめ、骨を折って戦わなければならない。

 抜き難い習慣は、あなたに抵抗するだろう。しかしそれにはいっそうよい習慣をもって打ち勝とう。

 からだも恨み歎くだろう。けれども精神の熱烈な力をもってこれを抑えよう。

 あの老獪な蛇はあなたを誘い悩ますだろう。しかし祈りをもってこれを追払おう。その上わけても有益な仕事にいそしむことによって、その入ってくる口をふさぐようにしよう。