多神教

 

 

神々

 

 

 

 

 

1.多神教

2.多神教の起源

 

 

 

 

1.多神教

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P341

 

 おお、異邦人たちよ! あなた方は各々の国の偉い人を神に宣言するという習わしがあるが、これは実際には存在しないオリンポスに住む数多くの神々です。これを作ったのは、何かを信じたいからです。宗教は人間に必要であり、同じ一つの信仰が必要です。したがって、信仰することは普通であり、信仰しないことが普通ではないのです。しかし、神に祭り上げられた人間は、人間としての値打ちもありません。暴力とか詐欺によって、偉大になったからです。超人間的な気高く知恵ある者は、これらのいわゆる神々が惨めな者であり、抑制の効かない邪欲に過ぎないと知っています。

 

 

 

 

2.多神教の起源

 

 

天界の秘義1327[2]

 

ノアに因んで名づけられたこれらの教会の初期の場合の習わしのように、それはそれに続いて起った諸教会よりも害われてはおらず、また罪もなかったのであり、そのことはまた本章の第一節からも明白である、即ち、それはその会員の凡てが仁慈を本質的なものと考えていた結果、『一つの唇』を持っていた、即ち、一つの教義を持っていたという記事から明白である。しかし時の経過につれ、他の諸教会のように、この第一古代教会も堕落し始めたのであって、このことは主として彼らの多くの者が他の者よりも優ろうとして、自己礼拝を渇望し始めたという事実から起ったのである、このことは四節から明白である、なぜなら彼らは『私らは私らのために都と塔とを建て、その頭を天の中に置こう、私らは私らのために私らの名[名声]を作ろう』と語ったからである。教会内のこうした人間は一種の酵素のようなものに、または大火を引き起こす松明のようなものにならないわけにはいかなかったのである。聖いものを冒涜する危険がそこから切迫したため(571、582番を参照)、主の神的摂理の下に、この教会の状態は変化し、かくてその内なる礼拝は死滅してしまい、その外なる礼拝のみが残ったが、そのことがここにエホバは全地の唇を乱されたという記事により意味されているのである。このことからまた以下のことが明白である、すなわち、バベルと呼ばれているような礼拝は第一古代教会にはあまねく行われはしないで、それに続いて起った諸教会に行われたのであり、その時人間は神として拝され初め、とくに死後、神々として拝され初めたのであり、そこから異邦人の多くの神々が起ったのである。

 

 

 

天界の秘義1756

 

彼らは凡ゆる種類の情愛を神、女神として示しさえもして、この神々に後には異教徒は神礼拝を設定したのであり、このことは各文筆家の知っているところである、なぜならこうした古代の書物は以前今も現存しているからである。彼らはこのようにものを書く流儀を洪水以前に生きていた最古代人から得たのであって、この最古代人は地と世界に見られるものにより天界的なまた神的な事柄を彼ら自身に表象し、かくして宇宙の物体を、特にその形と秩序において美しいものを眺めている間に悦びと楽しさをもってその心を満たしたのである。それで当時の教会の書物はことごとくこのように記されたのである。「ヨブ記」もそうしたものであり、またソロモンの「雅歌」もそうしたものであって、そうした書物を模倣しているのである。モーセにより民数記21・14、27に記されている二冊の書もそうしたものであり、その他今は消滅してしまった多くのものがそうしたものであったのである。

 

 

 

天界の秘義2724

 

「そこに永遠の神の御名を呼んだ」。これはそこから発した礼拝を意味していることは、『神の御名を呼ぶこと』の意義が礼拝であることから明白である(440番参照)。古代教会に属した者たちは名により名を理解しないで、凡ゆる性質を理解したのであり(144、145、440、768、1754、1896、2009番参照)、かくて『神の名』により、神が拝される手段となるすべてのものの一つの総合体を理解したのであり、従って愛と信仰の凡ゆるものを理解したのである。しかし礼拝の内なるものが死滅して、外なるもののみしか残らなくなると、そのとき彼らは神の名により名以外には何ごとも理解し始めなくなり、それが、彼らが礼拝する源泉である愛と信仰を何ら顧みなくなって、名前そのものを拝する程にもなったのである。そうした理由から諸国民はその神の名により彼ら自身を区別し始め、ユダヤ人とイスラエル人とは、エホバを拝し、礼拝の本質的なものをその名を口に出して、その名を唱えることに置いたため、彼ら自身を他の国民よりも優れたものとしたのであるが、名のみの礼拝は真に何ら礼拝ではないのであり、それはまた人間の最悪な者の中にすらも見出されることが出来るのであり、こうした者らはそのことによりさらに冒瀆罪を犯しているのである。

 

 

 

天界の秘義2724 []

 

しかし『神の名』により礼拝の凡ゆるものが、即ち神が拝せられる源泉である愛と信仰の凡ゆるものが意味されているため、それで主の祈りにおける『あなたの御名が崇められますように』という言葉に意味されていることが明白であり(マタイ6.9)、また、主が以下のように言われたものにより意味されていることも明らかである―

 

あなたたちはわたしの名のために憎まれるであろう(マタイ10・22)。

もし二人の者が何であれその求めることについて地上で心が一つになるならば、それは天にいますわたしの父により彼らのために為されるでしょう。なぜならニ、三人の者がわたしの名の中に共に集まっている所では、そこにわたしもその真中にいるからである(マタイ18・19、20)。

たれでもわたしの名のために、家を、或は兄弟を、或は姉妹を、或は父を、或は母を、或は妻を、或は子供を、或は地を去った者(棄て去った者)は、百倍を受け、また永遠の生命を受け継ぐ〔相続する〕であろう(マタイ19・29)。

ダビデの子にホサナー、祝福された方よ、主の御名において来られる方よ(マタイ21・9)。

イエスは言われた。あなたたちは今から後、あなたらが以下のように言うまではわたしを見ないでしょう。即ち、祝福された方よ、主の御名において来られる方よ、と(マタイ23・39)。

あなたたちはわたしの名のために凡ての国民から憎まれるであろう。その時多くの者は躓き、互に他を裏切り、互に憎み合うであろう(マタイ24・9、10)。

たれであれかれを受け入れた者には、かれの御名を信じた者にはことごとく、神の子となる力をかれは与えられた(ヨハネ1・2)。

信じない者はすでに審判かれている。神の独り児の御名を信じなかったためである(ヨハネ3・18)。

イエスは言われた、どのようなことであれ、あなたたちがわたしの名において求めるものは、わたしはそれを為すでしょう(ヨハネ14・14、15・15、16、16・23、24、26、27)。

イエスは言われた、わたしはあなたの御名を人々に明らかにしました(ヨハネ17・6)。

聖い御父よ、わたしたちが一つのものであるように、彼らもまた一つのものとなるために、あなたがわたしに与えられたあなたの御名の中に彼らを守りたまえ(ヨハネ17・11、12)。

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。またそれを知らせましょう。あなたがわたしを愛されたその愛が彼らの中に在り、またわたしが彼らの中にいるためであります(ヨハネ17・26)。

あなたたちがイエスはキリストであり、神の子であられることを信じ、また信じて、かれの御名の中に生命を得るために(ヨハネ20・31)。

 

その外旧約聖書の非常に多くの記事の中ではエホバの、また神の『名』により名が意味されてはいないで、礼拝が存在する源泉である愛と信仰のあらゆるものが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義2724 []

 

しかし愛と信仰もないのに、ただ名を拝しているに過ぎない者は、マタイ伝に以下のように語られている―

 

その日多くの者はわたしに言うでしょう。主よ、主よ、私たちはあなたの御名により予言しませんでしたか、あなたの御名により、魔鬼を追い出しませんでしたか、あなたの御名の中に多くの力ある業を為しませんでしたか、と。しかしわたしは彼らに明らかに言いましょう。わたしはあなたたちを知らない。不法を働く者らよ、わたしから去りなさい、と(マタイ7・22.23)。

 

前に言ったように教会の人間が内なるものでなくなって、外なるものとなり、名の中にのみ礼拝を置き始めると、その時は、彼らは最早一人の神を承認しなくなって、多くの神々を承認したのである。なぜなら古代人にはエホバの名に何かを加えて、それによりエホバの何かの利益を、または属性を心に思い起こすことが普通のことであったからである。例えば私たちが今取り扱っている記事では『彼は永遠の神の御名を呼んだ』と言われ、次章(22章)では『アブラハムはその地の名をエホバ エレと呼んだ』、即ち、『エホバは見給うであろう』と呼んだと言われているのである(14節)。『モーセは祭壇を作り、その名をエホバ ニシ、即ち、エホバは我が旗と呼んだ』(出エジプト記17・15)。『ギデオンはエホバに祭壇を作り、それをエホバ シャロム、即ち、平安のエホバと呼んだ』(士師記6・24)、その他。)

このことから名にのみ礼拝を置いた者は多くの神々を承認するようになったのであり、また異邦人の間には、とくにギリシャとローマには多くの神々が承認されて、拝されたが、それに反し、古代教会は ―その教会からその形容語が流れ出たのであるが― 一人の神以外には決していかなる神をも拝しなかったのであり、その一人の神が非常に多くの名の下に崇拝されたのである。なぜなら『名』により彼らは性質を理解したからである。

 

 

 

天界の秘義2762[]

 

戦車と馬とがこうした事柄を意味したことは古代教会の中には良く知られていたのであって、そのこともまたその教会の書であるヨブ記から明白であり、そこには以下の言葉が記されているのである―

 

神は彼女に知恵を忘れさせ、これに理知を与えられなかった。彼女は高く自らをもたげる毎に、馬とその騎手とを蔑む(ヨブ記39・17−19)。

 

古代教会から、理解する能力という馬の意義が周りの賢人たちに拡がり、ギリシャにまでも入ったのである。ここから以下のことが起るようになったのである、すなわち、彼らが太陽を描写した時(その太陽により愛が意味されたのであるが、2441、2495番)、その中に彼らの知恵と理知との神を置いて、その神に火の戦車と四頭の馬とを与えたのであり、また海の神を描写したときは、海により全般的な知識が意味されたため、その神にもまた馬を与えたのであり、理解から知識が起ってくることを描写した時は、彼らは蹄で蹴って泉を開く飛び駆ける馬を表象したのであり―その泉には科学である処女が住んでいたのである。トロイの馬によっては都の城壁を破壊するために彼らの理解から考案されたもの以外には何ごとも意味されはしなかったのである。現今ですら知性は、かの古代の民から受けつがれた慣習に従って、飛び駆ける馬、またはペガサスの姿の下に描かれ、学問は泉として描かれているが、しかし殆どたれ一人馬は、その神秘的な意義では理解を、泉は真理を意味していることを知ってはおらず、ましてやこれらの意義は古代教会から異邦人に伝えられたものであることを知ってはいないのである。

 

 

 

天界の秘義3667

 

『神シャッダイ』が試練を意味している理由は、古代では彼らは最高の神(すなわち、主)を色々な名で区別して、この区別は主の属性に応じており、主から発している善に応じており、また真理に応じて行われたということであって、それらには幾多のものがあることは各自に知られている事実である。古代教会に属した者たちはことごとくこれらの名によりただ一人の神を、すなわち、主を理解してその方をエホバと呼んだのであるが、しかしその教会が善と真理から衰退すると同時にこの知恵からも衰退した後では彼らは一人の神に付けられた幾多の名と同数の神々を礼拝し始めて、それが各々の国民が、遂には各々の氏族がその神々の一人を自分自身の神として承認する程にもなり、そこから聖言にしばしば記されている多くの神々が発生してきたのである。

 

 

 

天界の秘義5628

 

「神シャッダイ」(創世記43・14)これは困苦の後の慰安を意味していることは『シャッダイ』の意義から明白であり、それは試練と試練の後の慰安であり(1992,4572)、それでここでは彼らがエジプトで受けた困苦の後の慰安である。それは困苦の後の慰安であることは続いて後に記されている言葉『その男の人の前にあなたたちに慈悲を与えられるように』からもまた明らかである。『シャッダイ』が試練と後の慰安を意味していることは、古代人は只一人の神を種々の名前により、その神から発している種々のものに従って示したためであり、彼らは試練はその神から発していると信じたため、そのときは神を『シャッダイ』と呼び、この名前により他の神を意味しないで、試練の方面の只一人の神を意味したのである。しかし古代教会が衰微するにつれ、かれらは只一人の神に対する名前と同数の神々を礼拝し始め、また彼ら自身でその神々に更に多くの神々を附加したのである。このようなことを行うことが遂には各家族がその家族の神を持つほどにも広まり、彼らはその神を他の家族から拝されている神から全く区別したのである。

 

 

 

天界の秘義6003

 

原語では、『神』は最初の所では単数で記されているが、第二の所では複数で記されており、すなわち、最初その名は『エル』であるが、次は『エロヒーム』である。その理由は最初の『エル』により一人の神が、ただ一人の神のみがおられることが意味され、次の『エロヒーム』により神は多くの属性を持たれていることが意味されているということである。かくて聖言のほとんど凡ゆる所に、『エロヒーム』または複数形の神が記されているのである。多くの属性が在って、古代教会は各々の属性に名前を与えたため、それでその子孫は―その者たちのもとではこのようなものについての知識が失われたため―多くの神々がおられると信じ、家族各々はその神としてその神々の中の一人を選んだのである―例えばアブラハムはシャッダイ神をえらび(1992、3667、5628番)、イサクは『パチャド』または『恐るべきもの』と呼ばれた神をえらんだのである。そして各々の者の神は神的な属性[神の属性]の一つであったため、それで主はアブラハムに、『わたしはシャッダイ神である』(創世記17・1)と言われ、ここではヤコブに、『わたしはあなたの父の神である』と言われたのである。

 

 

 

真の基督教9

 

しかしプラトーやアリストートルのような後代の賢人は、これは分離した神々ではなく、一人の神の特性、性質、属性であり、それが神的なものである故、神々と呼ばれたのであると告白したのである。

 

 

 

真の基督教275

 

 宗教は最古の時代から存在し、地に住む者達は至る所で神に関わる知識と死後の生活に関する若干の知識を持っているが、これは彼ら自身から或は彼ら自身の理知から来ているのではない、古代の聖言(264、265、266番)から来ており、後にはイスラエルの聖言から来ているのである。この二つの聖言から宗教は印度とその島々に、エジプトとエチオピアを経てアフリカの諸王国に、アジアの海岸地方からギリシャに拡がり、そこからイタリーに拡がったのである。然し聖言は単に象徴的に、即ち、天的な物に相応し、それ故それらの物を意味している現世的なものによって録されることが出来るのみであった故、異邦人の宗教は偶像的となり、ギリシャでは神話的となった。そして神的な特性と属性とは、恐らくエホバから由来しているヂョウヴと呼ばれる最高神によって支配される神々として眺められた。而して彼らは楽園、洪水、聖火、黄金時代から鉄の時代に至る四代(ダニエル2・31−35)を知っていたのである。