1.名

2.主イエス・キリストの名

3.神の御名

4.名前は天界へは決して浸透しないで、名前を言われている者たちにより意味されていることのみが浸透する

5.地獄の人間は主の御名を口にすることが出来ない

6.『エホバの名』はエホバの性質を知ること

7.主の御名を信じる

 

 

 

 

マタイ10・22

 

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

 

 

マタイ18・20

 

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

 

 

マタイ24・9

 

そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。

 

 

 

ヨハネ14・13−14

 

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

 

 

ヨハネ17・6

 

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。

 

 

 

ヨハネ17・26

 

わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

 

 

 

ローマ10・9

 

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

 

 

 

フィリピ2・9−11

 

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

 

 

 

1.名

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P90

 

神は永遠の書において私の約束とあなたたちの業を、あなたたちの名を書くものである。

 

 

 

天界の秘義144

 

古代人は『名』により物の本質を理解し、『見て名を呼ぶこと』により性質を知ることを理解したため、『名を呼ぶ(名づける)』ことは性質を知ることを意味している。

 

 

 

天界の秘義145

 

これらの記事の『名』により名は決して意味されていないで、性質が意味されているのである。また天界では如何ような人の名も知られてはおらず、その性質が知られているのである。

 

 

 

天界の秘義1754

 

「アネル、エシコル、マムレ」。これらは彼らに属しているものを意味していることはこれらの者について本章(13節)に前述したことから明白である、すなわち、彼らの名により争闘が行われた源泉である幾多の善と真理とが意味されていて、天使たち自身がそれほど意味されてはいないのである、なぜならすでに言ったように天使たちは『若者』と『人々』により意味されているからである。なぜなら天使たちはいかような名も彼らには決して与えられてはいないで、その性質については善と真理とにより区別されており、そうした理由から(前の144、145、340番に示されたように)聖言では名により本質とその状態以外には何ごとも意味されていないからである。このこともイザヤ書に認められることが出来るのであって、そこには主のことが語られている―

 

  その名は驚異、勧告者、神、英雄[丈夫]、永遠の父、平安の君と呼ばれるであろう(9・6)。

 

 ここに『名』により主はいかような性質を持たれるかが、すなわち、主は驚異、勧告者、神、英雄、永遠の父、平安の君であられることが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義1946

 

「あなたはその名をイシマエルと名づけなくてはならない」。これはその生命の状態を意味している。古代ではその両親たちがその中におかれていた状態を、とくに母親がみごもったときに、または子を宿していた間に、または出産したときに、その中にいた状態を意味している名前が息子と娘に与えられたのであり、それでその名前は表意的なものであったのである。イシマエルは何からその名を得たかがここに説明されており、即ち、それは『エホバがその苦悶[苦しみ]を聞かれたためである』であり、それは彼の母の状態に言及しているのである。

 

 

 

天界の秘義6752

 

なぜならたれかが名前をつけられる時は、その名前そのものは状態を意味しているためである(1946、2643、3422、4298番を参照)。

 

 

 

 

啓示による黙示録解説193

 

『名』はそれが主について言われているときは、主がよってもって拝される凡てのものであることは、前に見ることができよう(81番)、そして主がよってもって拝される凡てのものは神的善と神的真理とに関係を持っているのである。

 

 

 

 

2.主イエス・キリストの名

 

 

真の基督教682

 

聖言では、主イエス・キリストの名は彼を認め、彼の誡命に従う生活を意味する。「汝神の名を妄に口にあぐべからず」との第二の誡命の説明を参照されよ(297番以下)。また以下の記事を参照されよ。イエスは語り給うた、「汝らは我が名のために凡ての人に憎まれん」(マタイ10・22、24・9、10)「ニ三人我が名によりて集まる所には、我もその中に在るなり」(マタイ18・20)「彼を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる権を与え給えり」(ヨハネ1・12)「多くの人々彼の名を信じたり」(ヨハネ2・23)「信ぜぬ者は既に審かれたり、神の独り子の名を信ぜざりし故なり」(ヨハネ3・18)。「信じて御名により生命を得ん」(ヨハネ20・31)。「而して汝は我が名の為に労し心ひるまざりき」(黙示録2・3)その他。

 これらの記事の主の名は、主を贖罪者、救い主として認め、彼に服従し、最後に彼を信じることを意味する。何故なら、洗礼に於て幼児は主を認め、礼拝するに至ったことを示す十字架の印を、その額と胸とに受けるからである。人間の名もまたその性格を示している。霊界では各人はその性格に従って名を与えられる。それ故、基督教徒の名は基督に対する信仰と隣人に対する仁慈を意味している。このことは黙示録の名によって意味されている。人の子は語り給うた、「サルデスに己が衣を汚さぬ者数名あり、彼らは白き衣を着て我と共に歩まん、かくするに相応しき者なればなり」(黙示録3・4)。白い衣を纏うて人の子と共に歩むことは、主に従いその聖言の諸々の真理に従って生くることを意味する。これと同様の事がヨハネ伝の主の名によって意味されている、「イエス言い給う、羊はその声を聞き、彼は己の羊の名を呼びて、索き出だす。彼は彼らに先立ち行き、羊その声を知るによりて従うなり。他の者には従わず、他の者共の声を知らぬ故なり」(ヨハネ10・3−5)。「名によりて」は基督教徒としての彼らの性格によってを意味し、彼に従うことは彼の声を聞くこと、即ち主の命令に従うことを意味する。洗礼に於て凡ゆる者はこの名を印として受けるのである。

 

 

 

 

3.神の御名

 

 

天界の秘義440

 

今引用したばかりの言葉により仁慈から発したかの教会の礼拝が意味されることは『エホバの御名を呼ぶ』ことは主を拝する凡ゆる礼拝に対する慣例的な全般的な形の言葉であるという事実から明らかであり、この礼拝が仁慈から発したことはここでは『エホバ』と記されているに反し、前の節ではエホバは『神』と呼ばれているという事実から明白であるのみでなく、また以下の事実からも明白である、すなわち、仁慈に属さない信仰は単に唇の信仰であって心の信仰ではないため、真の礼拝はそうした仁慈に属さない信仰から発出することは出来ない以上、仁慈に由らなくては主を拝する事は出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義1455

 

「そしてエホバの御名を呼んだ」。これはその状態から発した主の父に対する内なる礼拝を意味していることは『エホバ』の御名を呼ぶこと」の意義から明白である(440番)。エホバに祭壇を築くことは外なる礼拝であり、エホバの御名を呼ぶことは内なる礼拝であることはたれでも認めることが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義2724

 

「そこに永遠の神の御名を呼んだ」。これはそこから発した礼拝を意味していることは、『神の御名を呼ぶこと』の意義が礼拝であることから明白である(440番参照)。古代教会に属した者たちは名により名を理解しないで、凡ゆる性質を理解したのであり(144、145、440、768、1754、1896、2009番参照)、かくて『神の名』により、神が拝される手段となるすべてのものの一つの総合体を理解したのであり、従って愛と信仰の凡ゆるものを理解したのである。しかし礼拝の内なるものが死滅して、外なるもののみしか残らなくなると、そのとき彼らは神の名により名以外には何ごとも理解し始めなくなり、それが、彼らが礼拝する源泉である愛と信仰を何ら顧みなくなって、名前そのものを拝する程にもなったのである。そうした理由から諸国民はその神の名により彼ら自身を区別し始め、ユダヤ人とイスラエル人とは、エホバを拝し、礼拝の本質的なものをその名を口に出して、その名を唱えることに置いたため、彼ら自身を他の国民よりも優れたものとしたのであるが、名のみの礼拝は真に何ら礼拝ではないのであり、それはまた人間の最悪な者の中にすらも見出されることが出来るのであり、こうした者らはそのことによりさらに冒瀆罪を犯しているのである。

 

 

 

天界の秘義2724 []

 

しかし『神の名』により礼拝の凡ゆるものが、即ち神が拝せられる源泉である愛と信仰の凡ゆるものが意味されているため、それで主の祈りにおける『あなたの御名が崇められますように』という言葉に意味されていることが明白であり(マタイ6.9)、また、主が以下のように言われたものにより意味されていることも明らかである―

 

あなたたちはわたしの名のために憎まれるであろう(マタイ10・22)。

もし二人の者が何であれその求めることについて地上で心が一つになるならば、それは天にいますわたしの父により彼らのために為されるでしょう。なぜならニ、三人の者がわたしの名の中に共に集まっている所では、そこにわたしもその真中にいるからである(マタイ18・19、20)。

たれでもわたしの名のために、家を、或は兄弟を、或は姉妹を、或は父を、或は母を、或は妻を、或は子供を、或は地を去った者(棄て去った者)は、百倍を受け、また永遠の生命を受け継ぐ〔相続する〕であろう(マタイ19・29)。

ダビデの子にホサナー、祝福された方よ、主の御名において来られる方よ(マタイ21・9)。

イエスは言われた。あなたたちは今から後、あなたらが以下のように言うまではわたしを見ないでしょう。即ち、祝福された方よ、主の御名において来られる方よ、と(マタイ23・39)。

あなたたちはわたしの名のために凡ての国民から憎まれるであろう。その時多くの者は躓き、互に他を裏切り、互に憎み合うであろう(マタイ24・9、10)。

たれであれかれを受け入れた者には、かれの御名を信じた者にはことごとく、神の子となる力をかれは与えられた(ヨハネ1・2)。

信じない者はすでに審判かれている。神の独り児の御名を信じなかったためである(ヨハネ3・18)。

イエスは言われた、どのようなことであれ、あなたたちがわたしの名において求めるものは、わたしはそれを為すでしょう(ヨハネ14・14、15・15、16、16・23、24、26、27)。

イエスは言われた、わたしはあなたの御名を人々に明らかにしました(ヨハネ17・6)。

聖い御父よ、わたしたちが一つのものであるように、彼らもまた一つのものとなるために、あなたがわたしに与えられたあなたの御名の中に彼らを守りたまえ(ヨハネ17・11、12)。

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。またそれを知らせましょう。あなたがわたしを愛されたその愛が彼らの中に在り、またわたしが彼らの中にいるためであります(ヨハネ17・26)。

あなたたちがイエスはキリストであり、神の子であられることを信じ、また信じて、かれの御名の中に生命を得るために(ヨハネ20・31)。

 

その外旧約聖書の非常に多くの記事の中ではエホバの、また神の『名』により名が意味されてはいないで、礼拝が存在する源泉である愛と信仰のあらゆるものが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義2724 []

 

しかし愛と信仰もないのに、ただ名を拝しているに過ぎない者は、マタイ伝に以下のように語られている―

 

その日多くの者はわたしに言うでしょう。主よ、主よ、私たちはあなたの御名により予言しませんでしたか、あなたの御名により、魔鬼を追い出しませんでしたか、あなたの御名の中に多くの力ある業を為しませんでしたか、と。しかしわたしは彼らに明らかに言いましょう。わたしはあなたたちを知らない。不法を働く者らよ、わたしから去りなさい、と(マタイ7・22.23)。

 

前に言ったように教会の人間が内なるものでなくなって、外なるものとなり、名の中にのみ礼拝を置き始めると、その時は、彼らは最早一人の神を承認しなくなって、多くの神々を承認したのである。なぜなら古代人にはエホバの名に何かを加えて、それによりエホバの何かの利益を、または属性を心に思い起こすことが普通のことであったからである。例えば私たちが今取り扱っている記事では『彼は永遠の神の御名を呼んだ』と言われ、次章(22章)では『アブラハムはその地の名をエホバ エレと呼んだ』、即ち、『エホバは見給うであろう』と呼んだと言われているのである(14節)。『モーセは祭壇を作り、その名をエホバ ニシ、即ち、エホバは我が旗と呼んだ』(出エジプト記17・15)。『ギデオンはエホバに祭壇を作り、それをエホバ シャロム、即ち、平安のエホバと呼んだ』(士師記6・24)、その他。)

このことから名にのみ礼拝を置いた者は多くの神々を承認するようになったのであり、また異邦人の間には、とくにギリシャとローマには多くの神々が承認されて、拝されたが、それに反し、古代教会は ―その教会からその形容語が流れ出たのであるが― 一人の神以外には決していかなる神をも拝しなかったのであり、その一人の神が非常に多くの名の下に崇拝されたのである。なぜなら『名』により彼らは性質を理解したからである。

 

 

 

天界の秘義6674〔2〕

 

名前が取扱われている主題の性質と状態とを意味していることを知らない者は、名前が言われている所には、ただ名前のみが意味されており、それで主が主の『名』を話される時は、それはただ名に過ぎないと信じることは出来るが、しかしそれは礼拝の性質であり、即ち、主を礼拝する手段である信仰と仁慈の凡ゆるものである、例えば以下の記事には―

 

ニ、三人の者がわたしの名の中に共に集まっている所には、わたしもその者たちの真中にいるのである(マタイ18・20)。

 

ここでは『名』が意味されてはいないで、信仰と仁慈から発した礼拝が意味されているのである。

 

受け入れた者には、(即ち)かれの御名を信じる者たちには、神の子となる力をかれは与えられた(ヨハネ1・12)。

 

ここにもまた『名』により信仰と仁慈とが意味され、その信仰と仁慈により主は礼拝され給うのである。

 

これらの事を記したのは、あなたらがイエスはキリスト、神の子であることを信じ、また信じてその御名において生命を得るためである(ヨハネ20・31)。

 

ここでも意味され、は同一である。

 

 

 

天界の秘義6674〔3〕

天界の秘義6674〔4〕

天界の秘義6674〔5〕

天界の秘義6674〔6〕

天界の秘義6674〔7〕

 

 

 

天界の秘義6887

 

「これはとこしえにわたしの名である」。これは神的な人間的なものが神的なものそれ自身の性質であることを意味していることは、『神』という名の意義から明白であり、それは神を拝する手段である一切のものの一つの総合体であり、かくて神の性質である(2724、3006、6674番を参照)。神的なものそれ自身には、ヨハネ伝の主の御言葉に従って―『たれ一人いかような時でも神を見てはいない、ただ父の胸の中におあられる独り児の子のみが父を示された』(ヨハネ1・18)、また更に、『あなたらはいかような時にもその御声を聞いたこともなく、その御形を見たこともない』(預言者5・37)―信仰によっても、愛によっても近づくことは出来ないため、その神的なものを拝することは出来ないため、近づいて、拝することの出来るものは、神的な人間的なものである、なぜならそれが神的なものそれ自身の性質であるからである。

 

 

 

天界の秘義6887〔2〕

 

 神的な人間的なものが『エホバの御名』であることはヨハネ伝に明らかである―

 

 イエスは言われた、父よ、あなたの御名に栄えあらしめ給え〔あなたの御名を栄化し給え〕。すると天界から声が聞こえた、わたしは栄えあらしめた、再び栄えあらしめよう〔わたしは栄化したが、更に栄化しよう〕(ヨハネ12・28)。

 

ここに神的な人間的な方面の主が御自身を『父の名』と呼ばれているのである。イザヤ書には―

 

 わたし、エホバは、あなたを義の中に呼んだ、わたしはあなたの手を握ろう、わたしはあなたを支え、民の契約として、異邦人の光として与え、盲いた目を開かせ、縛られた者を牢から、暗黒に住んでいる者を牢屋から連れ出させよう。わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしの栄えをわたしは他の者に与えはしない(イザヤ42・6−8)。

 

ここに、またその章の前の節にも主が明らかに取扱われ給うている。『エホバの名』により意味されているものは主であられることは、『わたしの栄光をわたしは他の者に与えはしない』と言われている事実から明らかであり、この言葉は、それが主について言われている時は、主御自身に栄光を与えることを意味しているのである、なぜならかれらは一つであられるからである。

 

 

 

天界の秘義6887〔3〕

 

 モーセの書には―

 

 見よ、わたしはあなたの前に一人の天使を遣わして、あなたをその道で守り、わたしの備えた所へあなたを連れて来よう。その顔に注意し、その声に聞きなさい、かれはあなたの咎を忍びはしないからである。わたしの名はかれの真中に在るからである(出エジプト記23・20、21)。

 

『エホバの天使』によりここでは神的な人間的なものの方面の主が意味されていることについては6831番を参照されたい。神的な人間的なものは神的なものそれ自身の性質であるため、それで『エホバの名はかれの真中にある』と言われているのである。主の祈りの中でもまた、

 

天にいます私たちの父よ、あなたの御名が崇められますように、

 

により神的な人間的なものの方面の主が意味され、また主を拝する手段である凡てのものの一つの総合体が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義9310[2]

 

 

 

神の摂理230

 

 聖い物の冒涜は十誡の第二の誡命の『あなたはみだりにあなたの神の御名を語ってはならない』の語により意味され、冒涜してはならないことは、主の祈りの『あなたの御名が崇められますように』の言葉により意味されている。基督教世界で神の御名の意味を知っている者は殆どいない、なぜなら霊界では名前は自然界のように与えられないで、凡ての者はその愛と知恵の性質に従って名前を受けることが知られていないからである。それは何人でも霊界の社会または共同体に入ると直ぐに、その性格に従って名をつけられるからである。その名を付ける事は霊的な言語でなされ、その言語は凡ての物に名を与えることが出来る、なぜなら霊界ではアルファベットの一つ一つの文字が一つの物を意味し、人の名のような合して一つの語となっている幾つかの文字はその物の状態全部を意味するからである。これは霊界の驚異の一つである。これらの事実から、聖言では神の御名は、神の中に在りまた神から発する神的な一切のものと共に神御自身を意味し、聖言は神から発する神的なものであるため、神の御名であり、教会の霊的な物を構成する神的な物は凡て聖言から発しているため、それもまた神の御名であることが明らかである。今や十誡の第二の誡命の『あなたは神の御名をみだりに口にしてはならない』の語と主の祈りの『あなたの御名の崇められますように』との語の意味が認め得られるであろう。神の御名と主の御名とは旧新約聖言の多くの記事に同じ意味を持っている、例えばマタイ7・22、10・12、18・5、20、19・29、21・9、24・9、ヨハネ1・12、2・23、3・18、12・13、28、14・13、14、16・23、24、26、17・6、20・31、その他。外に旧約聖書に非常に多くの記事がある。『名』のこの意義を理解する者は誰でも主の以下の語の意味を知ることが出来よう、「誰でも予言者の名で予言者を受ける者は予言者の報いを受けるであろう、誰でも義しい者の名で義しい者を受ける者は義しい者の報いを受けるであろう、また誰でもこの小さい者の一人にただ水一杯でも弟子の名で飲ませる者は必ずその報いを失わないであろう」(マタイ10・41、42)。ここの『予言者の名』『義しい者の名』『弟子の名』により単に予言者、義しい者、弟子しか理解しない者は文字的な意義しか理解せず、また予言者の報い、或いは義しい者の報い、或いは弟子に水一杯を与えることに対する報いの何であるかも知らない。しかし『予言者の名と報い』により神的真理に服従して生きる者の幸福な状態が意味され、『義しい者の名と報い』により神的善に従って生きる者の幸福な状態が意味され、『弟子』により教会の若干の霊的な教訓に従って生きる者の状態が意味され、『冷たい水一杯』は多少の真理を意味している。人間の愛と知恵、または善と真理の状態の性格は、主の以下の語に明らかなように、その名により意味されている、『門から入る者は羊の羊飼いである、門番は彼のために開き、羊は彼の声を聞く、彼は自分の羊の名を呼び、これを導き出す』(ヨハネ10・2、3)。羊の名を呼ぶことは仁慈の善にいる者を凡て、その愛と知恵の状態に従って教え導くことであり、門により『私は門である、もし誰でも私から入るなら、救われるであろう』の第九節により明白なように、主が意味されている。このことは、同章第一節に言われているように、人間は救われるためには主御自身に近づかなくてはならない、主に近づく者は羊飼いであり、主に近づかない者は盗人であり、強盗であることを明らかに示している。

 

 

 

 

4.名前は天界へは決して浸透しないで、名前を言われている者たちにより意味されていることのみが浸透する

 

 

天界の秘義1876

 

 聖言に記されている人間の、王国の、また都[町]の名前は、人間が話す言葉のように、それらが上昇する敷居そのもので消滅してしまうのである、なぜならこれらは地的な、形体的な物質的なものであり、他生に入ってくる霊魂はこれらのものを脱ぎ去ってしまい、天界に入る者は全くそれらを脱ぎ去ってしまうからである。天使たちは人物についての観念[考え]はその最小のものすらも保有してはおらず、したがってまたその名前についてはその観念[考え]をいささかも保有してはいないのである。アブラムとは何であるか、イサクとはまたヤコブとは何であるかは、彼らはもはや知ってはいない。彼らは聖言の中に彼らにより表象され、意味されている事柄から自分自身で何らかの観念を作るのである。名前と言葉とは彼らには塵か、または鱗のようなものであって、そうしたものは彼らが天界に入ると抜け落ちてしまうのである。ここから聖言の中の名前によっては現実の事柄以外には何ごとも意味されてはいないことを認めることが出来よう。私はこれらのことについて天使たちと再三話して、その真理について彼らにより充分に教えられたのである。霊たちが互に話し合う言葉は語の言葉ではなくて、語[言葉]のない人間の思考の観念のような言葉であり、それでそれは凡ゆる言語の普遍的なものである。しかし彼らが人間と話しをするときは、その言葉は(前の1635、1637、1639番に言ったように)人間の言語の語[言葉]となるのである。

 

 

 

天界の秘義6804

 

聖言の中で『アブラハム』、『イサク』、『ヤコブ』のことが語られている所では、その霊的な意義ではこれらの人間が意味されていないことは、名前は天界へは決して浸透しないで、名前を言われている者たちにより意味されていることのみが浸透するのであり、かくて事柄そのもののみが(即ち)教会と主の王国のものであり、また主御自身のものであるところの、彼らの性質と状態のみが浸透するという事実から認められることが出来よう。

 

 

 

 

5.地獄の人間は主の御名を口にすることが出来ない

 

 

アタナシウス信条についてP78

 

しかし凡ての地獄は主に反抗しているのである。彼らは主の御名を口にすることを欲していないし、また口にすることも出来ない、彼ら凡ての者にとっては、主を崇拝している者を苦しめ悩ますことが極めて楽しいのであり、この彼らの楽しさは極端なものである(例えば、ジレンボルグである)。主に反抗するスフィアは凡ゆる地獄から放出されており、主を拝するスフィアは凡ゆる天界から放出されており、ここから均衡が起こっている。

 

 

 

神の摂理53

 

この理由から、主の人間または霊または天使との結合は、凡て神的なものに関わりのあるものは彼らから発しないで、主から発しているという結合である。なぜなら人の持つ善の凡てと真理の凡ては主から発していて、人間自身から発しておらず、何人も主によらなくては主またはその名の『イエス』を口にすることすら出来ないことは知られているからである。

 

 

 

真の基督教297

 

イエスの名もまた聖いことは、その名に於いて天界と地上の凡ゆる者は跪くという使徒の宣言によって良く知られている。その聖さの故に、地獄の悪魔は一人としてそれを口にすることは出来ない

 

 

 

ローマ10・9

 

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

 

 

 

 

6.『エホバの名』はエホバの性質を知ること

 

 

天界の秘義2009[10]

 

『エホバの名』はエホバの性質を知ることであり、即ち、エホバは愛の善の一切であられ、信仰の真理の一切であられることであることは、主の以下の御言葉から明白である。

 

 ああ義しい父よ、わたしはあなたを知っており、またこれらの者も、あなたがわたしを遣わされたことを知っております。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました、またそれを知らせましょう、あなたがわたしを愛されたその愛が彼らの中に在り、わたしが彼らの中にいるためであります(ヨハネ17・25、26)。

 

 

 

 

7.主の御名を信じる

 

 

天界の秘義2009[12]

 

名それ自身は何事も遂行はしないが、凡ゆることがその名に包含されているものにより、即ち、仁慈と信仰との凡ゆるものにより遂行されることはマタイ伝の以下の言葉から明白である―

 私らはあなたの御名によって予言し、あなたの御名によって魔鬼を追い出し、あなたの御名の中にあって、多くの力ある業を行ったではありませんか。しかしそのときわたしは彼らに告白しよう、わたしは決してあなたらを知らなかった、不法を行う者よ、わたしから離れて去りなさい(7・22、23)。

 

 このことから以下のことが明白である、すなわちユダヤ人がエホバの御名の中に礼拝をおいたように、またキリスト教徒が主の御名の中に礼拝を置いているように、名の中に礼拝を置いている者らはそうしたことをしているという理由からそれだけ価値があるのではない、なぜなら名には何の益もないからである。しかし実際益を与えるものは彼らが主の命じられたような性格のものになるということである。なぜならそれが『主の御名を信じる』ことであるからである。更に、主の御名以外の名に救いは全く無いと言われていることは、それ以外のいかような教義の中にも、即ち、信仰の真の教義であるところの相互愛以外のものの中には、引いては主以外の者の中には救いは全くないということを意味しているのである、なぜなら愛のすべてとそこから派生してくる信仰とは主のみから発しているからである。