他人の悪を思わない

セム洗う

 

                                                                                                                                                             

天界の秘義1082

 

 23節「セムとヤペテは衣服を取り、その二人ともそれをかれらの肩にかけ、後向きに行ってその父の裸かをおおった、その顔は後向きになっていて、かれらは父の裸かを見なかった」。『セム』により前に言ったように、内なる教会が意味され、『ヤペテ』によりそれに相応した外なる教会が意味され、『衣服を取った』はかれらが善いように解釈したことを意味し、『その二人ともそれをかれらの肩にかけ』はかれらはそのことを全力をつくして行ったことを意味し、『後向きに行った』はかれらが過誤と歪曲に注意しなかったことを意味し、『父の裸かをおおうた』はかれらはかくしてそれらをゆるしたことを意味し、『その顔は後向きになって、かれらは父の裸かを見なかった』はそれがそのように為されなくてはならないことを、また理論から生まれた過誤と過失のようなものには注意してはならないことを意味している。

 

 

天界の秘義1088

 

 「そしてかれらの顔は後向きになっていて、かれらはその父の裸かを見なかった」。これは、そのようにそれが為されねばならないことを、また理論から生まれた過誤や過失のようなものに留意してはならないことを意味していることはそれが繰返されていることから明白である。なぜならここにはすぐ前に言われたことと殆ど同じことが言われており、それでこれらの言葉は同時に結論となっているからである。なぜならこの親教会は、またはこの教会の人間は悪意からこのように振舞ったのではなくて、単純な心からそのように振舞ったといった性格をもっていたからであって、このことは間もなく後に記されていることから明白であり、そこには『ノアはそのぶどう酒からさめた』、すなわちさらに良く教えを受けたと言われているからである。ここにとり扱われている事柄については、わたしたちは以下のように言ってよいであろう、すなわち、仁慈にいない者は隣人の悪のみしか考えないし、また悪のみしか言わないのであり、もし何か良いことを言うにしても、それは自分自身のためであり、またはその者らが友情の仮面の下でちやほや言う者のためであるが、それに反して仁慈の中にいる者は隣人の善いことのみを考えて、ただかれを善いように言うのみであり、しかもこれもかれら自身のためではなく、またその者たちが良く言う他の者から恩恵をうけるためでもなく、主が仁慈の中にそのように働かれていることから発しているのである。前の者は悪霊のようなものであり、後の者は天使のようなものであって、悪霊も天使も人間とともにいるのである。悪霊はその人間の中にある悪い誤ったもののみをかきたて、その人間を罪に定めるが、天使は善い真のもののみを刺激して、悪い誤ったものをゆるしている。このことから仁慈の中にいない者は悪霊に支配され、悪霊を通してその人間は地獄と交流し[連なり]、仁慈の中にいる者は天使たちから支配されて、天使たちを通してその人間は天界と交流している[連なっている]ことが明白である。

 

 

天界の秘義3147[8]

 

これは、ヨハネ伝に記されているように、主が弟子たちの足を洗われたとき、教えられたことから明白である―

 

 次にかれはシモン、ペテロに来られる、ペテロはかれに言う、主よ、あなたはわたしの足を洗われますか。イエスは答えて、かれに言われた、わたしが為すことはあなたは今は知らないが、しかし後になって知るでしょう、ペテロはかれに言った、あなたは決してわたしの足を洗ってはなりません。イエスはかれに答えられた、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりも持ちません。シモン・ペテロはかれに言った、主よ、わたしの足のみでなく、手も頭も。イエスはかれに言われる、洗われた者は、足を洗う以外には必要はなく、ことごとく清い、あなたたちはすでに清い、が、凡てが清いわけではない(ヨハネ13・4−17)。

 

『洗われた者はその足を洗う以外に必要はない』は、改良された者は、自然的なものの方面で清められる必要があるのみである、すなわち、悪と誤謬とはかれらから除かれなくてはならない、そのとき凡ゆるものが主から発している霊的なものの流入により秩序づけられることを意味しているのである。さらに足を洗うことは仁慈の務めであって、他人の悪を思わないことを意味し、またそれは卑下の務めであって、他の者を不潔なものから清めるように悪から清めることを意味したのであり、これもまた今引用したばかりの記事の中の主の言葉から明白である(ヨハネ13・12−17節、またルカ7・37、38、44、46、ヨハネ11・2、サムエル記前25・41)。

 

 

天界の秘義6655

 

「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)

これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、かれらの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。すなわち、かれらは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、かれらの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜならかれらはその隣人に対しては善以外には何ごともねがってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それをゆるすからである。悪にいる者らはそうではない。かれらはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜならかれらは隣人に対しては悪以外には何ごとも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜならかれらは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、かくれた力を持っていることを知っているからである。