セム
天界の秘義1082
23節「セムとヤペテは衣服を取り、その二人ともそれをかれらの肩にかけ、後向きに行ってその父の裸かをおおった、その顔は後向きになっていて、かれらは父の裸かを見なかった」。『セム』により前に言ったように、内なる教会が意味され、『ヤペテ』によりそれに相応した外なる教会が意味され、『衣服を取った』はかれらが善いように解釈したことを意味し、『その二人ともそれをかれらの肩にかけ』はかれらはそのことを全力をつくして行ったことを意味し、『後向きに行った』はかれらが過誤と歪曲に注意しなかったことを意味し、『父の裸かをおおうた』はかれらはかくしてそれらをゆるしたことを意味し、『その顔は後向きになって、かれらは父の裸かを見なかった』はそれがそのように為されなくてはならないことを、また理論から生まれた過誤と過失のようなものには注意してはならないことを意味している。
天界の秘義1083
『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。
人間が教会となる以前、すなわち、かれが再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、かれが再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。
[2]古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生けにえ、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。
基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いておこったのである。すなわち、生けにえとそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。
[3]古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することはできない。
そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しないかぎり、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、かれは聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。
こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、かれらは外なる礼拝の中にかれら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主はかれらの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、かれらの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。
仁慈をもっていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。かれらは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかしかれらは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝をもっているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。
天界の秘義1086
「後向きに行った」。これはかれらが過誤や歪曲されたものに注意しなかったことを意味していることは『後向きに行くこと』の意義から明白であり、それは眼を外らして見ないことであり、それは以下の記事から明らかであって、そこにはかれらは父の裸かを見なかったと言われているのである。『見ないこと』は内意では留意しないことである。
天界の秘義1087
「そしてかれらの父の裸かをおおうた」。これはかれらがそれらをゆるしたことを意味していることは前後の関連から明らかであるのみでなく、『裸か』の意義からも、すなわち歪曲されたものからも明白である。
天界の秘義1088
「そしてかれらの顔は後向きになっていて、かれらはその父の裸かを見なかった」。これは、そのようにそれが為されねばならないことを、また理論から生まれた過誤や過失のようなものに留意してはならないことを意味していることはそれが繰返されていることから明白である。なぜならここにはすぐ前に言われたことと殆ど同じことが言われており、それでこれらの言葉は同時に結論となっているからである。なぜならこの親教会は、またはこの教会の人間は悪意からこのように振舞ったのではなくて、単純な心からそのように振舞ったといった性格をもっていたからであって、このことは間もなく後に記されていることから明白であり、そこには『ノアはそのぶどう酒からさめた』、すなわちさらに良く教えを受けたと言われているからである。ここにとり扱われている事柄については、わたしたちは以下のように言ってよいであろう、すなわち、仁慈にいない者は隣人の悪のみしか考えないし、また悪のみしか言わないのであり、もし何か良いことを言うにしても、それは自分自身のためであり、またはその者らが友情の仮面の下でちやほや言う者のためであるが、それに反して仁慈の中にいる者は隣人の善いことのみを考えて、ただかれを善いように言うのみであり、しかもこれもかれら自身のためではなく、またその者たちが良く言う他の者から恩恵をうけるためでもなく、主が仁慈の中にそのように働かれていることから発しているのである。前の者は悪霊のようなものであり、後の者は天使のようなものであって、悪霊も天使も人間とともにいるのである。悪霊はその人間の中にある悪い誤ったもののみをかきたて、その人間を罪に定めるが、天使は善い真のもののみを刺激して、悪い誤ったものをゆるしている。このことから仁慈の中にいない者は悪霊に支配され、悪霊を通してその人間は地獄と交流し[連なり]、仁慈の中にいる者は天使たちから支配されて、天使たちを通してその人間は天界と交流している[連なっている]ことが明白である。
天界の秘義1098
『セム』により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。
内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。
内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。
内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。
天界の秘義1222
「ヤペテの兄」。これはその礼拝が外なるものであったことを意味していることはヤペテの意義が外なる教会であることから明白であり、この意義については前章の18節と以下の節とこの章の前の1節から5節までを参照されたい。ここでは『ヤペテの兄、セム』はとくに内なる教会と外なる教会とは兄弟であることを意味している、なぜなら内なる礼拝と内なる礼拝を宿した外なる礼拝との関係はそうしたものであるからである。それは血縁関係のものである、なぜなら各々の中で第一義的なものは仁慈であるからである。しかし内なる教会は先在的なものであり、また内的なものであるため、兄である。ここの『ヤペテの兄』もまた『エベル』とよばれる第二古代教会が第一古代教会に対しては弟のようなものであったことを含んでいる。なぜなら『ヤペテ』により、その内意では、如何ような教会であれ、その教会における内なる礼拝を宿した外なる礼拝以外の何ものも意味されてはおらず、かくてまたそれにより主として外なるものであったところのこの新しい礼拝以外の何物も意味されていないからである。
天界の秘義1226
『セムの息子たち』により知恵にぞくした事柄が意味されていることは単にセムが内なる教会であって、内なる教会の息子たちは知恵にぞくした事柄以外のものではないということからでも明白である。仁慈から生まれるものはすべて知恵と呼ばれているのは、知恵が主から仁慈を手段として発し、主から凡ゆる知恵が発しているためである、なぜなら主は知恵そのものであられるからである。そこから真の理知が生まれ、そこから真の記憶知が生まれ、またそこから真の知識が生まれ、それらは凡て仁慈の息子たちであり、即ち、仁慈を通して生まれた主の息子たちである。そしてそれらは仁慈を通して生まれた主の息子たちであるため、知恵はそれらのものの各々に属性づけられる。なぜなら知恵はそれらのものの各々の中にあって、それらのものは知恵からその生命を引き出しており、しかもそれが理知も、記憶知も、知識も主にぞくしているところの仁慈にぞくした知恵から生命を得なくては生命を得ないようになっているからである。