ヤフェト
天界の秘義1062
『セム』が内なる教会を、『ハム』が腐敗した教会を。『ヤペテ』が外なる教会を意味していることもまた以下の記事から明白であって、そこにはかれらの特質が記されているのである。各々の教会においてもそうであるように、古代教会においても内なるものであった人と内なるものであったが腐敗していた人と外なるものであった人がいたのである。
内なる者たちは仁慈を自分たちの信仰の第一次的なもの[主要なもの]とする者たちであり、内なるものであるが、腐敗している者は、仁慈の無い信仰をその信仰の主要なものとする者らであり、外なる者たちは内なる人についてほとんど考えはないが、それでも仁慈の業を行って、教会の儀式を聖く守っているのである。
この三種類の人間の外には、霊的な教会の人間として呼ばれなくてはならない者はいないのであって、かれらは凡て教会の人間であったため、『箱舟から出た』と言われているのである。古代教会の中で内なる人であった者たちは、すなわち、仁慈を自分の信仰の主要なものとした者たちは『セム』と呼ばれたが、内なるものであるが、腐敗していた者たちは、すなわち仁慈を欠いた信仰を主要なものとした者らは『ハム』と呼ばれ、他方外なるものであって、内なる人については殆ど考えなかったものの、それでも仁慈の業を遂行し、聖く教会の儀式を守った者たちは『ヤペテ』と呼ばれたのである。
天界の秘義1100
『ヤペテ』により(内なる教会に)相応した外なる教会が意味されることは既に述べた、また外なる教会、すなわち、外なる礼拝により意味されていることもすでに述べた、かくて内なる人の何であるかを知っておらず、また内なる人に属したものを何ら知ってはいないものの、それでも仁慈に生きている者を述べた。これらの者のもとにも主は等しく現存されているのである。なぜなら主は仁慈が存在するところにはことごとく、仁慈を通して働かれるからである。この点では小さな子供たちの場合も同一であり、子供たちは仁慈の何であるかは知っておらず、まして信仰の何であるかは知ってはいないものの、それでも主は大人のもとに現存されている以上に子供たちのもとに現存されており、とくに子供たちが仁慈の中に共に生活しているときは、現存されているのである。無垢、仁慈、慈悲を持った単純な人々の場合も同一である。もし人間がその知っていることに従って生活しないならば、その者が多くの事を知ったとて、それは全く無益なことである。なぜなら知ることは人間がそのことによって善くなるためのものであり、それ以外の目的は全くありはしない。人間は善くなったときは、無数の事柄を知ってはいるが、善良ではない者よりも遥かに多くのものを持つのである。なぜなら後の者が多くの知識により探求するものを前の者はすでに持っているからである。しかし多くの真理と善とを知っていると同時に仁慈と良心とを持っている者の場合は非常に異なっている。なぜならこうした者は内なる教会の人、すなわち『セム』であるからである。知っていることは僅かでも、良心を持っている者は他生で明るくされ、かくて天使となり、表現を絶した知恵と理知とを受けるのである。これらが『ヤペテ』により意味されている。
天界の秘義1101
「神がヤペテを大きくしてくださいますように。」(創世記9・27)。
は、この教会が明るくされることを意味している。文字の意義では「大きくすること」は境界を拡げることであるが、内意では明るくされることである。なぜなら明るくされることはいわば知恵と理知の境界を大きくすることであるから。例えばイザヤ書には―
あなたの天幕の場所を大きくせよ、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ(54・2)。
これは霊的な事柄で明るくされることを意味している。外なる教会の人間は信仰の諸真理と諸善とを教えられるとき、『大きくされる』のであって、かれは仁慈の中にいるため、そのことによりますます確認を与えられ、さらに、かれは教えられるに応じて、ますますかれの知的な部分の雲が―すなわち仁慈と良心が宿っているかの知的な部分の雲が消散するのである。
天界の秘義1102
「かれはセムの天幕の中に住むであろう」(創世記9・27)。
これは、礼拝の内なるものが外なるものの中に存在するように、を意味することは前に『セム』について述べられた凡てのことから明白であり、すなわち、『セム』は内なる教会、又は内なる礼拝であり、外なる礼拝は、それを生かし、潔める内なる礼拝がない限り、生命のないもの、または不潔なもの以外の何物でもないことから明白である。『天幕』は愛の聖いものとそこから生まれてくる礼拝以外の何ごとも意味していないことは『天幕』の意義から明白である(そのことについては、前の414番を参照)。
古代人の間では『天幕の中で旅をすること』と『天幕の中に住むこと』を話すことが慣とされ、そのことにより、その内意では聖い礼拝が意味されたのであるが、それは最古代人は天幕を携えて旅をしたのみでなく、またその中に住み、その中で聖い礼拝を捧げたという理由によっていたのである。ここからまた『旅をする』ことと『住む』とは内意では生きることを意味したのである。
[2]『天幕』が聖い礼拝を意味していることを確認するためには―前に引用した記事に加えて(414番)―以下の記事が役立つであろう。ダビデの諸には―
神はシロアの幕屋を、天幕を―その中で神は人間の中に住まわれたが―見棄てられた(詩篇78・60)。
ここでは『天幕』は『神殿』が意味していることと同じことを意味しており、神は愛の中に人間のもとに住まわれるときその神殿の中に住まわれると言われているのである。ここから聖い礼拝の中に生きた人間は古代人により『天幕』と呼ばれ、後には『神殿』と呼ばれたのである。イザヤ書には―
あなたの天幕の場所を大きくせよ、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ(54・2)。
これは真の礼拝に属した事柄を明るくされることを意味している。エレミヤ記には―
全地は荒らされ、たちまちわたしの天幕は荒らされ、わたしの帳はまたたくまに荒らされてしまった(4・20)。
ここには天幕が意味されていないで、聖い礼拝が意味されていることが極めて明らかである。ゼカリヤ書には―
エルサレムは尚再びそのもの自身の場所に、エルサレムの中にさえ住むであろう、エホバも亦ユダの天幕を救われるであろう(12・6,7)。
ここでは『ユダの天幕』は愛の聖いものから主を拝することを表象している。
天界の秘義1150
「ヤペテの息子たち」。これらは内なる礼拝に相応した外なる礼拝を持っていた者たちを意味していることは前に説明した。外なる礼拝はその礼拝の中に本質的なものが存在していると言われている。この本質的なものとは心から主を礼拝することであり、それは仁慈または隣人に対する愛が存在しない限り決してありえないのである。仁慈または隣人に対する愛の中に主は現存されており、その時主は心から崇拝されたもうことができるのである。かくて崇拝は主から発している、なぜなら主は崇拝における能力そのものと存在そのものを与えられるからである。ここから人間の仁慈の如何にその者の崇拝がまたは礼拝が応じていることが生まれている。礼拝は凡て崇拝であるが、それは礼拝が礼拝となるためにはその中に主を崇拝することが存在しなくてはならぬからである。ヤペテの息子たちは、または『ヤペテの息子たち』と呼ばれた諸国民と諸民族とは互に相互的な仁慈の中に、友情の中に、礼儀の中に、単純の中に生き、それで主はかれらの礼拝の中に現存されたのである。なぜなら主が外なる礼拝の中に現存されるとき、外なる礼拝の中には内なる礼拝が在り、すなわち、内なる礼拝に相応した外なる礼拝が在るからである。以前このような国民が極めて多くいたのである。そして現今でもまた礼拝を外なるものから成立させて、内なる礼拝の何であるかを知っておらず、またはそれを知るにしてもそのようなものについては考えはしない者が居るのである。もしこうした人物が主を承認して、隣人を愛するならば、主はその者らの礼拝の中にあらわれるのであって、かれらはヤペテの息子たちとなるのである。しかしもしかれらが主を否定し、自分自身のみを愛し、隣人を意に介しないならば、とくにもしかれらがかれに憎悪を抱くならば、その礼拝は内なる礼拝から分離した外なる礼拝であり、かれらはカナンの息子らとなり、またはカナン人となるのである。