ハム

セムヤフェト

 

 

 

1.仁慈から分離した信仰

2.ハムの息子たち

 

 

 

1.仁慈から分離した信仰

 

天界の秘義1075

 

 22節『そしてカナンの父、ハムはその父の裸かを見て、外にいる彼の二人の兄弟に告げた』。『ハム』と『カナン』とはここでも前と同じ意義を持っており、『ハム』は腐敗した教会を、『カナン』は内なる礼拝を欠いた外なるものによる礼拝を意味し、『父の裸かを見た』は彼が前に言われた過誤と歪曲されたものとを注視したことを意味し、『外にいる彼の二人の兄弟に告げた』は彼が嘲ったことを意味している。彼らが彼の『兄弟』と呼ばれているのは、彼が信仰を告白したためである。

 

 

 

天界の秘義1076

 

『ハム』は腐敗した教会を意味していることはハムについて前に言われたことから明白である。教会はそれが聖言を承認して、真の教会の礼拝のようなある礼拝を持ってはいるものの、それでも信仰を仁慈から分離し、かくて信仰をその本質的なものから、その生命から分離し、かくて信仰が一種の死んだものとなってしまう時―その結果は必然的にその教会が腐敗してしまうということではあるが―腐敗してしまうと言われている。その時その教会の人間らはいかようなものになるかは、その者らが良心を持つことが出来ないということを考察することにより明白となるのである。なぜなら真に良心である良心は仁慈によらなくては決して存在することは出来ないからである。仁慈が良心を作るものである。即ち、主が仁慈を通して良心を作られるのである。良心とはたれにも決して悪を行わないということ、即ち、凡ての者に凡ゆる方法をもって善を行うということ以外の何であろうか。かくて良心は仁慈に属し、決して仁慈から分離した信仰には属していないのである。もしこのような人物が何らかの良心を持っているならば、それは誤った良心であり、それについては前に述べたことを参照されたい、彼らは良心を持っていないため、外なる束縛が緩められる限り、凡ゆる邪悪に突入するのである。彼らは仁慈とは何であるかを、それは何かを意味している言葉であるということ以外には、知ってさえもいない。彼らは、質問されると、それは一種の考えであるとしか答えることが出来ず、ある者はそれは信頼であると答え、他はそれは信仰の知識であると答え、少数の者はそれはこの知識に応じた生活であると答えるが、殆どたれ一人もそれは仁慈の生活であり、または相互愛の生活であるとは答えはしないのである。そしてもしそのことが彼らに言われて、そのことについて反省する機会が彼らに与えられにしても、彼らはただ、愛は凡て自己から始まり、自分自身と自分自身の家族を顧みない者は異教徒より悪い者であるとしか答えないのである。それで彼らは彼ら自身と世を除いては何事も学びはしない。ここから彼らは彼ら自身のものの中に住むようになるのである。その彼ら自身のものの性質については前に述べておいた。これらがハムと呼ばれる者である。

 

 

 

天界の秘義1077

 

 ここに『ハム』と『カナン』と呼ばれている者らは、即ち仁慈から信仰を切り離し、かくして礼拝を外なるものの中にのみ存在させる者らは、良心とは何であるかを、それは何処から発するかを知ることが出来ないことを簡単に示さなくてはならない。良心は信仰の諸真理により形作られるのである。なぜなら人間が聞いたり、承認したり、信じたりしたものが人間の中に良心を作るからであって、その後でそれに反して行動することは、たれにも充分明白であるように、その者には良心に反して行動することになるのである。それ故人間が聞き、承認し、信じるものが信仰の諸真理でない限り、人間は決して真の良心を持つことは出来ないのである。なぜなら人間が再生するのは信仰の諸真理によっており(主は仁慈の中に働かれているのであるが)、それで人間が良心を受けるのは信仰の諸真理によっており、良心は新しい人間自身であるからである。以下のことが明白である。即ち、信仰の諸真理はその者が信仰が教えることに従った人間となり、またはそうした人間として生きることが出来る手段であり、信仰の第一次的なものは主を凡ゆる物にまさって愛し、隣人を自分自身のように愛することである。もし彼がそのように生活しないならば、その者の信仰は空しいもの、単なる仰々しい言葉、あるいは天界的生命から分離したものでなくて何であろうか、そしてそれがそのように分離するなら救いはその中には在り得ないのである。

 

 

 

天界の秘義1077[2]

 

なぜなら人間は如何ような生活を送ろうとも、なお信仰さえ持っているならば救われることが出来ると信じることが、人間は仁慈を持っていなくても、良心を持っていなくても、(即ち、その生活を憎悪、復讐、強盗、姦淫の中に送ろうとも、一言で言うなら、仁慈と良心に反した凡ゆるものの中に送るにしても)、例え死ぬ間際であろうと、信仰を持ってさえおれば、救われることが出来ると言うことであるからである。このような人物は、彼らがそのような誤った原理に立っている時は、その良心を形作ることの出来るいかような信仰の真理が在るかを、またそれは誤ったものでないか否かを考察されよ。もし彼らは彼らが良心の何かを持っていると考えるならば、彼らが良心と呼んでいるものを、彼らのもとに作っているものは、また彼らに隣人を害わないで、隣人に善を為すように仕向けているものは単に外なる拘束物に過ぎないのであり、例えば法律に対する恐怖、名誉を利得を失いはしないかとの恐れ、または名誉と利得を得るために世間の評判を悪くはしないかとの恐れといったものに過ぎないのである。しかしこれは仁慈ではないため、良心ではないゆえ、これらの抑制が緩められ、または除かれると、こうした人物は最も邪悪な淫猥な事柄に突入するのである。信仰のみが救うときっぱり言明しているものの、なお仁慈の生活を送った者の場合は非常にそれとは異なっている、なぜなら彼らの信仰には主から発した仁慈が存在しているからである。

 

 

 

天界の秘義1079

 

「その父の裸かを見た」(創世記9・22)

 

これは彼がその過誤と歪曲とを観察したことを意味することは『裸か』の意義から明白であり(それについては直ぐ前の記事とまた前の213、214番を参照されたい)、それは悪い、歪められたものである。ここには、仁慈から分離した信仰の中にいる者らが『ハム』により、即ち、彼がその父の裸かを見たことの中に、即ち、彼の過誤と歪曲とを見たことの中に記されているのである。

なぜならこうした性格の者は人間の中に他の何物をも見ないのであるが、それに反して―それと非常に相違して―仁慈の信仰の中にいる者たちは良いものを観察し、もし何か悪い誤ったものを見ても、それを赦し、もし出来ることなら、ここにセムとヤペテについて言われているように、彼の中にそれを矯正しようと試みるのである。仁慈が無いところには、そこに自己への愛が在り、それで自己に組しない凡ての者に対する憎悪が存在している。従ってこうした人物は隣人の中に悪いもののみを見、何か良い物を見ても、それを無価値なものとして認めるか、またはそれを悪く解釈するのである。

仁慈の中にいる者は全くその反対である。こうした相違により、この二種類の人間は、特に他生に入ってくる時、互に他から区別されている。なぜならその時何ら仁慈の中にいない者にあっては、憎悪の感情がその一つ一つのものから輝き出ており、彼らは凡ゆる者を点検し、彼らを審こうとさえ欲し、また悪いことを見つけ出すことにまさって何ごとをも欲してもおらず、罪に定め、罰し、拷問にかけようとする気質を絶えず抱いているのである。しかし仁慈の中にいる者たちは殆ど他の者の悪を見ないで、その凡ゆる善と真理とを観察し、悪い誤ったものを良いように解釈するのである。かくの如きが凡ゆる天使であって、それを彼らは主から得ているのである。なぜなら主は凡ゆる悪を善へたわめられるからである。

 

 

 

天界の秘義1080

 

「そして外にいる二人の兄弟に告げた」(創世記9・22)。

 

これは彼が嘲ったことを意味していることは今言ったことから当然の帰結として生まれてくる。なぜなら仁慈の中にいない者らのもとには、他の者に対する不断の軽蔑があり、または不断の嘲笑が在って、機会のある毎に彼らの過誤を公にするからである。彼らが公然と行動しないのはひとえに外なる拘束物に抑制されているためであり、即ち、法律を恐れる恐怖、生命を、名誉を、利得を失いはしないかとの恐怖、またそうしたもののために世間の評判を悪くはしないかとの恐れに抑制されているためであって、このことが彼らはうわべでは友情をつくろってみせてはいるものの、内ではそうしたものを抱いている理由となっている。

ここから彼らは二つのスフィアを得ているが、それらは他生では明白に認められている。即ち一つは内的なもので、憎悪に満ちているが、他の一つは外的なもので、善いものを模倣している。これらのスフィアは元来全く調和しないものであるため、互に衝突しない訳にはいかないのであり、それで外的なスフィアが彼らから取り去られて、彼らが偽ることが出来なくなると、彼らは凡ゆる邪悪に突入するのであり、それが取り去られない時は、憎悪が彼らの語る一つ一つの言葉の中に潜んでいて、それが認められるのである。ここから彼らの刑罰と拷問とが起っている。

 

 

 

天界の秘義1161

『ハム』により仁慈から分離した信仰が意味されることはハムについて前章に言われもし示されもしたことから明白である。

 

 

 

2.ハムの息子たち

 

 

天界の秘義1162

 

『ハムの息子たち』によりこの分離した信仰に属した事柄が意味されていることは以下のことから生まれている。『ハム』により意味されていることが知られ、それ故『ハムの息子たち』によっても意味されていることが知られるためには仁慈から分離した信仰はいかようなものであるかが先ず知られなくてはならない。仁慈から分離した信仰は信仰ではない。信仰のないところには、内なる礼拝も外なる礼拝も存在しない。仮にも何らかの礼拝があるにしても、それは腐敗した礼拝であり、それ故『ハム』により同じく腐敗した内なる礼拝が意味されている。

仁慈から分離している、天的な事柄と霊的な事柄に関わる単なる記憶知を信仰と呼んでいる者らは誤った見解を抱いているのである。なぜなら時としては人間の中でも最悪の者でさえもこうした知識を他の者にもまさって持っているからである―例えば絶えず憎悪と復讐の中に、また姦淫の中に生きており、それ故奈落的なものであり、身体の生命の後には悪魔となる者らがそれである。こうしたことから記憶知は信仰ではないことを認めることが出来よう。しかし信仰は信仰に属した事柄を承認することであり、こうした承認は決して外なるものではなくて、内なるものであり、主のみが人間の中に仁慈を通して作り出されるものである。そしてこの承認は決して口先の事柄ではなくて、生命の事柄である。人間各々の生命[生活]からその者の承認はいかようなものであるかを知ることが出来よう。

信仰の幾多の知識の記憶知を持ってはいるが、仁慈を持ってはいない者らはすべて『ハムの息子ら』と呼ばれるのである。例えそれが聖言の内的な知識の記憶知であるにしても、聖言の神秘そのものの記憶知であるにしても、または聖言の文字の意義における凡ゆる事柄の記憶知であるにしても、または呼称のいかんを問わない他の諸真理の記憶知であるにしても―その記憶知からそうした事柄が観察されるのであるが―または外なる礼拝の凡ゆる祭儀の知識であるにしても。もしその者らが仁慈を持たないならば、その者らは『ハムの息子たち』である。『ハムの息子たち』と呼ばれている者はこうした性格を持っていることは今取扱われている諸国民から明白である。