自然から神的なものを

確認する

 

蜜蜂

 

 

1.蝶

2.蜜蜂

3.自然を告白しこれを拝する者は自然を確認するに反し、神を告白し拝する者はその同じ物から神的なものを確認している

 

 

 

 

 

1.蝶

 

神の愛と知恵354

 

何人でも自然の可視的な物から神的なものを確認することが出来よう、幼虫が或る衝動の歓びから、その地的な状態を天界の状態に似たものに変えようと渇望し、この目的のために片隅に這って行き、再び生まれ出ようとして謂わば胎内に入り込み、そこに蛹(クリサリス)aurelia,caterpilars,nymphsとなり、遂に蝶になり、こうした変形を経過し、各々その種類に従って美しい翼で身を飾り、天に昇るように、空中に昇り、そこに楽しく、たわむれ、結婚の結合を営み、卵を生み、自分のために子を生み、その間花から得た楽しい甘美な食物で栄養をとるのを見るとき、神的なものを確認することが出来よう。自然の可視的な物から神的なものを確認する者であって、幼虫としてのこれらのものの中に人間の地的な状態の一種の映像を、蝶としての彼らの中に天界の状態の映像を見ることをとどめることが出来ようか。自然を確認する者はその同じ物を見るが、しかし心に人間の天界の状態を斥けているため、これを単に自然的な本能と呼ぶにすぎない。

 

 

 

2.蜜蜂

 

神の愛と知恵355

 

何人でも蜂について知られていることに注意を払うことによって、自然に見られる物から神的なものを確認することが出来よう、

 

 

 

3.自然を告白しこれを拝する者は自然を確認するに反し、神を告白し拝する者はその同じ物から神的なものを確認している

 

神の愛と知恵355

 

獣の創造におけるこうした物とそれに非常に類似した他の物から、自然を告白し、これを拝する者は自然を確認するに反し、神を告白し、拝する者は、その同じ物から神的なものを確認している、何故なら霊的な人間はその中に霊的な物を、自然的な人間は自然的な物を見、かくて各々その性質に従うからである。私自身について言えば、こうした物は自然的なものへ注ぐ霊的なものの証明であり、即ち、自然界へ注ぐ霊界の流入の証明であり、かくて主の神的知恵から発する流入の証明である。

 

 

 

神の愛と知恵351

 

神的なものを確認する者は「動物が生み出されてくる中に」示されている驚異に注意する、ここではただ卵についてのみ述べているがひなの精または初めはその中に隠れていて、それがかえるまで必要な物を凡て持っており、またそのひなが鳥になり、またはその親と同じ形の翼を持ったものになるまでの、その後の成長に属する凡ての物を持っている。そしてもし人がその生きた形を観察するならば、それは深く考える者を何人でも驚異の念で満たすものである、(中略)凡ての物を自然に帰している者はこの凡ての物を見るが、しかし彼らは単にそれが存在していることを認めるのみであって、自然がそれらを生み出していると言っている。彼らがこのように語るのはその心を神的なものについて考えることから遠ざけてしまったからであり、このように遠ざけた者は自然の中に驚くべき事を見るときも、合理的に考えることは出来ず、まして霊的に考えることは出来ず、単に感覚的に、物資的に考え、かくてちょうど地獄にいる者のように、自然から自然の中に考えて、自然を超越して考えない。彼らは合理的に考える力を持っているということによってのみ、即ち、もし欲するならば、理解し、それ故、異なった風に考えることが出来るということによってのみ、獣と異なっているにすぎないのである。