自然から神的なものを確認する

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.サンダー・シング

3.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

真の基督教12

 

人はまた凡て自然の可視的な物から(例えば)かの昆虫を見る時、神的なものを信ずる信念を確実にすることが出来よう。かの昆虫はある欲望に駆られて、その地上的な状態から天界の状態に至る変化を求め、これに憧れ、その目的のために適当な場所へ這いり込み、身を被覆で包む。かくて再び生まれるために繭へ入り、そして蛹となり、ついに蝶となる。而して彼らはその種類に応じてこのような形の変化を経て、その美しい翼をつけた時、己が天界へ向かうように、外気に向かって飛び立つ。そして、そこに戯れ、配偶者を得、卵を生み、己が種類を繁殖させ、今や花から甘い楽しい食物をうるのである。自然の可視的な物から神的なものを信ずる信念を確実にする者は凡て確かに、地虫としての彼らの中に人間の地上の状態の映像を見、蝶としての彼らの中に人間の天界の状態の映像を見るに違いない。しかし自然を信ずる信念を確実にする者は、天界的状態に対する凡ての信念を斥けている故、これらの驚異を見るものの、依然それらを単に自然の働きと呼ぶのである。

 

 

 

真のキリスト教687

 

洗礼または再生は天界と地上の多くの物を以って表されている。天界では今、述べたように、それは白と紅の衣服によって、教会と主との結婚によって、新しい地と新し天界とによって、そこから降る新しいエルサレムによって(中略)世では、再生は春の凡ゆる植物の開花により、果実に至るまでの花の漸進的な発達により、温かい季節の間の凡ゆる木、潅木、花の成長により、凡ゆる果実の成熟により、朝と夕の急雨と露により―それが降り注ぐと花は開き、夜が来ると再び閉じる―庭園と畠から発する芳香により、雲の中の虹により(創世記9・14〜17)、暁の輝かしい色彩により、全般的に身体の不断の更新により―身体を健康に保つことは、いわば不断の再生である―表されている。地上の極めて些細な物ですら再生の姿を見せている。幼虫が蝶に変形する驚異とこれに類似した他の不思議な事柄を考察されよ。恐らく我々は、或る鳥は水浴を好み、その身体を洗った後、新しく歌い出すことに注意を向けることが出来よう。約言すれば、全世界は始めから終わりまで、再生の表象と模型とに充ちているのである。

 

 

 

天界の秘義2758

 

 純粋な結婚愛は天界であることは自然の幾多の物界に表象されているのである。なぜなら自然界はその起原をことごとく霊界から得ているからには、何らかの方法で主の王国を全般的に表象していない物は自然界の凡ての中に一つとして存在していないからである。そのもの自体に先在している起原を持たないものは存在しないのである。原因に関連を持っていない、それで目的にも関連を持っていないものは一つとして存在しないのである。関連を持たないものは一瞬にして崩壊し去り、無となってしまうのである。それ故ここから自然界の中で主の王国を表象しているものが発しているのである。結婚愛が天界であることは、小さな虫がニンフとさなぎに変形し、かくて翼を持った昆虫に変形することから明白である。なぜなら彼らの婚姻の時が来ると―それは彼らがその地的な形をまたは虫のような形を脱ぎ去り、翼で身を飾って、飛ぶ生物となる時のことであるが―彼らはその時彼らの天界である空中へ挙げられ、そこで互いに戯れ、結婚の儀式を全うし、卵を生みつけ、花汁を吸って、自らを養うのである。その時また彼らはその美の中にもいるのである。なぜなら彼らは金色の、銀色の、その他優雅な模様を帯びた色彩で飾られた翼を持つからである。このような結婚の原理はこのようなものを卑賤な小さな虫の間にも生み出しているのである。

 

 

 

神の愛と知恵354

 

自然から神的なものを確認する

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P160

 

完全なるものが完全な環境の中でした得られないことは確かである。とはいえ、完全な環境に入る前に不完全な環境で努力し戦わなくてはならない。この戦いがわたしたちを強くし、完全な環境へと準備させる。それは、繭の中で蚕がもがき、ついに美しい成虫となって出てくるのにも似ている。完全な状態になったとき、自分を妨げていたはずのことが、実際には不思議な方法で完成への手助けをしてくれていたことがわかるだろう。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P245/神との対話

 

信ずる者とそうでない者の生活は、初めのうちは大差なくみえるが、最後は蛇と芋虫ほどの差が生じる。蛇は幾度脱皮しようとやはり蛇である。だが、芋虫は醜いサナギを脱皮して新しい生物となり、美しい蝶となって空を舞う。同じように、信じる者は肉体を脱して霊的栄光の域に入り、天をいつまでも駆けるようになるが、罪人は死んでもやはり罪人である。

 芋虫はまた、十字架に括り付けられたかのように、木に張りついたサナギの中でもがき苦しむが、この苦しみが翼に力を与えて新生命に備えさせる。同じように、わが子らも地上にあって霊的戦いに苦しみ解放のときを溜息とともに待ちこがれるが、十字架を負う中でわたしから力を与えられ、終りなき生命に対して完全に準備する。

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P269

 

 神の計らいには無駄なことは一つもない。間違いさえ、善を目指す人にとって、善へ至る手段となります。誤りは幼虫の殻のように抜け落ち、そこから奇形でもなく、臭気もなく、腹這いもしない蝶が出て、花の蜜と太陽の光を求めて飛んで行きます。よい霊魂もこのようなものです。場合によって醜い寄生虫に絡まれることがありますが、後にそれを抜け出して、花から花へ、徳から徳へ、光りの方へ、完全さの方へ飛ぶのです。その絶えざるあわれみの御業のために、主を褒めたたえなさい。その御業は人間が知らなくとも、人間を取り巻いていて、その心に働きます。