真理を見ようとする情愛
神の愛と知恵404[8]
「第三の連結は真理を見ようとする情愛を通して生まれ、そこから思考が発生する」。真理を知ろうとする情愛と真理を理解しようとする情愛とまた真理を見ようとする情愛とはそれぞれ異なっており、または真理に対する情愛と真理の認識と思考[考えること]はそれぞれ異なっていることは、心の諸々の働きを区別のあるものとして認めることの出来ない者には明らかには認められないが、しかしそれを認めることの出来る者には明らかに認められている。それが諸々の働きを区別のあるものとして認めない者により明らかに認められないのは、真理に対する情愛と真理の認識とにいる者にあっては、これらの働きは思考の中に同時に存在し、そして同時に存在する時は区別されることが出来ないからである。特に人間が他の者と交わっている場合のように、その霊が身体の中に考えている時は、彼は明らかに示された思考にいるが、しかし真理の理解に対する情愛にいて、それを通して真理の認識へ入ると、瞑想という、霊の思考の中におり、その思考は実際身体の思考へ移るが、沈黙した思考へ移るのである。何故ならそれは身体的な思考の上に在って、記憶から発した思考に属する物をそれ自身の下に在るものとして眺め、そこから結論かまたは確証かを引き出すからである。しかし真理に対する情愛は、瞑想の内部にその生命として存在していて殆ど注意されないところの快い物から発した意志の圧力としてしか認められない。この凡てから今や、真理に対する情愛、真理の認識、思考の、この三つのものは愛から秩序をもって連続し、理解の中にのみ存在することが認められることが出来よう。何故なら愛が理解の中へ入ると―それは愛と理解との連結が行なわれるときなされるが―愛は先ず真理に対する情愛を生じさせ、次にその知っているものを理解しようとする情愛を生じさせ、最後にその理解しているものを身体的な思考の中に見ようとする情愛を生じさせるからである。なぜなら思考は内的な視覚以外の何ものでもないからである。思考は自然的な心に属しているため、最初に明らかに示されるということは真であるが、しかし真理に対する情愛から発した真理の認識から来ている思考は最後に明らかに示され、この思考は知恵の思考であるが、しかし他は自然的な心の視覚を通して記憶から発している思考である。理解の中に存在しない愛または意志の凡ての働きは真理に対する情愛に関係しないで、善に対する情愛に関係している。