思考

 

情愛

 

 

 

1.思考の本質そのものは情愛または愛

2.思考は情愛の形

3.思考は認識から発する

4.思考からは認識は実際には与えられはしない

5.思考は内部へ浸透するに応じて、益々それ自身を記憶知から遠ざける

6.思考は歓喜を離れては存在しない

7.思考は意志から生まれる

8.思考は意志の形以外のものではない

 

 

 

 

1.思考の本質そのものは情愛または愛

 

 

黙示録講解242ロ(6)

 

このことは人間の理解に属しているその思考により、人間の意志に属しているその情愛により解明されたのであり、情愛から分離して考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛または愛であるからである。人間は、確かに、教会の教義から知っている凡ゆることを考えることはできるが、しかし単に自然的な情愛から考えることができるのであり、それは栄誉、名声、名誉または利得を求める情愛または愛である。しかしこうした情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、それは仁慈を要求するのであり、仁慈は霊的な情愛そのものである。これが知識と連結するとき信仰が存在し、かくて人間がその情愛の中にいるかぎり、かれはその信仰に属している事柄を思考に見、それらは真理と呼ばれ、それらがかれの霊そのものから発しているため、かくてかれの霊的生命そのものから発しているため、それらを承認するのである。このこともまた解明と呼ばれるものであり、このことがたれ一人、真理に対する霊的情愛の中にいない限り、聖言から解明されることができない理由である。

 

 

 

霊界日記5945

 

信仰と言うも、真理と言うも、それは同じことであり、善と言うも、仁慈と言うもそれも同じことであり、さらに、それは人間の思考と情愛との場合と同じである。情愛をはなれて考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛であるからである。人間は、実に、何であれ、その知っていることを考えることができるが、しかしそれは、栄誉、名声、名誉に対する情愛である自然的な情愛から発しているのである。しかしながら、この情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、仁慈と呼ばれる霊的な情愛が存在しなくてはならない。さらに、人間は、仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認めるのである。

 

 

 

2.思考は情愛の形

 

 

天界の秘義5102

 

「言った、なぜあなた方の顔は今日は悪いのですか」。これは、その悲哀はいかような情愛から発したか、を意味していることは、『顔』の意義から明白であり、それは内部であり(358、1999、2434、3527、4066、4796、4797番を参照)、かくて情愛である。なぜなら思考もまた内部であるが、その思考が発生している源泉である人間の内部は情愛であるからである。なぜなら情愛は人間の愛のものであるため、それはその生命のものであるからである。周知のように、無垢の者にあっては情愛はその顔に明らかに示されており、情愛はそのように示されているように、全般的に思考も示されている、なぜなら思考は情愛の形であるからである、そこから顔は、それ自身において観察されるなら、内部を表象している映像以外の何ものでもないのである。天使たちには顔はすべてそのように現れ、それ以外のものとしては現れてはいない、なぜなら天使たちは人間の顔の物質的な形を見ないで、その霊的な形を、すなわち、その情愛とそこから派生している思考とが示している形を見るからである。それが人間の顔そのものを作るものであることは、顔はそれをはぎとられると、全く死んだ物となり、顔はそれから生命を得ており、またそれに応じて快いものとなっているという事実から知ることができよう。情愛の悲哀が、または『それはいかような情愛から発しているか』が、かれが『なぜあなた方の顔は今日は悪いのですか』といったことにより意味されているのである。

 

 

 

3.思考は認識から発する

 

 

天界の秘義1919

 

 「アブラムはサライに言った。」これは認識を意味していることは、前に言われたことから明白である(1898番)。主の認識はアブラムがサライに言ったこのことにより表象され、またここに意味されているが、しかしその認識から発した主の思考[考え]はサライがアブラムに言ったことにより表象され、意味されたのである。思考は認識から発したのである。認識の中にいる者たちはそれ以外のものからは考えはしないが、それでも認識と思考とは異なっている。それがそうであることを示すため、良心を一つの説明として考えてみられよ。

 

 

 

天界の秘義1919[2]

 

良心は主から諸天界を通って流れ入ってくる事柄を全般的に指示する種類のものであって、かくてそれは明確でないものである。流入してくるものは内的な合理的な人の中にそれ自身を示しはするが、そこには雲に包まれているように存在しており、その雲は信仰の諸真理と諸善とにかかわる外観と迷妄[妄想]とから発している。しかし思考は良心とは明確に区別されはするが、それでもそれは良心から流れ出ているのである。なぜなら良心を持っている者は良心に従って考え、語っており、そして思考は良心に属している事柄を明らかに示して、そのことによりそれらをいくたの観念[考え]に分け、次に言葉に分ける以外のものではないからである。ここから良心を持っている者は隣人については良い思考[考え]の中に主により保たれて、悪を考えないようにそこから遠ざけられており、それで良心は自分の隣人を自分自身のように愛し、信仰の諸真理については良く考える者以外の者のもとには在り得ないのである。以上述べたことからわたしたちは良心と思考の間の相違のいかようなものであるかを認めることができよう、またそのことからわたしたちは認識と思考との間の相違のいかようなものであるかも知ることができよう。

 

 

 

天界の秘義1919[3]

 

主の認識はエホバから直接発しており、かくて神的善から発していたのである、しかし主の思考は、前に言ったように(1904、1914番)、知的な真理とその真理の情愛から発していたのである。主の神的な認識はいかような観念によっても把握されることは出来ない、天使たちのそれによってさえ把握されることはできない、それでそれは記すことはできない。(1384番などに、1394、1395番に述べられた)天使たちの認識は主が持たれた認識に比較すればほとんどいかようなものでもない。主の認識は、神的なものであったため、諸天界のあらゆるものを認識するものであり、それでそれはまた地上の凡ゆるものを認識するものであった、なぜなら前のものを認識する者はまた後のものを認識するように秩序づけられ、関連づけられ、また流入しているからである。

 

 

 

天界の秘義1919[4]

 

しかし主の人間的な本質がその神的な本質に結合されると同時に、エホバとなってしまった後では、主はそのときは諸天界の中に存在し、そこから地上に存在している秩序の上方におられたため、認識と呼ばれるものの上方にもおられたのである。秩序の根源[源泉]であられるものはエホバであり、かくてエホバは秩序そのものであられると言うことができよう、なぜならエホバはエホバ御自身から秩序を統べ治められるからである、それは一般に考えられているように全般的にのみ統べ治められるのではなく、単一なものそれ自身をも統べ治められているのである、なぜなら全般的なものはこの単一なものから発しているからである。全般的なもののことを語って、それを単一なものから分離することは、その中に部分が何ら存在していない一つの全体のものを語り、それでその内には何物も存在していない何ものかを語るということ以外の何ものでもないであろう、それで主の摂理は全般的なものであって、単一なものそのものの摂理ではないと言うことは、全く誤ったことを言うことであって、ens rationis(すなわち、想像の作りごと)と呼ばれるものである。なぜなら全般的なものを供え、またその全般的なものを統べ治めはするが、個別的なものは供えはしないし、またそれを統べ治めはしないことは絶対に何ものをも供えないし、また何ものをも治めないことであるからである。これは哲学的に真であるが、しかも驚くべきことには、、哲学者自身は、そのいとも高く天がけている者すらも、そのことをそのようには把握しておらず、またそのように考えてもいないのである。

 

 

 

天界の秘義2515

 

「かれに言われた」(創世記20・3)。

 

これはそこから発した、すなわち、認識から発した思考を意味していることは、『言うこと』の意義から明白であって、それは認識することであり、また(2506番に示されたように)考えることである。認識から発した思考があったとここに言われているため、思考はいかようになっているかを簡単に述べた方がよいであろう。認識から発している思考があり、良心から発している思考があり、何ら良心がない状態から発している思考がある。認識から発している思考は天的な者たちのもとにのみ、すなわち、主に対する愛の中にいる者たちのもとにのみ存在しており、こうした思考は人間のもとに存在している最も内なるものであり、それは天界における天的な天使たちのもとに存在している。なぜならそれは主から発している認識であって、それによりまたそこからかれらの思考は存在しており、認識に反して考えることは不可能となっているからである。良心から発した思考はそれよりは低いものであって、霊的な者たちのもとに、すなわち、生命[生活]と教義との方面で仁慈と信仰との善の中にいる者たちのもとに存在している。さらにこれらの人々にとっても良心に反して考えることは不可能となっている、なぜならそれはかれらに良心を通して主から口授される善と真理とに反抗して考えることになるからである。

 

 

 

天界の秘義2515[2]

 

しかし何ら良心をもたない状態から発した思考は自分自身が善い真のものにより内的に導かれることに甘んじないで、たんに悪い誤ったもののみによって、すなわち、主によらないで、自分自身によって導かれることに甘んじている者のもとに存在している。こうした人物は自分は良心と認識から考えている者たちと全く同じように内的に考えていると信じてはいるが、それはかれらは良心とは何であるかを知ってはおらず、ましてや認識とは何であるかを知ってはいないという理由によっているが、しかしその相違は地獄と天界との相違のようにも大きなものである。良心なしに考える者は何であれ何らかの欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えており、それがそのように見えないときは、それは名声を得るための外なる体裁から考えているのである。しかし良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えているのである。しかし主の思考については、それは人間の理解をことごとく超絶していたのである、なぜならそれは神的なものから直接発していたからである。

 

 

 

天界の秘義2552

 

認識はさらに高いものであり、主はそれを神的なものそれ自身から持たれたのである、それに反し思考は低いものであって、主はそれを知的なものそれ自身からもたれたのである、そして主が思考を得られた源泉は認識であったように思考の答えも認識から発していたのである。このことは人間における類似のものから説明することができよう。天的な人間は認識から考えなくては考えることはできないのであり、また霊的な人間は良心から考えなくては考えることはできないのである(2515番)。前の者の認識は(後の者の)良心のように主から発しており、それが何処から発生しているかはその人間自身には明らかではないが、しかし人間の思考は合理的なものから発していて、かれにはかれ自身から発しているように見えるのである。それでさらに、人間が合理的なものから何らかの主題について考えていると、そのときはその思考の結論は、または、答えは、認識か、良心か、その何れかから発しているのであり、従って答えは主により人間にその生命の状態に順応して、その情愛に順応して、またそれに一致して植えつけられ、印刻されている教義の真理に順応して与えられるのである。

 

 

 

天界の秘義2553

 

人間の思考はことごとく、かれの感覚に関連している自然的なものの中に終結しているのである。何であれこれらの自然的な物からまたその自然的な物に応じて言われないものはことごとく把握されはしないで、大洋または宇宙に何らの限界を持たない視覚のように死滅してしまうのであり、それでもし教義的なものが人間の前にそれ以外の何らかの方法で提示されるなら、それらは些かも受け入れられはしないで、かくてそれらのものに対し如何ような尊敬も払われないのであり、そのことは聖言における凡ゆるものからも極めて明白となるであろう。なぜならそこではそうした理由そのものから純粋に神的なものそれ自身も自然的に、いな、感覚的に提示されているからである。例えばエホバは耳を、目を、顔をもたれている。かれは人間のように怒りといった感情を持たれている、と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義2553[2]

 

この必要は主が世に来られた時はさらに大きかったのである。なぜならそのときは人々は天的なものと霊的なものは何であるかさえも知らなかったし、また内なるものが在ることすらも知らなかったからである。たんに地的な、世的な、かくて外なる物がかれらの心を完全に占めていたのであり、それが使徒たち自身の実体でもあって、かれらは主の王国はこの世の王国に似ていると想像し、それで一人が主の右手に、他の一人がその左手に坐るようにと求めもし、自分たちは十二の王座に坐ってイスラエルの十二の種族を審判くであろうと長らく考えていたのであって、未だ、自分たちは他生では一人の人間の最小の物をすらも審判く能力も持ってはいないことを知りはしなかったのである(2129番の終り)。主が人類のこの状態を凝視されたことが主が最初に信仰の教義の中では合理的なものに諮らなくてはならないかと考えられた理由であったのであり、しかもそれは、主の愛から、すなわち、凡ての者の救いに対してその必要なものが供えられて、聖言が死滅しないようにという主の愛から発していたのである。

 

 

 

4.思考からは認識は実際には与えられはしない

 

 

天界の秘義5228

 

霊的な認識の何であるかは、現今では全く知られてはいないのであり、知られていないものは、それがいかほど説明されても把握されないからである。なぜなら、認識は人間のもとにいる天使たちの言葉または思考以外の何ものでもないからである。この言葉、または思考が流れ入ると、それは事柄がそうしたものであるか、またはそうしたものでないかという認識となるが、しかし、それはただ愛の、また仁慈の善の中にいる者たちのもとにのみそうしたものとなるのである。なぜならそれは善を通して流れ入るからである。これらの者のもとでは、この認識は思考を生み出している。なぜなら、かれらにとっては認識されるものは思考の全般的なものであるからである。それで思考からは認識は実際には与えられはしないのであり、ただ外観的にのみ与えられているにすぎない。

 

 

 

5.思考は内部へ浸透するに応じて、益々それ自身を記憶知から遠ざける

 

 

天界の秘義5874

 

それは最も外なるもの[究極的なもの]であることは、何らかの真理を探求しているさい、己が思考を反省する者には明らかである、すなわち、そのときは記憶知はそこに現存はしているが、明らかではないのである、なぜなら思考はそのときその記憶知の内に含まれているものを摘出し(しかもその摘出はここかしこと散在し、また深くかくれてさえもしている非常に多くのものから行われるのである)、かくて結論を形作り、そして思考は内部へ浸透するに応じて、益々それ自身を記憶知から遠ざけるからである。これは以下の事実から明らかとなるであろう、すなわち人間が他生に入って、霊となるときは、実際かれは記憶知は持ってはいるが、幾多の理由からそれを用いることは許されていないのであり(2476、2477、2479番)、しかもかれは真理と善とについては世にいたときよりもさらに明確に、また完全に考え、話すのである。このことから以下のことを認めることができよう、すなわち、記憶知は人間に理解を形作るためにや役立つが、しかし理解が形作られると、そのときは最も外なる面を構成し、その面の中ではその人間はもはや考えはしないで、それを超越して考えるのである。

 

 

 

6.思考は歓喜を離れては存在しない

 

 

神の摂理199

 

明らかに人間の思考を支配するものはこれらの歓喜であり、思考は歓喜を離れては存在しない、しかも思考は思考以外の何ものではないように彼に見えるが、事実は思考は情愛が光の中に示されるようにその情愛が彼の生命の愛により形に構成されたもの以外の何ものでもないのである。なぜなら情愛は凡て熱の中にあり、思考は光の中にあるから。

 

 

 

 

7.思考は意志から生まれる

 

 

天界と地獄499

 

思考のことを言う時、意志もまた意味されている、なぜなら誰も意志が無いなら考えることは出来ないため、思考は意志から生まれるからである。

 

 

 

 

8.思考は意志の形以外のものではない

 

 

天界と地獄500

 

思考は意志の形以外のものではなく、また人間の欲するものが光の中に現れる手段となるもの以外のものではないからである。