真理の誤謬化

異端

第6戒:なんじ、姦淫するなかれ

 

天界の秘義2385[]

 

何であれ原理はことごとく、誤謬そのものでさえも、一度取り上げられるとなると、それは無数の事柄により確認されて、その外なる形でも恰も真理そのものであるかのように、示されることが出来ることはたれでも知ることが出来よう。ここから異端が発しており、それが一度確認されると、その人間はそこから決して後退はしないのである。それでも誤った原理からは誤謬以外には何ものも流れ出ることは出来ないのであり真理がその間に混入しているにしても、それは誤った原理を確認するために用いられる時、誤謬化された真理となるのである、なぜならその真理は誤った原理の本質により汚されるからである。

 

 

天界の秘義7317

 

パロにより特定的にたれが表象されているかを、即ち、とりついて悩ます者らにより特定的にたれが意味されているかを認めることが出来よう、即ち、教会の中にいて信仰を告白し、また自分自身に信仰は救うと説きつけはしたものの、信仰の教えに反した生活を送った者が、約言すると、説得された信仰をもって、悪い生活を送った者らが意味されていることを認めることが出来よう。

 

 

天界の秘義7317〔2〕

 

 これらの者は他生に入ってくると、自分たちは教会の中で生まれ、洗礼を受け、聖言を持っており、また聖言から発した教義を持っていて、それを告白もしているため、特に主を告白しているため、また主は自分たちの罪のために苦しまれて、教会の中で教義から主を告白した者たちを救われたため、自分たちは当然天界の中へ入れられるという主義を携えて来るのである。こうした人物は世から他生へ新たに入ってくると、信仰と仁慈との生活については何事も知ろうとはしないで、それを取るに足らぬものとし、自分たちは信仰を持っているため、生命の悪は凡て小羊の血により拭い取られ、洗い去られていると言うのである。そうした事柄はマタイ伝の主の御言葉に反しており、そこには主は『その日多くの者はわたしに向かって、主よ、主よ、わたしらはあなたの御名を通して予言したではありませんか、あなたの御名を通して悪魔を追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの力ある行為を行ったではありませんか、と言うであろう、しかしその時わたしは告白しよう、わたしはおまえたちを知らない、不法を行う者らよ、わたしを離れよ、と。凡てわたしの言葉を聞いて、行う者をわたしは思慮深い人間に譬えよう、が、わたしの言葉を聞くが、行わない者は愚かな人間に譬えよう』(マタイ7・22−26)と言われており、またルカ伝には、『その時お前らは外に立ち、戸を叩きはじめて、主よ、主よ、わたしらに開いてください、と言うであろう。

 

 

 

天界の秘義7317〔3〕

 

 それでも彼らは、信仰の生活を送っている者以外には、かくて隣人に仁慈を抱いている者以外には何人も天界には入れられはしないことをしばらくすると知り始め、そしてそのことを知り始めると、己が信仰そのものをも軽蔑し始めるのである、なぜなら彼らの信仰は信仰ではなく、単に信仰に属した事柄を知っている知識に過ぎず、それも生活〔生命〕のためのものではなくて、利得と名誉を得るためのものであったからである。従って彼らは信仰の知識についてその持っていたものをその時軽蔑し、また斥けもし、やがて信仰の諸真理に反した誤謬の中へ自分自身を投げ込むのである。こうした状態に、信仰を告白はしたものの、信仰に反した生活を送った者らの生命は変化するのである。これらの者が他生で誤謬により正しい者にとりついて、これを悩ます者らであり、かくて『パロ』により特定的に意味されている者らである。

 

 

 

天界の秘義7318

 

「川にいる魚は死ぬであろう」。これは、真理の記憶知は消滅してしまうであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『魚』の意義は記憶知であり(40,991番を参照)、ここでは真理の記憶知であり―なぜならその魚は血に変った水の中にいるため、死ぬと言われ、そのことによりそれは誤謬化を通して消滅するであろうということが意味されているから―『死ぬこと』の意義は消滅することである。真理の誤謬化とは何であるかを若干の例により説明しよう。何人も自分自身からは善いことを行うことは出来ないため、それで救いには善は些かも寄与はしないと、幾多の理論から結論づけられもし、また言われもすると、真理は誤謬化されるのである。人間の為す一切の善は自分自身を顧み、また報酬のために行われており、それで仁慈の業は行ってはならないと言われる時、真理はまた誤謬化されるのである。善は凡て主から発しているため、人間は善いことは何一つ行ってはならず、ただ流入を待たなくてはならないと言われる時、真理は誤謬化されるのである。真理は仁慈に属した善が無くても人間の中に存在することが出来る、かくて信仰は仁慈が無くても存在することが出来ると言われる時、真理は誤謬化されるのである。悲惨で貧しい者を除いてはたれ一人天界に入ることは出来ないと言われる時、また人間はその持っているものを凡て貧しい者に与えて、自分自身を悲惨な目に会わさなくては、天界に入ることは出来ないと言われる時、真理は誤謬化されるのである。

 

 

 

天界の秘義7318〔2〕

 

 たれでも、いかような生活を送ろうとも、慈悲から天界へ入れられることが出来ると言われる時、真理は誤謬化されるのである。人間にはその欲する者をたれでも天界へ入れる権能が与えられていると言われる時、真理は更に誤謬化されるのである。罪は汚れが水によって拭われ、洗い去られるようにも拭われ、洗い去られもすると言われる時、真理は誤謬化されるが、人間は罪を赦す権能を持っており、それが赦されると、それは全く拭い去られて、その人間は純潔になると言われる時は、真理は更に誤謬化されるのである。主は御自身に凡ゆる罪を負われて、それを取り去られたため、人間は、その生活〔生命〕はいかようなものであろうと、救われることが出来ると言われる時、真理は誤謬化されるのである。教会の中にいる者を除いては、何人も救われはしない、と言われる時、真理は誤謬化されるのである。こうした誤謬化を生み出す幾多の理論は、教会の中にいる者らは洗礼を受けており、聖言を持っており、主について、復活、永遠の生命、天界、地獄について知っており、それで自分たちは自分たちを義とすることの出来る信仰の何であるかを知っているということである。こうしたものが無数に存在しているのである、なぜならいかような真理でも誤謬化されることの出来ないものは一つとして無く、その誤謬化は妄想から発した幾多の理論により確認されるからである。

 

 

 

天界の秘義7319

 

「そして川は悪臭を発するであろう」。これはそれに対する嫌悪を意味していることは以下から明白である、即ち、『悪臭を発すること』の意義は嫌悪であり(7161番を参照)、『川』の、ここでは血に変ったエジプトの川の意義は誤謬化された真理である。他生では誤謬化された真理以上に忌まわしいものはなく、従ってそれ以上に悪臭を発するものはないのであり、それは生肉が死ぬと立ち昇ってくる死体の悪臭に似ていることを知られたい。なぜなら誤謬は、それが真理に適用されない限り悪臭を立てはしないのであり、悪も、それが善に適用されない限り悪臭を立てはしないからであり、各々のものの性質は、そのもの自身からは知覚されはしないで、その対立したものから知覚されるのであり、そのことから冒涜された真理の悪臭のいかに甚だしいものであるかを認めることが出来るのである。冒涜された真理とは真理に連結した誤謬であるが、誤謬化された真理とは、真理に連結はしていないで、真理に接合し、真理を支配している誤謬である。

 

 

 

天界の秘義7320

 

「エジプト人はその川から水を飲むのに苦しむであろう」。これは、彼らはそれについては殆ど何事も知ろうとは欲しないであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『エジプト人』の意義は真理を誤謬化する者らであり、『飲むこと』の意義は真理を教えられることであり(3069、3772、4017、4018番を参照)、ここから『飲むのに苦しむ』は教えられようとは欲しないことであり、かくて殆ど何事も知ろうとは欲しないことであり、即ち、真理について何事も知ろうとは欲しないことであり、『その川の水』の意義は誤謬であり(それについては前の7307番を参照)、ここでは誤謬化された真理である。この凡てから、『エジプト人はその川から水を飲むのに苦しむこと』により、妄想から誤謬の中にいる者らは真理については殆ど何事も知ろうとはしないことが意味され、かくて彼らはそれに対し嫌悪を抱くことが意味されていることが明白である。その嫌悪の原因は、真理は誤謬によって歪められた時も依然秘かに、また黙しつつも、戦っており、誤謬を払い落そうと努めており、そこから不安を与えるということである、なぜならもしその誤謬が、彼らの信仰と共に、少しでも遠ざけられるなら、真理は彼らを断罪するからである。

 

 

 

天界の秘義7326

 

「それらは血となるであろう」。これは、彼らが諸真理を誤謬化するであろう、を意味していることは、『血』の意義から明白であり、それは真理の誤謬化である(7317番を参照)。『血』はその純粋な意義では愛の聖いものを意味し、かくて仁慈と信仰とを意味している、なぜなら仁慈と信仰とは愛の聖いものであるからである。かくて『血』は主から発出している聖い真理を意味しているのである(1001、4735、6978番を参照)。しかしその対立した意義では『血』は仁慈に対し、また信仰に対し、かくて主から発出している聖い真理に対し加えられた暴行を意味しており、真理が誤謬化される時、真理に暴行が加えられるため、『血』により真理の誤謬化が意味され、更に大きな度では、『血』により真理の冒涜が意味されているのである。そのことは血を食べることにより意味されたため、血を食べることはその理由から極めて厳しく禁じられたのである(1003番)。

 

 

 

天界の秘義7327

 

「エジプトの全地に血があるであろう」。これは凡てのものを誤謬化することを意味していることは以下から明白である、即ち、『血』の意義は真理の誤謬化であり(そのことについては、すぐ前の7326番を参照)、『エジプトの全地に』の意義は、凡ゆる所に、であり、かくて凡てのものである。誤謬が支配し始める時、誤謬化は凡てのものに及ぶものとなるのである、なぜならその時はその人間は持って生まれたところの、また生後取得したところの悪に従って生き、そこに歓喜を感じるからである。そして信仰の諸真理はそうした事柄を禁じるため、彼はその時そうした真理を嫌悪するのであり、それをそのように嫌悪すると、真理をそれが存在している至る所で自分自身から斥けてしまい、もし斥けることが出来ないなら、それを誤謬化してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義7332

 

「川にあった水はすべて血に変った」。これは、その結果真理が凡て誤謬化されたことを意味していることは以下から明白である、『川にあった水』の意義は誤謬であり(そのことについては前の7307番を参照)、『血』の意義は真理の誤謬化〔真理を誤謬化すること〕である(そのことについてもまた7317、7326番を参照)。他生で誤謬の中におり、とりついて悩ます者らが真理を誤謬化することが許されている理由は、彼らが信仰に属した真理を通して天界にいる者たちと交流し、しかも生命〔生活〕に属した悪を通して地獄にいる者らとも交流し、そこから真理を通して天界から若干の光を得、かくして若干の理知を得、それを生命に属した悪に仕えさせることを防ぐためであり―なぜなら彼らは理知に属したものを悪に利用し、かくてその中に在る天界の物を地獄の物に従わせてしまうからである―また彼らが真理を通して単純で正しい霊たちと交流して、その霊たちをたぶらかしてしまうことを防ぐためでもあるのである。更に他生にいて、そのもとでは真理が未だ誤謬化されていない悪い者らはその真理を手段として主権を得る方法を知っているのである、なぜなら真理にはそれに反抗することが出来ない力が在るからである(3091、6344、6423、6948番)。かくて彼らはまた真理を濫用もするのである。更に悪い者のもとでは真理はその生活の改善には些かの効果も持ちはしないのであり、彼らは単にそれを悪を為す手段として用いるに過ぎず、そのように用いることが出来ないなら、真理に冷罵を浴せかけるのである。彼らは、教義に真理が自分に利得をもたらすものとされない限り、これを冷笑する悪い教職連のようなものである。これらが悪い者らが自分に属した真理を誤謬化することを許されている理由である。

 

 

 

天界の秘義7344

 

真理は単なる誤謬のみによっては誤謬に適用されることは出来ないことは、真理と誤謬とは絶対的に対立したものであり、対立したものは(その両方のものを)連結させる媒介的なものが無くては適用されることが出来ないためである。連結させる媒介的なものは外なる感覚の妄想であり、また聖言の中に外観に従って言われている事柄である。例として、善いもの以外には何ものも主から発しはしない、悪いものは一つとして決して(主からは)発しないことを考えられたい、この真理は、主はその全能により、もし欲しられるなら悪を取り去られることが出来る、が、主はそれを取り去られはしないため、それで主は悪の原因である、かくて悪もまた主から発しているという妄想により誤謬化され、また聖言に外観に応じて、主は怒られ、罰せられ、罪に定め、地獄に投げ込まれると言われていることにより誤謬化されるが、しかしそのことを自分自身に為し、そのことによって自分自身に刑罰の悪をもたらす者は悪にいる者らである、なぜなら他生では刑罰の悪と罪の悪とは連結しているからである。他の無数の場合は同じである。

 

 

 

天界の秘義7950〔3〕

 

 それで生命〔生活〕の方面で悪の中にいる者はその悪の誤謬の中におり、真理をいかほど良く知っているにしても、それを信じはしないのである。彼は時としては自分は信じていると考えはするが、しかし誤っているのである。彼が信じていないことは他生で、その認めることがその欲する〔意志する〕ことに一致するようになる時、彼に知ることが許されるであろう。その時彼は真理を否認し、嫌悪し、斥け、(真理に)反したことを、即ち、誤謬を真理として承認するのである。それでここから仁慈から分離した信仰にいる者らは信仰の諸真理を誤謬化しないわけにはいかないのである。