捧げる

犠牲苦しみを捧げる

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2009.10/5号/P58

 

 魂とイエズスとの間で交わされた対話の中でイエズスは尋ねます。「あなたは私の杯を飲めますか?」そして魂は答えます。「はい、飲めます。私は主のようになりたいのですから。麦の粒は死ななければ、実を結ぶことがないことを理解しましたから。十字架に架けられるときのみ、魂は神に引き付けられることを理解しましたから。そしてとりわけ、あなたの渇きは愛のほかどんな飲み物も潤すことのできない渇きであることを理解しましたから」。

 

 神に身を捧げるとは、したがって、苦しみに身を捧げるということです。

 しかしキリストのために、キリストと共に耐えるのは苦しみなのでしょうか? いいえ、それは喜び、とても深く、限りのない喜びなのです。とても長い年月、あらゆる苦しみが押し寄せてきましたから、私ははっきりとそう言うことができます!

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P47

 

 正義をもって裁き、戦う諸王の誠実真実、また、とその手下と預言者たちの征服者となるこのあなたたちのイエズスの『声』であるあなたたちを見分け、あなたたちのを見分け、いつもそれに従いなさい。どんな偽りの外見もあなたたちを誘惑せず、どんな迫害もあなたたちを打ち倒さないように。あなたたちの『声』がわたしの言葉を語るように。あなたたちの生活はこのわざに捧げられるように。

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P78

 

わたしの子供たちが、わたしに導かれ、教えられるために、信頼をこめてその手をわたしの手に預け、『万事に超えて、またわたし自身のすべてを捧げてあなたを愛します!』と、わたしに言うのは何と難しいことか。何のためらいも無く心の底からこのようにすべて『わたしのもの』である僅かな子たちに、わたしは啓示の、また凝視の財宝を開き、何のためらいも無く、心の底からわたしを与える。

 

 

増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館

マリア・ヴァルトルタ/『私に啓示された福音』第3巻中/天使館

1945年6月28日

 

『あなたの王国が天にあるように地に来ますように』。

 この到来をあなたたちの全努力を払って熱望しなさい。もしそれが来るならば、地球は喜びに包まれるでしょう。人びとの心の中の、家族の中の、市民たちの間の、国々の間の神の王国。この王国のために、苦しみ、労苦し、身を捧げなさい。地球は、そこに住む個々の人びとのうちに天の生命が反映する鏡であるように。来るでしょう。いつかこのすべては来るでしょう。わたしの教会―もし船であるなら、沈没することなく、あらゆる波涛にも磐石の岩でもあり、光を、わたしの光、神の光を高く掲げるであろう―わたしの教会の涙と血の、誤りの、迫害の、神秘的灯台から放射する光の飛沫により目がかすむ濃霧の幾星霜は、地球が神の王国を所有するであろう時に、先立つでしょう。そしてその時、永遠の庭園の途方もなく大きい花は、存在の完全さに達した一天体の強烈な炎のようになり、赤くキラキラ輝く鼓動を打ちながら最後の息を引き取るために、その存在と愛を創造主の足元で解体するでしょう。しかし来るものは来るでしょう。そしてその後、天の完全な、至福の、永遠の王国になるでしょう。

 

 

主の祈り/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館/

1943年7月7日

 

御国の来たらんことを

 

この祈願は、あなたたちの全生涯を振り子のように揺り動かす鼓吹とならなければならない。また、全てのことが善なる御者へのこの祈りを中心にまわるようにしなければならない。心の中にある神の国、また心から世へと伝わってゆく神の国とは、善、平和、そして、その他のあらゆる徳を意味していると言ってもよい。従って、神の国の到来のために、数え切れないほどの祈りで、あなたたちの人生を力づけなさい。

 しかし、その祈願は生き生きとしたものでなければならない。つまり、いつも己れ自身を生贄として捧げることにより、生涯を生きるようにしなければならない。よく生きることは、この目標のために本能を犠牲にすることを意味しているのだ。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P151

 

 同じ日の12月5日、朝8時、イエズスは言われる。「愛する人よ、辛抱してください。貴女と話さずにいることがわたしにはできない。わたしを愛してくれる者と語るのは、わたしの悦楽、わたしの希求、あなたたちを愛するわたしの心臓の必要なのだから。

 

 貴女は、心から愛し合っている新婚夫婦がどうするか見たことがあるか? 妻は家にいて始終時計を見、いつ彼が仕事から帰って来るかと落ち着かず、窓辺に駆け寄り、時の過ぎ行くのを待っている。夫は、辛うじて時間がとれるや、妻に愛の言葉を囁くためにオフィスを飛び出す。妻を残して家を出たばかりなのに、彼女を幸せにするあの言葉この言葉を言わなかったことを思い出して、仕事から解放されるやいなやそれを言うために妻のもとに馳せ参ずる。彼らに拍車をかけるのは愛なのだ。

 

 わたしも、語り終えるやいなやもう貴女に言うべき別の事を感じる。昼も夜も休む間もなく貴女と語りたいし、貴女の全部をわたしのものにしたいし、あなたがそのすべてをわたしに捧げてくれたらと願う。わたしがどんなに貴女を愛しているかを貴女が知ったら!

 

 今聞きなさい。数年前、わたしのしもべ福者コンタルド・フェッリーニの書いたものを読みながら、貴女は幾度となく自問していた―なぜなら神秘主義についてあなたは無知だったから―『での対話』とは何か、と。

 

 それはこういうことだ。貴女はわたしの言葉に耳傾け、わたしは貴女に語る時、祈りを表面上つぶやいている時、わたしは貴女を啓示の火の中に拉致し、わたしのものにし、貴女がわたしに『イエズス、来て、あなたの婢に語ってください』と言う時、貴女が、地球上の貧しい人々と渇いている人々に与えるために、金庫の中、水がめの中のように、貴女の内に預けてあるわたしの言葉の味を味わう時、その時、わたしたちは天での対話をしているのだ。