犠牲

 

苦しみ

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

2.マザー・テレサ

3.ルイザ・ピッカレータ

4.トマス・ア・ケンピス

5.サンダー・シング・・・ヒマラヤの母鳥

6.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2009.10/5号/P56

 

 私はその奉献において神に何人かの魂を、特に私の両親とマリオの魂を神へと連れて行くという喜びを与えて欲しいと願いました。

 しかしここでも、要望それ自体は良いものであっても、手段が間違っていました。私はまだ、祈りは重要ですが、でも犠牲がすべてであるということを知りませんでした。言葉は効果があります。しかし、犠牲を覆う沈黙は千倍のことをなします。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2009.10/5号/P56

 

 私はいつも口に猿轡をはめられているような感じがします・・・私はできるだけ話さないようにしています―というより、むしろ、愛の力が本当は話したいという渇望を与える時でさえ、宗教的な事柄はできるだけ話さないようにしていました。

(中略)

 1923年と1924年のかなりの部分はこのように過ぎました。家族内では非妥協と専制だけがありました。しかし私は神に逃避していました・・・。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2009.10/5号/P58

 

 魂とイエズスとの間で交わされた対話の中でイエズスは尋ねます。「あなたは私の杯を飲めますか?」そして魂は答えます。「はい、飲めます。私は主のようになりたいのですから。麦の粒は死ななければ、実を結ぶことがないことを理解しましたから。十字架に架けられるときのみ、魂は神に引き付けられることを理解しましたから。そしてとりわけ、あなたの渇きは愛のほかどんな飲み物も潤すことのできない渇きであることを理解しましたから」。

 神に身を捧げるとは、したがって、苦しみに身を捧げるということです。

 しかしキリストのために、キリストと共に耐えるのは苦しみなのでしょうか? いいえ、それは喜び、とても深く、限りのない喜びなのです。とても長い年月、あらゆる苦しみが押し寄せてきましたから、私ははっきりとそう言うことができます!

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P132

 

専制君主の誰一人肉と悪魔以上の専制君主はいない。また、肉と悪魔に勝つことを知り、肉を霊にし、悪魔を敗者にする人々は『勝利者たち』である。

 

 だがそうであるためには自己を全面的にに委ねなければならない。全面的に、即ち全力を尽くして愛する人は、自分自身のためには何ひとつ取っておかず、自分自身のために何一つ取っておかないことによって肉のためにも悪魔のためにも何ひとつ取っておかない。彼はすべてを彼のに与え、を愛する人にすべてを与える。

 

 

マリア・ワルトルタ22・13/天使館P182

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

 わたしはマリアと呼ばれていました。その一つの意味である苦さは、いつも、神がわたしの心に流しておられる甘美さに混じっていました。そしてそれは、わが子の死に至るまで常に増大していきました。でも、マリアよ、神がその栄光のために犠牲としてわたしたちを召し出されるとき、おお! わたしたちの苦しみを、弱者を活気づけ彼らを天に辿り着かせることができるパンとなすために、挽き臼の中の小麦のように砕かれる幸せはいかばかりでしょう!

さあ、今はもうこれでたくさん。あなたは疲れているけれど幸いな人。わたしの祝福を受けてお休みなさい。

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩.P55

 

「それなら私は“全く”神さまを愛しましょう。おお、美しい小さな雀、・・・私はお前に似ている。神さまは、私たちを救うことによって同じように愛された・・・今から私は、あなたを養う。後で放して、お前は森の中に、私は神殿の中に神の賛美を歌って言おう。『待っている人々にあなたの“約束したもの”を送ってください』と、おお、父さま、いつ私を神殿に連れて行くの?」

「私の真珠よ、近いうちに。しかし、お前はお父さんから離れるのが辛くないのか?」

「ああ、辛いです!でも父さまは時々いらっしゃるでしょう・・・。それに痛まないなら、何の犠牲でしょう?」

「それなら、私たちのことを思い出してくれるだろうか」

「いつも。エンマヌエルのための祈りの次に、あなた方のために祈るつもりです。神さまが、あなたがたに喜びと長い長い命を与えて後、救い主となるお方が、あなたがたを天のエルサレムへ運んでくださるまで」

 小さなマリアが、父親の腕の中に抱かれたままヴィジョンが終わる。

 

2.マザー・テレサ

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P306

 

パルシー教徒と結婚したヒンズー教の女性がやって来て、3歳になる口の利けない自分の息子のために私の祝福を求めました。私は彼女に尋ねました。「何か、あなたにとってとても捨て難い大事なものがありますか?」その子の母親は答えました。「ええ、噛みタバコです。それはもう私にとって、やめることのできない習慣となっています」「それを、あなたの犠牲として神にささげなさい。そして、あなたの子どもの回復を祈りなさい」と私は言いました。彼女はそのとおりにし、それから3か月後、その子は話し始めて、徐々に全く問題のない状態になりました。

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P60

 

「石灰が、その中に混ぜられた物体を焼く力をもっているように、苦行は、霊魂の中に認められるすべての不完全と欠点を焼く効能を有している。それは身体を霊化するほどにまで達して、全ての徳を霊魂の中に封印するために、そのまわりに円のように自分を置く。犠牲が霊魂を、不完全がなくなるまでよく焼かないうちは、あなたの中に私の十字架の刻印を完全にしるすことはできない。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P61

 

「犠牲は霊魂の呼吸とならなければならない。身体にとって呼吸することは必要である。良い空気か、あるいは悪い空気を吸うことによって、身体が浄化されるか汚染されるかが決まってくる。さらに呼吸の仕方から、その身体は健康であるか、その人の内部は病んでいるか、または身体の全ての器官がよく働いているか否かを判断する。霊魂が、もし犠牲の空気を吸っているなら、その人の中の全ては浄化され、その感覚は調和のとれた響きを出す。彼女の内部からは、芳香ある、健康で強い息が吐き出される。しかしもし霊魂が、犠牲の空気を吸わないなら、すべては均衡をなくし、霊魂は悪臭のある、吐き気をもよおすような息を吐くだろう。もし一つの情熱を抑えても、他のものが破裂して、子供の遊びのような生きかたになるに違いない。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P64

 

「娘よ、清さの賜物とは自然的な賜物ではなく、達成によって得られる恩恵である。それは自身をこころよい者とすることによって得ることができる。霊魂は、犠牲と苦しみによって自分をそうするのである。苦しんで自分を犠牲とする霊魂は、なんと自分を好感のもてる者とすることだろう! それはなんと美しいことだろう! 私はこのような霊魂にたいしては、気が狂うほどの好感を覚えるので、彼女が欲しいものは何でも与えてしまう。あなたは私が居ないとき、私への愛のためにそれを苦しむ。これはあなたにとってもっとも痛ましい苦しみなので、私は前よりももっとあなたに愛情を感じ、新しい賜物をあなたに施すのである。」

 

 

4.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/4・17・2

 

 そして私はたといこれらの敬虔な感情をすべては抱くに足らない者でありましても、それでもなお、ちょうど私だけ、み意(こころ)に適う熱烈なこれらの望みをことごとく有しているかのように、私の心の愛情を全部主におささげいたします。

 そうです、およそ敬虔な心の人が考え望み得るところは、なんでも私はこれをことごとく、この上ない崇敬と心からの愛情をもって、主に呈し、主に献げるのであります。

 私は自分のために何一つ残しておこうとは思いません。かえって喜び勇み、自ら進んで、自分をも、自分のすべてのものを、主に犠牲(にえ)としておささげいたします。

 

 

 

 

5.サンダー・シング

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P292

 

3.1921年、ヒマラヤの鬱蒼とした森で山火事が起こった。ほとんどの者が消火に駆け回る中、何人かの男たちが、一本の木に見入っているのに、わたしは気がついた。「何をみているのか」とたずねると、彼らは木の上にかかった雛鳥でいっぱいの巣を指さした。すでに枝には火が燃え広がっている。上では、一羽の鳥が途方に暮れて、激しく飛び回っていた。「あの巣を助けたいのだが、火のために近づけないのだ」と彼らはいった。みていると、二、三分で火は巣に燃え広がった。わたしは「これで母鳥も飛び去ってしまうだろう」と思ったが、そうではなかった。何と、母親は火の中を舞い降りるや、子供たちの上に羽を押し広げた。わずか二、三分ののちには雛と一緒に焼き尽くされ、灰と化していた。このような光景を、わたしはかつて一度もみたことがなかった。わたしはそばに立っている人たちにいった。「このような愛には驚くばかりですが、考えてみていただきたい。こんな小さな生き物にもこれほど大きな愛があるのなら、そのような無私なる性質をお造りになった神の愛は、どれほど大きなことか。自らの命を投げ出すことによって罪の中に滅びつつあるわれわれを救うため、この同じ愛がキリストを天から下らせ、人とならしめたのです」

 

 

 

 

6.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P166

‘88・3・23

 

娘よ 私のもとに来て ひざまずいて書くのに疲れてしまわないように、私は救い主 ♡ あなたの連れ合い、私はすべてを分かち合っている、来て、慰めてもらいたい、疲れ果てた、

 

ああ おいで下さい、主よ! イエスは疲れているご様子で、その大きな肩は少しかがみ、悲しそうでいらっしゃいます。私も同じ気持ちです、主をお喜ばせしたい、今主の訴えをパパさまがお受け取り下さるよう、毎日祈っています。25日金曜日までにイエスのメッセージを受け取られるかもしれないと希望しているのですが。

 

私の現存を覚えていてくれるか ヴァッスーラ?

 

はい、主イエスよ、そうします。 ♡ 「私たち」!

 

あなたに平安 霊魂よ。 疲れた、愛と素朴さが欠けているのを見て 疲れ果てた、彼らの間に愛が欠けているなら 私にとって儀式や犠牲は何の役に立つか? 花よ、私の素足の弟子たち以上に大きな喜びがあろうか? 手には仔羊を導く杖しか持たないで! 素朴さが好きだ、素朴さと貧しさは私を夢中にさせる、真の弟子たちは素足だったが、しかし霊は富んでいた ♡ ヴァッスーラ 勇気を、私は磔にされている、私自身の者たちが十字架につけて、私たちはこの十字架を分かち合っている、私とあなた、あなたと私で。愛は苦しむ・・・