良心の呵責

 

不安試練

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義847[2]

 

試練には多くの種類のものが在り、それらは全般的には天的なものと霊的なものとであって、これらは決して混同されてはならない。天的な試練は主に対する愛の中にいる者にのみ在りうるのであり、霊的なものは隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ在りうるのである。自然的な試練は全くこれらのものとは異なっており、実際は試練ではなくて、自然的な愛が不幸、病気により、または身体の血液と他の液体が悪化した状態により襲われて、そこから生まれてくる心労に過ぎないのである。この簡単な説明から試練の何であるかが、すなわち、それは何であれ、人間のいくたの愛に対抗する物により引き起される苦悶と心労であることがある程度知られることができよう。かくて主に対する愛の中にいる者にあっては、この愛を攻撃するものは、何であれ最も内なる責苦を生み、それは天的な試練であり、隣人に対する愛に、または仁慈にいる者にあっては、この愛を攻撃するものは、それが何であれ、良心の呵責を生み、これは霊的な試練である。

 

 

 

天界の秘義965

 

 これらの事柄は地獄と刑罰に関わっている。奈落の拷問はある者が想像しているように、良心の呵責ではない。なぜなら地獄にいる者は良心を何ら持っていない者であって、それで良心の呵責を感じることはできない。良心を持った者は幸福な者の間にいるのである。

 

 

 

天界の秘義986

 

 再生以前の人間の状態は外なる人に属していくたの欲念といくたの誤謬が絶えず支配していて、そこから争闘が生まれるが、しかし再生後は内なる人が外なる人を、すなわち、そのいくたの欲念といくたの誤謬とを支配し、かくてその人間は悪を恐れ、誤謬におののくのであり、その何れも良心に反していて、良心に反して行動することにかれは恐怖の念を覚えるのである。しかしながら悪を恐れ、誤謬におののくものは内なる人ではなくて、外なる人であり、それでここに『地の獣の凡てに、天の凡ての鳥』に、すなわち『獣』によりここに意味されている凡ゆる欲念に、また『天の鳥』によりここに意味されている凡ゆる誤謬に『あなたを恐れさせ、あなたにおののかせよ』と言われているのである。この『恐れ』と『おののき[戦慄]』はその人間自身のものであるかのように見えるが、しかしそれらは以下の原因から起っているのである。前に述べたように、人間各々のもとには少なくとも二人の天使がいて、その者たちを通してかれは天界と交流しており、また二人の悪霊がいて、その者らを通してかれは地獄と交流しているのである。再生した人間の場合のように天使たちが支配すると、そのときはかれにつき添っている悪霊は、拘束されているため、善い真のものに反したことは何であれ敢えて行おうとは試みない、なぜならかれらが何か悪いことを行い、また誤ったことを語ろうと試みるや否や、すなわちそれを刺激しようと試みるや否や、かれらは立ちどころに一種の奈落の恐怖と戦慄とに襲われるからである。この恐怖と戦慄とが人間の中に良心に反したものに対する恐怖と戦慄と認められるのでありそれでかれは良心に反したことを行ったり、または言ったりするとすぐに、試練の中へ、良心の呵責の中へ、すなわち一種の奈落の呵責の中へ入るのである。

 

 

 

 

天界の秘義4299

 

「ペニエル」・・・ヤコブが天使と戦ったところの地名

 

 良心を持っている者を除いてはたれ一人試みられることは出来ないのである、なぜなら霊的な試練は良心の呵責以外の何ものでもなく、従って天的な霊的な善の中にいる者を除いてはたれ一人試みられることは出来ないからである。なぜならこれらの者は良心を持っているが、他の者はことごとくそれを持っていないのであり、良心とは何であるかを知りさえもしていないからである。

 

 

 

天界の秘義4299[2]

 

 良心は主から発している新しい意志と新しい理解であり、かくてそれは人間における主の臨在[現存]であり、しかもその臨在はその人間が善または真理に対する情愛の中にいるに比例して近くなっているのである。もし主の臨在がその人間が善または真理に対する情愛の中にいる比率以上に近いならば、その人間は試練に入ってくるのである。その理由は、その人間の中にある悪と誤謬とがその者の中に在る善と真理とにやわらげられているが、臨在がさらに近づいてくるとそのことに堪えることができないということである。

 

 

 

 

天界の秘義4299[3]

 

 試練と呵責とは主の心的な臨在を通して発生してくるため神的なものから発しているかのように見えるのであるが、それでもそれらは神的なものからまたは主から発しているのではなくて、試みられ、または責めさいなまれている者の中にある悪と誤謬から発しているのである。なぜなら主からは善であり真であり、慈悲である聖いもの以外には何ものも発しないからである。善であり真で慈悲であるこの聖いものは悪と誤謬の中にいる者らの堪えることのできないものである、なぜならそれらは対立したものであり、または相反したものであるからである。悪と誤謬と無慈悲とはこれらの聖いものに暴行を加えようと絶えず熱中しており、それらのものを攻撃するに比例して責めさいなまれるのである。そしてそれらのものがそれらのものを攻撃して、その結果責めさいなまれると、それらのものを責め苛むものは神的なものであると考えるのである。このことが『恰もそれが神的なものから発しているかのように』という言葉により意味されているものである。

 

 

 

 

天界の秘義5036[6]

 

 それでこれが霊的な不安の源泉であり、また良心の呵責と呼ばれている呵責の源泉である。

 

 

 

 

天界の秘義5071

 

 これらの者は去って永遠の刑罰へ入るであろう

 

かれらが善と真理とに面をそむけて、悪と誤謬とに向かったためである。『呪い』は、聖言の内意では面をそむけることを意味している(245、379、1423、3530、3584番)。かれらが去って入って行かねばならない永遠の火は自然的な火ではなく、良心の呵責でもなく、悪の欲念である。なぜなら人間の欲念は人間を身体の生命の中でやきつくし、他生では責め苛む霊的な火であるからである。これらの火により奈落の者らは互いに凄まじい方法で拷問にかけるのである。

 

 

 

天界の秘義5071[]

 

『永遠の火』は自然的な火でないことは明白である。それは良心の呵責でないことは悪の中にいる者は凡て何ら良心を持ってはおらず、身体の生命の中で何ら良心を持っていない者は他生でも全くそれを持つことができないからである。しかしそれが欲念であることは、生命の火は凡て人間の愛から発しているためである、すなわち、天界の火は善と真理の愛から発し、奈落の火は悪と誤謬の愛から発し、またはそれと同一のことではあるが、天界の火は主に対する愛と隣人に対する仁慈から発し、奈落の火は自己への愛と世への愛から発しているためである。人間の中の火または熱はすべてこの源泉から発していることは、たれでも、もしその事に注意を払うなら、知ることができよう。

愛が霊的な熱と呼ばれ、聖言の『火』と『熱』によりそれ以外のものは何ら意味されていないことはまたそうした理由によっている(934イ、1297、1527、1528、1861、2446、4906番)。悪い者の生命の火は、かれらがその激しい欲念の中にいるときは、また一種の火の中にいるといったものであり、そこからかれらは他の者を責め苛む激情と狂熱の中にいるが、善良な者の生命の火は、かれらもまた、高度の情熱の中にいるときは、一種の火の中にいるようなものであるが、しかしかれらはそこから他の者を益しようとする

愛と情熱の中にいるのである。

 

 

 

天界の秘義5470[2]

 

それで青年期における多くの者の常として、人間が自らを悪に近づける時、その者が悪いことを行ったことについて反省するとき何らかの不安を感じるなら、それは彼は依然天界から天使たちを通して流入を受けるという印となり、またそれは彼が後になって自分自身が改良されることに甘んじるという印ともなるが、しかし彼が悪いことを為したことで反省する時、何ら不安な感情を持たないなら、それは彼が天界から天使たちを通して流入を最早受けようとはしないという印となり、また後になっても彼は自分自身が改良されることに甘んじないという印ともなるのである。それでヤコブの十人の息子たちにより表象されている外なる教会の諸真理が取り扱われているここには、ヨセフがその兄弟たちから遠ざけられた時、その陥った魂の苦しみが記されており、次にまたルベンが彼らを諌めたことが記されており、そのことにより、こうした状態が先行した時は、改良が、または内なるものが外なるものと連結することが後に起きることが意味されているのである(その連結については以下の頁に記そう)、なぜならそのとき不安になる者たちのもとには、悪の内なる承認[悪を内部で承認すること]が在り、それが主により呼び出されると、告白となり、遂には悔改めとなるからである。

 

 

 

 

天界の秘義5476

 

「更に、見なさい、彼の血は探し求められています」。これはそこから発した良心の呵責[刺]を意味していることは、『血』の意義から明白であり、それは善または仁慈に加えられた暴行である(374、1005番を参照)。この暴行、またはこの血が探し求められる時、良心の呵責と呼ばれる内なる不安が生まれるのであるが、しかしこれは罪を犯したとき不安になる者の場合にのみ見られるのである(5470番)。

 

 

 

 

天界の秘義9118

 

それで良心に反抗して行動することは新しい意志に反抗し、仁慈に反抗し、信仰の諸真理に反抗し、従って、人間が主から得ている生命に反抗して行動することであるため、このことから以下のことが明白である、即ち、人間は良心に従って行動する時、彼は平安の静謐(の状態)に、内なる祝福(の状態)にいるが、良心に反抗して行動する時は、静謐でない状態におり、また苦痛を舐めもするのである。この苦痛が『良心の呵責』と言われているものである。

 

 

 

 

(いかような霊であれ、これに天界を開くことは、ましてや人間に開くことは危険に満ちていることについて。)

霊界日記1959

 

或る一人の、気質は悪くはないが、真面目な霊が私と話したが、私は天界が彼の内部の中へ極めて僅かに開かれて、彼が覗き込み、そこにいかほどの善が在るかを見ることが出来たことを認めた。その際彼は嘆き、責め苛まれ初めて、その経験した苦悶のため、そうした状態の中に止まることが出来なかったため、その苦しみが止むように、と祈った。こうした、また他の或る幾多の経験から、天界が人間に開かれることはいかに危険なことであるかが明らかとなるであろう、なぜなら彼は死にさえも至る良心の悔恨に苦しめられる恐れがあるからである。1748年〔60歳〕5月14日

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

天使のパン14号P9

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/100・1/2卷P213

1945年2月7日

 

「寝る場所は、まだ不便な生活に慣れていないマタイに譲ります」とフィリポが言う。

 

「いいえ。年をとったあなたにそれはだめです。わたしが許しません。今までわたしは快適な寝床を使っていましたが、そこでの眠りはまるで地獄でした! 信じてください、今はたとえ砂利や石の上で寝ようと、羽毛の中にいるような安らかな眠りに落ちていきます。おお! 人を眠らせたり眠らせなかったりするのは、ただただ、良心なのですよ!」と、マタイは答える。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P367

 

 ある人がすでに死んでいて、自分が彼に与えた苦しみをなぐさめることができないという呵責がないような生活を送る人は幸せである。しかし自分の神、私イエズスを苦しめた呵責のない人は、もっと幸せである。この人は私との出会いを恐れず、むしろ一生涯にわたって夢見たそれを、喜びをもって迎える人である。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P188/515・5

 

ユダは、ためらい、そして言う、「では、彼らは神に到達できないのですね、彼らは邪道にいますから」。

「ユダ、あなたはそれを言いたかったのではないでしょう。なぜ、自分の思いや良心に蓋をするのですか? おお! 人が神の所に上るのは、なんと難しいのでしょう! その障害物は、その人自身の中にあります。彼は自分を見つめて、過ちを認めることをしません。実のところ、サタンは非常にしばしば、霊的崩壊の原因をすべて負わされて中傷されます。また、神もすべての事が神の原因にされて、もっと悪く言われます。神は人間の自由を侵害しません。サタンは、善へとしっかり向けられた意志を支配することはできません。はっきり言いますが、人が犯す罪の百回のうち七十回は、自分の意志によるものです。そして―人はそれをよく考えませんが、そうなのです―そして、彼は罪から立ち上がりません。それは、自分の良心を確かめることをしないからです。自分の中で、良心が予想外の反応を示して真実を叫んだとしても、彼はそれをよく考えようとせず、その叫びを押し殺します。自分の知性にとって厳しく悲しいと思われるその姿を破壊し、その糾弾の声に影響されかけた思いを、なんとかねじ伏せます。そして、次のように言うのを拒みます。たとえば、『それでは、わたしたちは、真理に到達できないのですね。なぜなら、わたしたちの心は驕り、肉体は堕落していますから』と。そうです。わたしたちが神の道を進むことができないのは、わたしたちの心に驕りが、肉体に堕落があるからです。サタンの驕りに匹敵する驕りで、神の業が、人や仲間の利益に合わないと、それを批判し、妨げます。それゆえに、多くのイスラエル人が、永遠に呪われるでしょう」。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P147

 

 イエズスの履き物を脱がせて足を洗い、サンダルにまた足を戻す前に、その裸足に口づけし、自分の首の上に載せて言う。

「こうさせてください。以前のザケオの残りかすを踏み潰してください」(中略)

 

「(前略)彼らの惨めな生活を理解するには、私はあまりにも多くの罪を犯しましたが、私もあなたが皆に与えてくださる喜びを、良心の呵責を感じないという喜びを、その人たちに与えたいのです。主よ、私のやり方はやり過ぎだったでしょうか?」

「いや、よくやりました、ザケオ。あなたは彼らが望む以上のことを与えました。私が人間に与えたいと思っているのは、あなたが想像する以上のものです。ゆるされて良心の呵責もなしにいられる喜びだけでなく、近いうちに天の国の民になるという喜びもです。私は、あなたがやっていることを知らなかったのではなく、険しいが光栄ある愛の道に進んでいるのを見守っていました。それは純粋な愛の徳だからです。あなたは御国のことばを理解したが、それを理解した人は少ない。多くの者は在来の考え方に縛られ、すでに自分は知識深い義人であると思い込んで生きています。あなたは心から過去を悔いて、空になったその心の中に、新しい未来、永遠を入れようと望み、そうしました。ザケオ、今までのようにやっていれば、あなたは主イエズスのよい税吏になるでしょう」と、イエズスは微笑みながら、ザケオの頭に手を置く。