不安

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.ルイザ・ピッカレータ

4.悪を行ったことによる不安

5.ジャン・マリ・ヴィアンネ

6.ルイザ・ピッカレータ

 

 

 

詩篇94・19

 

わたしの胸が思い煩いに占められたとき

あなたの慰めが

わたしの魂の楽しみとなりました。

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2354〔3〕

 

 (幾度も前に述べたように)人間の実相はその人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいるということである。悪霊を通して彼は地獄と交流しており、天使を通して天界と交流しているのである(687、697番)。それでその者の生命〔生活〕が悪いものに接近するに比例して、益々地獄が流れ入ってくるが、その生命が善いものに接近するに比例して、益々天界が流れ入り、それで主が流れ入ってこられるのである。このことから、悪の生命の中にいる者らは主を承認することは出来ないで、主に反抗した無数のものを自分自身で形作るが、それは地獄の幾多の幻想が流れ入って来て、その者らにより受け入れられるためである。しかし善い生命〔生活〕の中にいる者たちは主を承認するが、それは愛と仁慈がその中では主要なものとなっている天界が流れ入って来るためであり、また天界は主のものであって、主から愛と仁慈の凡ゆるものが発生して来るためである(537、540、547、548、551、553、685、2130番を参照)。

 

 

 

天界の秘義3170

 

「彼はその夜を過ごした」。これはそれらのものの平安を意味していることは、『夜を過ごすこと』の意義が休息することであり、内意では平安を得ることから明らかである、この間の実情は以下のごとくである、即ち、霊的なものが自然的な人に所有されつつある時、悪の欲念と誤謬の確信とに属し、かくて不安をもたらしているものは後退し、善の情愛と真理の情愛とに属しているものが近づいてきて、従って、平安を生むものが近づいてくるのである、なぜなら不安はことごとく悪と誤謬から発しており、平安はことごとく善と真理から発しているからである。(平安の何であるかは、その状態の性質のいかようなものであるかは、92、93、1726、2780番に見ることが出来よう)。

 

 

 

天界の秘義5179

 

 私はかつて胃下部に不安な感情を認めたが、そのことからそのような霊が近くにいることが私に明白となった。 私は彼らと語って、あなた方のスフィアは不安を生み出し、私のもとにいる霊たちのスフィアとは一致しないから、あなた方は去らなくてはならないと言った。その時私は彼らとスフィアについて語って、以下のように言った、人間の周りには非常に多くの霊的なスフィアがあるが、人間は、凡て霊的なものと呼ばれているものを否定し、また或る者は、凡て目に見えず、触れないものはことごとく否定しているため、それが事実であることを知らないし、また知ろうともしない、かくて霊界から発して、人間の生命に一致したスフィアが人間を包囲しており、そのスフィアにより人間は情愛の類似した霊たちと交わっている、またそのことによって多くの事柄が起るが、凡ゆる物を自然に帰している人間はそれを否定するか、または更に不可思議な自然に例えば運に帰しているのである、なぜなら或る人々はその経験によって、運と呼ばれるものが秘かに働いていることは充分納得はしてはいるが、その源泉の何であるかは知らないからである。この隠れたものは霊的なスフィアから発していて、摂理の究極的なものであることは、他の所に主の神的慈悲の下に経験により証明されたものから示すことにしよう。

 

 

 

天界の秘義5662[3]

 

 平安の性質はこのようなものであり、即ち、凡ゆる幸福と祝福の最も内なるものであり、そこからそれらのものの凡てを支配している普遍的なものであるため、それで古代人は事が順調に行くようにと言いたい時は、普通の言葉の形式として、『平安があなたにありますように』という言葉を用い、『順調に事が行っていますか』と言いたい時は、人々に『平安がありますか』否かと尋ねたのである。平安について前に言われ、示されもしたことを参照されたい、即ち、天界の平安は地上の春と暁に似ている(1726、2780番)。平安はその最高の意味では主であり、その表象的な意味では主の王国であり、最も内なるものから善をもって感動させる主の神的なものである(3780、4681番)、不安は凡て悪と誤謬から発しているが、平安は善と真理から発している(3170番)。

 

 

 

 

理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入

 

天界の秘義6202

 

 他の流入もまた認められているが、それは人間のもとにいる霊たちを通して行われるものではなく、或る奈落の社会からその人間の生命のスフィアの中へ送り出される他の者らを通して行われている。 これらの者はその人間に不利な事柄について共に語り、そこから普通厄介な、不愉快な、悲しい、または不安な事柄が、多くの変化をもって流れ入ってくる。 こうした霊たちがしばしば私と共にいたことがあり、不安を注ぎ入れた者らは胃の領域に感じられたが、私はこうした不安がどこから起こってくるかを知らなかったのである。 しかし彼らは常に摘発されたのであり、私はその時彼らが彼ら自身の間で語り合ったことを ― それは私の情愛とは容れないものであったが ― 聞いたのである。貪欲な者が時々その同じ領域の中に、しかし少しもっと高い辺りに現われ、将来に対する心遣いから不安を注ぎ入れたが、私は彼らを譴責して、あなたらは胃の中の消化されない、悪臭を発し、反吐を催させるような物に関係しているとその者らに言うことができたのである。私はまた、彼らが追い払われると、その不安が全く止んでしまうのを見たが、しかもそのことが繰返されたため、私はそれが彼らから発していることを確実に知ることができたのである。 理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入はこうしたものであり、また同じく霊的な試練を受けている者における流入もこうしたものである。 しかしこの後の場合ではこうした霊は全般的に流れ入るのみでなく、個別的にも奈落の霊どもはその人間が行った悪を呼び覚まし、善を歪め、それを悪く解釈するのである。 それで天使たちはこれらの者どもと争闘するのである。 再生しつつある人間はこうした状態へ入り、そのことにより彼は彼自身のものの中へ引き下ろされるが、これは彼が彼自身を世と身体の物に余りに深く浸し、そのため霊的なものへ上げられねばならない時に起こるのである。

 

 

 

天界と地獄299

 

 人間はどこから心配を、心の悲しみを、憂鬱と呼ばれる内的な悲哀を感じるかもまた私は知ることが出来た。未だ己が最初の状態にいるため、未だ地獄と連結していない霊たちがいる―彼らについては、後に霊たちの世界を取扱う時述べよう。これらの霊は胃の中の腐敗した食物のような、不消化で、有害な物を愛している。こうした理由から彼らは人間の中のそうした物の中に楽しさを感じるため、そうした物のもとにおり、そこで彼ら自身の悪い情愛から互に話し合っている。彼らの言葉の情愛はそうした源泉から人間の中へ流れ入り、その情愛は、もしそれがその人間自身の情愛に反したものであるなら、彼の中に悲哀と憂鬱な心配となるが、もしそれが一致したものであるなら、彼の中に喜びと快適なものとになる。これらの霊は胃の近くに、ある者はその左に、ある者はその右に、ある者は下に、ある者は上に、また近くに、遠くに現れ、かくてその者らの持っている情愛に応じて色々な所に現れている。心の不安はこのようにして生まれることを私は多くの経験から知り、また確信することが出来たのである。私は彼らを見もしたし、その言葉を聞きもしたし、彼らから不安が起るのを感じもしたし、彼らと語りもしたものである。彼らが追い払われると、その心配は無くなり、帰って来ると、心配も帰ってきて、彼らが近づいたり、遠ざかったりするに応じて心配が増したり、減ったりするのを認めたのである。このことから良心を持たないため良心の何であるかを知らない者が、その苛責を胃に帰している理由が私に明白にされたのである(*5)。

 

 

 

天界と地獄299 *5

 

 良心を持たない者は良心の何であるかを知らない、7490、9121。良心とは何であるかを聞いて、それを嘲笑する者がいる、7217。良心は無意味なものであると信じている者もあり、それは悲しい、嘆かわしい自然的なものであって、身体内の原因からが、世の中の原因からか起るものであると信じている者もおり、それは一般大衆に特有な宗教的迷信から起るものであると信じている者もいる206、831、950、〔真の基督教、665〕。真の良心、似而非良心、誤った良心がある、1033。良心の苦痛は、人間が神に反し、隣人に反していると信じているところの、不正な、不誠実な、また何らかの点で悪いもののために起きる心の不安である、7217。神に対する愛と隣人に対する仁慈にいる者たちは良心を持っているが、それにいない者は良心を持たない、831、965、2380、7490。

 

 

 

 

良心とは何であるかを聞いて、それを嘲笑する者がいる、7217。

試練/45.霊的な者の心労

に記載。

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P96

 

「私を憎んでいる一つの世界があります。シモン、それをゆるさねばなりません」

 

「私は主だった人間のことを言っているのです。一番上で操っている人間が・・・」

 

「操っている人間は大勢います。しかもそれぞれが重大な役目を持っています」

 

「何の役目を? あなたを殺すためですか? ・・・しかし私は・・・」

 

「あなたも私とともに、彼らをゆるさねばならない。彼らをどうして罰してやろうかと思うから不安になるのです。シモン、罰する役は神に委ねよう。あなたは同情しゆるしなさい。このイエズスに対して罪を犯すすべての人々がゆるされるように、彼らを助ける必要がある! 」

 

「そういう奴らにゆるしの余地はありません」

 

「あなたは兄弟たちに対して厳し過ぎる。シモン、いやいや彼らも悔い改めたらゆるされる。私を侮辱する人が皆ゆるされないなら大変なことになります。さあ、シモン、立とう。仲間たちは私まで、あの柵にいないと知って、心配しているでしょう。しかし彼らにもう少し心配させておいて、ここを去る前に一緒に祈ろう。平和と霊的な力と、愛と同情を取り戻せるように祈ろう。祈りはサタンの幻を退け、神が近くにいるのを感じさせる。神が近くにあれば、正義と功徳をもって、あらゆることを耐え忍べます。そうなるよう一緒に祈ろう。(後略)」

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P89

 

「恐がらないで。致命傷となる罪はないのですから。人は罪に対して恐怖を抱くけれど、動揺してはならない。不安は、どこからやって来ても、霊魂のためになることは決してないのです。」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P124

 

「娘よ、神のうちに心を落ち着けることと、平和の領域から出ないということは同じことである。もしあなたがちょっとした不安に気づくとしたら、それは少し神から出るというしるしである。事実、神の中に留まりながら完全な平和をもたない、ということは不可能だからである。平和の領域は果てしないだけでなく、神に属することのすべては平和である。」

 

 

 

4.悪を行ったことに対する不安

 

 

天界の秘義5470

 

この状態については、主は絶えず人間のもとに善をもって、また真理とともに善の中に流れ入られているが、しかし人間は(それを)受けるか、受けないか、しており、もし彼が(それを)受けるなら、彼は幸になるが、もし受けないなら、不幸になるのである。もし彼が受け入れないとき、(ここに『魂の苦しみ』により意味されている)多少の不安を感じるなら、彼は改良されるかもしれない希望はあるが、もし何ら不安の感情を持たないなら、その希望は消滅してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義5470[2]

 

それで青年期における多くの者の常として、人間が自らを悪に近づけるとき、その者が悪いことを行ったことについて反省するとき何らかの不安を感じるなら、それは彼は依然天界から天使たちを通して流入を受けるという印となり、またそれは彼が後になって自分自身が改良されることに甘んじるという印ともなるが、しかし彼が悪いことを為したことで反省するとき、何ら不安な感情を持たないなら、それは彼が天界から天使たちを通して流入を最早受けようとはしないという印となり、また後になっても彼は自分自身が改良されることに甘んじないという印ともなるのである。それでヤコブの十人の息子たちにより表象されている外なる教会の諸真理が取り扱われているここには、ヨセフがその兄弟たちから遠ざけられたとき、その陥った魂の苦しみが記されており、次にまたルベンが彼らを諌めたことが記されており、そのことにより、こうした状態が先行したときは、改良が、または内なるものが外なるものと連結することが後に起きることが意味されているのである(その連結については以下の頁に記そう)、なぜならそのとき不安になる者たちのもとには、悪の内なる承認[悪を内部で承認すること]が在り、それが主により呼び出されると、告白となり、ついには悔改めとなるからである。

 

 

 

天界の秘義5472

 

なぜならもし人間が善から退くとき何らかの不安を感じるなら、これは全く内在的な指示から発しているのではなく、彼が幼少の頃から得た信仰から発しているのであり、その信仰がそのとき指示を与えて、こうした不安を生み出すからである。これがこの信仰を表象しているルベンがここで語っている理由である。それは教義と理解における信仰と呼ばれているのは、それを生命と意志における信仰から区別するためであり、この後の信仰はシメオンにより表象されているのである。

 

 

 

天界の秘義5476

 

「さらに、見なさい、かれの血は探し求められています」。これはそこから発した良心の呵責[刺]を意味していることは、『血』の意義から明白であり、それは善または仁慈に加えられた暴行である(374、1005番を参照)。この暴行、またはこの血が探し求められるとき、良心の呵責と呼ばれる内なる不安が生まれるのであるが、しかしこれは罪を犯したとき不安になる者の場合にのみ見られるのである(5470番)。

 

 

 

5.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

聖ヴィアンネの精神P65

 

 愛によって創造られた人間は愛がなくては生きることができません。神様を愛するか、自分を愛するか、世俗を愛するかであります。皆さん、信仰が欠けているのです・・・信仰がない時、目が見えなくなります。目の見えない者は知ることができません。神様を愛しない者は、自分自身を愛し、同時に、快楽を好みます。その心は、煙のように瞬く間に過ぎ去るものに執着するのです。真理もどのような善も認識することができません。偽りしか認識できないのです。知恵の光りを持たないからです。やがて、自分の愛するすべてのものが与えてくれるものは、永遠の死でしかないことをよく悟るでしょう。まさに、この世ながらに地獄を味わうのです。(中略)

 

このような人々は余りに自分を愛しすぎるのです。しかし、自分を愛するといっても、その愛は筋の通った愛ではありません。神様よりも自分を求め、自己愛や世俗への愛によって、自分を愛するのです。ですから決して満足することもなく、また決して安穏でもありません。いつも不安であり、いつも悩み、いつも惑乱の憂き目にあうのです。

 

 

 

 

6.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P234

 

「我が娘よ、なぜ不安に心を騒がせて時間をつぶしているのか? あなたに関する出来事は何でもない。中傷、迫害、反対などのすべては人を義とし、ひとりで人間的な物事に依頼することなく、創造されたときのような神との一致にその人を戻すために、神の摂理が許すことなのである。なぜかというと、その人がどんなに善人で聖人であったとしても、いつも何かその内面に人間的な精神をもっているからである。

また外面的にも、人は完全に自由ではない。常に希望し、人を信用し、人に頼り、そこから評判や尊敬を取り立てようとする人間的な何かを持っているものである。中傷、迫害、反対などの風が吹きすさぶやいなや、人間の精神は、なんと大きな雹の被害を受けることだろう! 事実人間は、自分が被造物から反対を受け、悪く解釈され、軽蔑されているとみると、もう人々のあいだに慰めを見いだせなくなり、同時に、彼への助け、支え、信頼、尊敬なども不足してくる。それで、最初はその人自ら被造物を捜し求めて行ったのに、その後は彼自身が、人々から逃げ出す。なぜなら、どこを向こうが、苦味ととげしか見つけることができないからだ。ゆえにこの人は、このような状態に成り下がって、独り取り残されてしまう。

 しかし人は、独りで居ることができない。彼は独りで居るために創られていないからだ。それでは、この可哀想な人は何をするだろうか? 彼は少しも躊躇することなく、彼の中心つまり神に全てを向ける。すると神はその全てを彼に与え、人も神を知るために自分の知性を、神と神から受けた恩恵を思い出すためにその記憶を、神を愛するために自分の意志を適用して、自分のすべてを神に与えるようになるのである。

 さあこれが、我が娘よ、霊魂が創造された目的、すなわち義とされ、聖化され、自分の霊魂の中で再び作り直されるということである。たとえその後、また被造物と接し、彼らが助け、支え、尊敬などを彼に与えたとしても、この人はもう、それがどんな値のものかを知っているので、無関心をもってそれらを受けるようになる。もしその人にこれらのことが役に立つと見ても、彼は常に神と共に独り留まりながら、ただそこに神の誉れと栄光を見るためにだけ、それを使用することだろう。」