野[畠]の男

再生しつつある者秩序の転倒

天界の秘義3310

 

『野[畠]の男』が教義的な事柄から発した生命の善を意味していることは、『野[畠]』の意義から明白である。聖言には『大地』または『地』、『土地』、『野[畠]』が再三言われていて、『大地』または『地』により、それが善い意味に用いられているときは、諸天界と地上にある主の王国が意味され、かくて地上の主の王国であるところの教会が意味されている。それに似たことが『土地』によっても意味されているが、しかしもっと限定された意義に用いられているのである(566、662、1066−1068、1262、1413、1733、1850、2117、2118、2928番)。同じことがまた『野[畠]』によっても意味されているが、しかし前よりもさらに限定された意義に用いられているのであり(368、2971番)、教会は教義的な事柄が生命の善を目標としてそれに関わりをもっていないかぎり教義的なものからは教会ではないのであり、または、それと同一のことではあるが、この教義的なものが生命の善と連結していない限り、教義的なものからは教会ではないため、それで『野[畠]』により主として生命[生活]の善が意味されており、そしてこれが教会のものとなるためには、この善の中に植えつけているところの聖言から発した教義的な事柄が存在しなくてはならないのである。教義的なものがなくても実際生命の善は在るには在るが、しかし未だ教会の善は存在してはおらず、かくて未だ真に霊的な善は存在してはいないのであり、たんにそれはそのようなものになる能力をもっているにすぎないのであり、例えば聖言を持ってはおらず、それで主を知らない異邦人達の間の生命の善の場合がそれである。

 

 

天界の秘義3310[2]

 

『野[畠]』は信仰にぞくしている事柄が、すなわち、教会のものである霊的な真理がその中に植えつけられなくてはならないところの生命の善であることはマタイ伝の主の譬から極めて明白である―

 

 種をまく者がまくために出て行った、まいている中に、或るものは固い道の上に落ちた、が、鳥が来て、それを食いつくしてしまった、他のものはたいして土のない石地に落ちた、土が深くなかったので、それはすぐ芽を出した、が、陽が上ったとき、やかれて、根がなかったので、枯れてしまった、他のものは茨の中に落ちた、茨は大きくなって、それをふさいでしまった、しかし他のものは良い土地に落ちて、果を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の果をむすんだ、聞く耳のある者には聞かせなさい(マタイ13・3−9、マルコ4・3−9、ルカ8・5−8)。

 

 ここには畠[]の中の―すなわち、教会の中の―四種類の土または土地がとり扱われている。『種』は主の聖言であり、かくて信仰にぞくしていると言われている真理であることが、また『善い土地』は仁慈のものである善であることが明白である、なぜなら聖言を受けるものは人間の中の善であるからである、『固い道』は誤謬であり、『石地』は善に根ざさない真理であり、『茨』は悪である。

 

 

天界の秘義3310[3]

 

『野[畠]の男』により意味されているところの、教義的なものから発した生命の善については実情は以下のごとくである、すなわち、再生しつつある者たちは、教義的なものから善いことを最初行うのである、なぜならかれらはかれら自身では何が善であるかを知ってはいないで、それを愛と仁慈との教義的な事柄から学ぶのであり、これらのものからかれらは主はだれであられるか、隣人とはたれであるか、愛とは何であるか、仁慈とは何であるかを知り、かくて善とは何であるかを知るからである。かれらはこうした状態の中にいるとき、真理の情愛の中にいて、『野の男[viri]』と呼ばれるが、しかし、後になって再生したときは、教義的な事柄から善いことを行わないで、愛と仁慈からそれを行うのである、なぜならかれらはそのときは教義的な事柄から学んだ善そのものの中にいて、そのときは『野の人(homines)』と呼ばれるからである。この間の実情は、生まれつき姦淫、盗み、殺人に心が傾いているが、しかし十戒の戒めからこのような事柄は地獄のものであることを学んで、そこから遠ざかる者の場合に似ている。この状態の中ではかれは地獄を恐れるため、戒めに感動し、そうしたものからまた同じく聖言の多くの事柄からかれはいかように自分の生活を左右しなくてはならぬかを習うのであり、こうした場合かれは善いことを行うときは、それを戒めから行うのである。しかしかれが善の中にいるときは、以前かれが心を引かれていた姦淫、盗み、殺人に嫌忌を覚え始めるのであり、かれがそうした状態の中にいるときは、かれはもはや善いことを善い誡命から行わないで、そのときかれの中に存在している善からそれを行っているのである。前の状態の中ではかれは真理から善を学ぶのであるが、この後の状態では善から真理を教えるのである。

 

 

天界の秘義3310[4]

 

 教義的な事柄と呼ばれて、さらに内的な戒めであるところの霊的な真理の場合もまた同じである、なぜなら教義的な事柄は自然的な人にぞくしている内的な真理であるからである。最初の真理は感覚にぞくしており、次の真理は記憶知に属しており、内的な真理は教義にぞくしている。これらの教義的な真理は記憶知の真理に基礎づけられている、なぜなら人間は記憶知からでなくてはその教義的な真理についてはいかような観念も、想念も、概念も形作ってそれを保有していることはできないからである。しかし記憶知の真理は感覚の真理に基礎づけられているのである、なぜなら感覚的な事柄がなくてはいかような記憶知も人間には把握されることはできないからである。これらの真理が、すなわち記憶知の、また感覚の真理が『狩猟[狩り]に巧みな男』により意味されるものであるが、しかし教義的な真理は『野の男』により意味されるものである。このようにこれらの真理は人間のもとでは継続して互に他につづいているのであり、それで人間は成人期に達して、感覚と記憶知との真理を通して教義的な真理の中にいない中は、たれ一人再生することはできないのであり、なぜならかれは記憶知と感覚とのいくたの事柄から派生した観念によらなくては、教義の真理を確認することはできないからである。なぜなら人間の思考の中には、信仰の最も深いアルカナの方面でさえも、自然的な感覚的な観念を伴っていないものは一つとして在りえないからである―たとえ人間の大半はそのことの性質は知らないにしても。しかし他生では、もしかれがそれを望むなら、それはかれの理解の前に明らかに示され、もしかれがそのことを願うなら、彼の視覚[目]の前にすら示されるのである、なぜならいかほどそれは信じることもできないもののように思われるにしても、他生にはこのようなものは視覚[目]に示されることができるからである。