天国の門日本

 

 

エゼキエル44・1−3

 

それから、彼はわたしを東に面した聖所の外の門の方へ連れ戻した。門は閉じられていた。

 主はわたしに言われた。「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、閉じられたままにしておく。

 しかし君主だけは、ここに君主として座り、主の前で食物を食べてもよい。ただし門の廊から入り、またそこから出て行かねばならない。

 

 

 

 

マタイ7・13−14

 

 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。

 

 

 

ルカ13・24

 

狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。

 

 

 

黙示録21・9−14

 

さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。

 

 

 

 

天界の秘義2851[2]

 

『門』の意義については人間各々のもとには全般的に二つの門が存在していて、その一つは地獄に向って開いており、地獄から発してくるいくたの悪と誤謬とに開かれており、この門の中に奈落の魔鬼と霊とがいるのであるが、他の門は天界に向って開いていて、そこから発している諸善と諸真理とに開かれており、その門の中には天使たちがいるのである。かくて地獄に通じている門と天界に通じている門とが存在している。地獄の門は悪と誤謬の中にいる者らに開かれていて、上方の周囲に在る裂け目[割れ目]からのみ天界から光の何らかのものが入って来て、それによりかれらは考えたり、論じたりすることができるが、しかし天界の門は善とそこから発してくる真理の中にいる者に開かれている。

 

 

 

天界の秘義2851[3]

 

 なぜなら人間の合理的な心に通じている二つの道が在るからである、すなわち、主から善と真理とが入ってくる手段となっている高いまたは内なる道と、地獄から悪と誤謬とが入ってくる手段となっている低い、または外なる道が在るからである。合理的な心それ自身はその真中に存在していて、これらの道はその合理的な心の方へ向っている。その心は、その中に存在している諸善と諸真理から、聖言では都にたとえられ、また『都』とも呼ばれている。そしてそれが都にたとえられ、また都とも呼ばれているため、門がそれに帰せられており、それは敵により、すなわち、悪い魔鬼と霊どもにより包囲され、おそわれているとしてしばしば記されており、また主からつかわされた天使により、すなわち主により防禦されているとして記されているのである。奈落の魔鬼と霊とは、その悪と誤謬とともに、低いまたは外なる門により先に来ることはできないのであり、決して都の中へ入ることはできないのである。もしかれらがその都に、またはその合理的な心に入ることができるなら、その人間は全く破滅してしまうのである。しかしかれらがその都をおそって奪ったとかれら自身に思われるほどにも遠く入ってくると、そのときは閉じられてしまい、かくて善と真理とは天界から、前に言ったように、多少僅かなものが周囲の割れ目から流れ入る以外には、もはやその中へ流れ入りはしないのである。ここからこのような人物はもはや仁慈のいかようなものも、信仰のいかようなものも持たなくなって、善を悪から、真理を誤謬から成立させるのである。ここからまたかれらはかれら自身には合理的なものであるように思われるものの、もはや真に合理的なものではなくなるのだる(1914、1944番)。ここからかれらはたとえ自分は他の者にまさって生きていると信じてはいるものの死んだ人間と呼ばれるのである(81、290番のおわり)。これらの事柄がこのようになっているのは天界の門が彼らには閉じられているためである。それが彼らに閉じられていることは他生には明らかに現われていて、認められもしており、同じくまた他方天界の門が善と真理の中にいる者たちに開かれていることも明らかに認められている。

 

 

 

天界の秘義2851[4]

 

この節にとり扱われている特殊な『敵の門』については、それは人間の自然的な心の中に存在している。人間が全く自然的なものであって、または再生していないときは、悪と誤謬とがその門を占領しており、または、それと同一のことではあるが、悪い魔鬼と霊どもとが悪のいくたの欲念と誤謬のいくたの信念とをもってその中へ流れ入ってくるが(687、697、1692番参照)、しかし人間が霊的なものになり、または再生しつつあると、そのときは、その悪と誤謬は、またはそれと同一のものであるところの、悪い魔鬼と霊どもはその門からまたはその心から追い出されるのであり、そのとき善と真理が、または仁慈と信仰がかれらにとって代わるのであり、そうした事柄があなたの裔は『あなたの敵の門を嗣ぐでしょう』と言われていることにより意味されているのである。このことは人間各々のもとにその者が再生しつつあるとき個々に起っており、同じく他生においても主の王国に入る者たちのもとに起っており、またそれは多くの者から構成されている全般的な身体の内に、または教会の中に起っている。

 

 

 

天界の秘義2851[5]

 

 このことはイスラエルの子孫がカナンの地から諸国民を放逐したことにより表象されたのである。この後の者が『あなたの裔はあなたの敵の門を嗣ぐでしょう』と言われている所では、その文字の意義では意味されているが、しかし内意では今語られた事柄が意味されているのである。そこから古代では結婚に入ろうとしている者たちを祝福するときこのように語ることが慣となったのであり、このことはまたラバンの妹レベカがイサクと婚約して去ろうとしていたとき、彼女に与えられたラバンの祝とうからも明らかである―

 

 わたしの妹よ、あなたはちよろづの者となりますように、あなたの裔があなたを憎む者らの門を嗣ぎますように(創世記24・60)。

 

 

 

天界の秘義2851[14]

 

 これらの記事から、『敵の門』により意味されていることが、すなわち、それは地獄であり、または奈落の霊どもであって、かれらは絶えず善と真理とを攻撃していることを認めることができよう。前に言ったように、彼らは人間のもとにその自然的な心の中に宿っているのである。しかし人間が善と真理とを容認し、かくて天使たちを容認するような性格を持っていると、そのときは奈落の霊どもは主によりその居所から追い出されてしまい、かれらが追い出されると、天界の門がまたは天界そのものが開かれるのである。

 

 

 

天界の秘義2851[15]

 

 これらの記事から、『天の門』は天使たちが人間のもとにいる所であり、すなわち、主から善と真理とが流れ入ってくる所であり、かくて前に言ったように、二つの門が在ることが明らかである。この二つの門について主はマタイ伝に以下のように語られている―

 

 狭い門から入りなさい。破滅にいたる門は広く、その道は大きく、そこから入る者は多いからである。それは生命にいたる門は狭く、その道は細く、僅かな者しかそれを見出さないためである(マタイ7・12−14、ルカ13・23、24)

 

 さらに新しいエルサレムの門と新しい神殿の門とが多くエゼキエル書にとり扱われ、また黙示録でヨハネによりとり扱われており、それにより天界への入口以外の何ものも意味されてはいないのである(エゼキエル40・6−49、43・1、2、4、44・1−3、46・1−9、12、48・31−34、黙示録11・12、13、21、25、22・14、イザヤ54・11、12参照)。ここからエルサレムは『民の門』と呼ばれている(ミカ1・9、オバデヤ13節)。

 

 

 

 

啓示による黙示録解説899

 

「十二の門を持ち」(黙示録21・11)は、人間を教会へ導入するところの、そこの真理と善とに関わる凡ゆる知識を意味している。『門』により聖言から発した真理と善とに関わる知識が意味されているのは、その知識により人間は教会へ導き入れられるためである。なぜならすぐ前に説明したように(898番)、門が中に在る『壁』は聖言を意味し、以下の記事には、『その十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠であった』と言われ(21節)、『真珠』により真理と善にかかわる知識が意味されるからである(727番)。人間は、門を通って都の中に入れられるように、その知識により教会へ道びき入れられることは明らかである。『十二』は凡てを意味することは、前に見ることが出来よう(348番)。