黙示録

・はじめに

1.川の水

2.大鷲の二つの翼

3.太陽を着た女性

4.荒れ野の女性

5.荒野

6.聖なる町・神の都

7.新しいエルサレム

8.門

10.豹に似た獣

11.子羊のような獣

13.もの言う獣の像

14.巨大な苦難の時期とは今

15.新しい天

16.ミカエル

17.イゼベル

18.苦よもぎ・・・ロシア語で「チェルノブイリ」

19.坑からの煙

 

 

 

   はじめに

 

啓示による黙示録解説 序言

 

 多くの者が「黙示録」の説明に努めてきたが、しかし聖言の霊的意義がこれまで知られていなかったため、彼らはその中に隠れているアルカナ[秘義]を認めることができなかった、なぜなら霊的意義のみが、それを明らかにするからである。そのため講解者たちは色々な事柄を憶測して、その大半の者はその中に在る事柄を幾多の帝国の状態に適用し、またその中に教会の出来事にかかわる事柄をいくらか混入もした。しかし黙示録は、聖言の凡てのように、その霊的意義では、世の事柄を些かも扱ってはいないで、天界の事柄を扱っており、それで帝国や王国を扱ってはいないで、天界と教会とを扱っているのである。以下のことを知っておかなくてはならない、即ち、1757年に霊界で行われた最後の審判の後で―この審判については、1758年ロンドンで単行本として出版された小著を参照されたい―キリスト教徒から新しい天界が作られたが、しかしそれは、マタイ伝28章18節の主の御言葉に従って、主を天地の神として受け入れることができると同時に、世にいた頃己が悪い業を悔改めた者たちのみから作られたのである。この天界から、新しいエルサレムである地上の新しい教会が降りつつあるのであり、また降るであろう。

 

 

 

啓示による黙示録解説2

 

 黙示録では、これまでたれかが信じてきたように、教会が次々に変わって行く状態は取り扱われてはいないのであって、そこでは始めから終わりまで諸天界と地上の教会の最後の状態が取り扱われ、次に最後の審判が取り扱われ、その後で新しいエルサレムである新しい教会が取り扱われているのである。

 この新しい教会が本書の目的であることは明白であり、それでそれに先立っている事柄は教会の状態に言及しているのである、即ち、新しい教会の直前の教会の性質に言及しているのである。

 

 

 

1.        川の水

 

 

聖母から司祭へ1989.5.6

 

 その川の水とは、すべての新しい神学的な思想の謬説全体を指しています。これらの説は、あなたたちの天の母の姿をくらませて、その特権を否定し、聖母信心を縮小し、わたしに信心を示すすべての人をあざ笑うように努力しました。龍のこれらの攻撃の結果として、最近、わたしに対する信心はたくさんの信者のあいだでへってしまい、或る所では完全に消えてしまいました。しかし、あなたたちの天の母を助けるために、「大鷲の二つの翼」が与えられたのです(黙示録12・14)

 

 

 

黙示録12・15−18

 

蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。しかし、大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。

 

 

 

2.大鷲の二つの翼

 

 

聖母から司祭へ/1989.5.6

 

大鷲とは神のみことばです。特にわたしの子イエズスの福音書に含まれているみことばです。

四福音書の中で鷲は聖ヨハネによる福音書を示しています。なぜなら、聖ヨハネは他の三人よりも高くとび、聖三位一体の真髄にまで入りこんで、みことばの神性と永遠性がおん父と同じ本性であることを示し、イエズス・キリストの神性を力づよく断言しているからです。

 

鷲の二つの翼とは何でしょう―それは、信仰によって受け入れられ、愛され、守られる神のみことばです。すなわち、恵みと愛徳をもって生活に移された神のみことばです。

信仰と愛徳との二つの翼、すなわち、わたしが受け入れ、生きてきた神のみことばのおかげで、わたしに対してなされるすべての攻撃の水の川の上に、わたしは飛ぶことができたのです。

わたしのまことの偉大さを世に示したからです。

 

それから、わたしは、「荒野に逃れた」のです(黙示録12・6)。

 

 わたしが自分のかり住まいを定めたこの荒野とは、わたしを歓迎し、わたしのことばに耳をかし、完全にわたしに信頼し、わたしの汚れなき心に自分を奉献するすべての子らの心と魂のことです。

 

 

 

3.太陽を着た女性

 

 

真の基督教/648

 

前の教会の信仰は黙示録(12章)に龍によって表され、新しい教会の信仰は陽に囲まれ、頭に十二の星の冠を戴いた婦人によって表されている。若しそれらが人間の心の中に共に置かれるならば、その心の状態は如何ようになるであろうかは、容易に推測され得るであろう。龍はその女が将に子を産もうとする時、その子を噛み砕こうとして、その近くに立ち、女が荒野に逃げると、その後を追い、これを飲みつくそうとして、洪水のような水をその後から注ぎかけるであろう。

 

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心234

 

福音記者・聖ヨハネが次のように記録しています。「また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙示録12・1)。さて、聖書解釈者の一致した意見によれば、この女こそ、聖母マリアなのです。

 

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P63

 

太陽を着た母は、あなたがたを棄てません。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P151

 

現在彼女は、第二の聖霊降臨のために働き、全ての事の刷新の仕事を行いながら、人類をさらに新しい出会いのために準備しているのである。彼女は唯一の源泉、真のエクメニズムの土台、その母の眼差しのもとに、あらゆる民とあらゆる人間を集めながら、古代からの敵に対して勝利をおさめる『太陽を着た女性』である。彼女はミリアム、まことの平和の清い鳩、豊かに葉の茂ったおん父のオリーブの実、平和な私の聖心の母である。

 

 

 

聖母から司祭へ/1989.5.14

 

主はわたしにその光をまとわせ、聖霊はその神的能力をまとわせてくださいました。そのためにこそ、わたしは「壮大なしるしとして天に現れた太陽に包まれた婦人です」(黙示録12・1)。それは、全人類を大きな赤い龍の支配から取りもどし、聖三位一体に完全な光栄を帰するためにつれもどす役割を、わたしがもっているからです。

 

 

 

聖母から司祭へ/1987.10.9

 

太陽に包まれた婦人であるわたしが、赤い龍にうち勝ち、かれを鎖でしばり、地獄にとじこめて、もう地上に被害を加えないようにする時が、すでに来たのです。

 

 

 

 

4.荒れ野の女性

 

 

雅歌3・6

 

荒れ野から上ってくるおとめは誰か。

煙の柱が近づいて来るかのよう。

それは隊商のもたらすさまざまな香料

ミルラや乳香をたく煙。

 

 

 

雅歌8・5

 

荒れ野から上ってくるおとめは誰か

恋人の腕によりかかって。

 

 

 

聖母から司祭へ/1989.5.6

 

それから、わたしは「荒野に逃れた」のです(黙示録12・6)。

わたしが自分のかり住いを定めたこの荒野とは、わたしを歓迎し、わたしのことばに耳をかし、完全にわたしに信頼し、わたしの汚れなき心に自分を奉献するすべての子らの心と魂のことです。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P147

 

娘よ、世界に言ってください。私はあの『荒れ野の女性』です。今がその時なのです。成長した人々は理解するでしょう。

 

 

 

 

5.荒野

 

 

聖母から司祭へ/1989.5.6

 

それから、わたしは、「荒野に逃れた」のです(黙示録12・6)。

 わたしが自分のかり住まいを定めたこの荒野とは、わたしを歓迎し、わたしのことばに耳をかし、完全にわたしに信頼し、わたしの汚れなき心に自分を奉献するすべての子らの心と魂のことです。

(中略)

わたしが住いとしている荒野の中で、こん日行う数々の大きな不思議は、わたしの小さな子らの生活を完全に変化させるという不思議です。それは、かれらが勇敢な信仰のあかし人として、聖徳の輝かしい模範となるためです。

こうして、沈黙とかくれた生活のうちに、わたしは、毎日、龍に対するわたしの大勝利を準備します。これは世界におけるわたしの汚れなき心の大勝利です。

 

 

 

天界の秘義6988

 

無知のために信仰については何らの知識を持っていない状態。

 

「言葉を発する」によりここでは声の発言が、または言葉を話すことが意味されてはおらず―なぜならその発言は、自然的なものであるからである―主を告白し、主に対する信仰を告白することが意味されているのである。なぜならこの発言は霊的なものであるからである。ここから「口の利けない」によりその内意に意味されていることが明白であり、即ち、無知のために、主を告白することができず、かくて主に対する信仰を表明することのできない者たちが意味されており、そうした状態に教会の外側の諸国民がおり、また教会内の単純な者たちがいるのである。こうした者が「口の利けない」により意味されていることはイザヤ書に明らかである―

 

「その時歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる」(イザヤ35・6)

 

「口が利けなかった者が歌うだろう」は、彼らは主を告白し、主に対する信仰に属したものを告白するであろう、を意味し、「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」は、彼らが真理と善について幾多の知識を得ることを意味し、「荒れ野」は無知のために信仰については何らの知識も持っていない状態である。

主に癒された口の聞けない者により、また、主が世に来られたことにより誤謬とそこから派生した悪から救い出された諸民族が意味されているのである。

 

 

 

黙示録講解730ロ

 

「荒野」は善が何ら存在していないため、真理が何ら存在していない教会を、従って悪が存在しているため、誤謬が存在している教会を意味している。

 

 

 

黙示録講解730ハ

 

「荒野」は諸真理を欠如した自然的な人を意味。

真理に対する無知の状態は―その中に異教徒は置かれていたのであるが―「荒野」により意味され、真理に対する願望は「飢え」により、主により教えられることは「飼うこと(食べさすこと)」により意味されているため、主は荒野へ後退されて、そこで主を探した多くの者に教えられ、後に彼らに食を与えられるようになったのである。(このことが荒野に起こったことはマタイ14・13−22、15・32−38、マルコ6・31−34、8・1−9、ルカ9・12−17に見られることが出来よう)。なぜなら主がなされた凡ゆることは、また主に関連した凡ゆることは、相応したものであったため表象的なものであり、これらの事もまたそうしたものであったからである。これらのことと前に引用した記事から、以下のことは明白である。即ち、「荒野」は人間における未開の、人の住んでいない状態を意味し、かくて霊的なものから未だ生命のあるものとされていない状態を意味し、従って、教会に適用された際に、諸真理により生かされていない状態を意味しており、かくてそれは異教徒が持っていたような宗教的な原理を意味しており、それは異教徒は真理が存在している聖言を持たず、かくて真理を教えられる主を知らなかったため、ほとんど空虚でうつろなものであり、彼らは真理を持たなかったため、その善もまた、真理が彼らのもとで在ったようなもの以外のものでは在り得なかったのである。なぜなら一方は他のものに属しているため、善はその真理に似ているからである。このことから異教徒が取り扱われている所では「荒野」が意味していることを認めることが出来よう。即ち、真理は存在しないものの、彼らの善が生きたものとされえるためにその真理に対する願望が在る所である。

 

 

 

 

黙示録講解730ニ

 

試練の中におかれている者らの状態を意味。

 

 

 

聖母から司祭へ1980.6.14

 

婦人がその避難所とした、あのかくれた所、沈黙にみちた所、数多い戦いと傷で荒れ野となった所とは、人の霊魂と心のことです。すなわち、私の愛する子らと汚れなき私の心に自分を奉献したすべての人の霊魂と心のことです。

 いま私は、この荒れ野のなかで、一番大きな不思議を行っています。その不思議は、沈黙のなかで、かくれて行われます。それは、完全に自分自身をわたしにまかせた子らの霊魂と生活を改めるという不思議です。こうして、まいにち、私は、かれらの砂漠を私の花園に変えて、花を咲かせるのです。

 

 

 

 

6.聖なる町・神の都

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P266

 

エルサレムについて、マリア・ワルトルタが:

聖なる町は、イスラエル人たちの“まことの女王”だった。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心7

 

神の聖なる都であるマリア

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48

 

“マリア”という名の「ソロモンの神殿」「神の都」

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48

 

世界終末の夕べ、全世界の人が、父なる神のふところに帰っていくため、また神の義への飢えかわきをいやすため、犬のようにほえ、食をもとめて、うろつきまわる“町”とはマリアという名の町です。マリアは聖霊から“神の町”“神の都”(詩篇87・3)と呼ばれているからです。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P197

 

ああ、もっとも聖なるおとめよ、ああ、栄光のマリアよ、ああ、おん母よ。あなたこそは、天国の門、いのちの源、主の聖殿、聖霊のもっとも愛される聖所です。

 

 

 

 

7.新しいエルサレム

 

 

聖母から司祭へ1980.10.27

 

私は、あなたがたにとって、一致の道です。わたしは、全教会に受け入れられたとき、はじめて母として、私のすべての子らを同じ家族の団欒に集めることができるでしょう。

 それで、私の汚れなき心が世界に勝利をうるその同じときに、すべてのキリスト者はカトリックの教会にふたたび一致するでしょう。こうして、再一致した教会は、新たな聖霊降臨の輝きを受けて全世界のすべての民族を新しくする力を帯びるのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1996.2.22

 

イエズスは、ペトロに、教会の土台となり、その真理のすべてを保護する役割りを与えられました。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。

人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれる時、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことに懸かっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P29

 

しかし、その間、一人の母を有する喜びのために、イスラエルの希望を含んでいた神殿の薄暗さの中で、ふしぎなことばがささやかれたが、その神殿は、もはや存亡の極限に立っていた。なぜなら、一つだけの民のための希望を含むのではなく、この世が存在するかぎり、世々に“全地”の民のための希望をもってくる新しい神殿が生まれるところであった。

 

 

 

天界の秘義3216

 

天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると、その時それに相応している霊たちの社会が存在している低いスフィア[領域]の中に時折、一つの都または幾多の都の形またはパターンが現れてくるが、その中には色々な相をした家は言わずもがな、宮殿があって、それは建築の点で技術そのものがそこにその生まれた家の中にいると言われるほどにも驚嘆すべき技能を示しているのであり、言うも驚嘆すべきことではあるが、すべてこれらのものの中には全般的にも個別的にも、最小の点でも、または目に見える粒子でも、何か天使の観念と言葉を表象していないものはないのであり、それでこれらのものの中にはいか程無数のものが含まれているかが明白であり、また聖言の予言者により見られた都により何が意味されているか、同様に聖い都または新しいエルサレムにより何が意味されているか、予言的な聖言における都によって何が意味されているかが明白であり、即ち、仁慈と信仰との教義的な事柄が意味されていることが明白なのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/主イエス・キリスト/65

 

黙示録には新しい天と新しい地という語が記され、後に見よ、わたしは凡ての物を新しくするという語が記されているが、それは今や主により新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何ごとも意味していない。この教義は前の教会には存在しなかったものであり、その理由はもしそれが存在したとしても、それは受け入れられはしなかったであろうということである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/真のキリスト教700

 

しかし真のキリスト教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。

 

 

 

真のキリスト教188

 

この天界に新しいエルサレムなる地上の主の教会は結合されるであろう。

 

 

 

スウェーデンボルグ/真のキリスト教108

 

主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義40

 

しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からは更に明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P36

 

子どもたちよ、あなたがたは新しいエルサレムです。けれども我が子の忠実な僕たちにとって、今はまだ栄光のときではありません。あなたがたのために、苦しみを通してなされる浄化の時があるでしょう。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P73

 

我が子ら、我が教会よ、あなたがたは私の遺産、間もなく刷新されようとしている私の聖なる町である。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P155

 

私のヨハネが最初の観覧者であった天上の事柄を明白にする前に、私はあなた方の真中に私の王国を築くために来よう。まもなくあなた方の真中に新しいエルサレムがくだって来る。私の計画とは、あなたや他の道具となる霊魂たちを通して、私の間もない再臨にそなえて世界を準備することである。

 

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P148

 

イエズス:「私の聖なる母とは、『・・・聖なるエルサレムが天から下ってきて、人々の住まいの間に居を定めるのを見た・・・』と記されているあの文章を形成する方である。:,,,調和と均衡を失った家々に住まう神の聖なる町とは、彼女のことである。

 あなたがたの家庭のいろり端に喜びを取り戻してくださるのは、彼女である。

人間が神と和解することができるように、私たち聖三位の愛が選んだのも彼女である。全ての天使はこの出来事を知っており、あなたがた、私の憐れみの愛の小さな子らも、聖なるマリアの共贖のわざの使命について知ることを、私は望んでいる。」

 

デボラ:「私たちは聖母を愛しており、本当に大好きです。」

 

イエズス:「彼女を誉め崇めることが必要である! 余りにも多くの人が彼女を侮辱し、卑しめている!」

 

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P197

 

ああ、もっとも聖なるおとめよ、ああ、栄光のマリアよ、ああ、おん母よ。あなたこそは、天国の門、いのちの源、主の聖殿、聖霊のもっとも愛される聖所です。

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教137

 

我々に於けるこの信仰はエルサレムの城壁の宝石(黙示録21・17〜20)のように数多い宝石で飾られた王妃に似ております。

 

 

 

スウェーデンボルグ/新しいエルサレムの教義297

 

主の中に三一性の在ること、すなわち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している神的なものが在ることは天界から来ているアルカナ[秘義]であり、(それは)将来聖いエルサレムの中に留まる者たちのために存在している。

 

 

 

 

8.門

 

 

トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P197

 

ああ、もっとも聖なるおとめよ、ああ、栄光のマリアよ、ああ、おん母よ。あなたこそは、天国の門、いのちの源、主の聖殿、聖霊のもっとも愛される聖所です。

 

 

 

カトリック聖歌集322 ルルドの聖母

 

天(あめ)の后 天の門 海の星と輝きます アヴェ アヴェ アヴェ マリア アヴェ アヴェ アヴェ マリア

 

 

 

啓示による黙示録解説

黙示録21・21

 

『十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠で作られ』は、主を承認し、知ることにより、聖言から来ている真理と善との知識はことごとく一つに結合され、教会へ導き入れられる、を意味する(916番)。

 

 

啓示による黙示録解説916番・・・真珠/参照

 

 

 

10.豹に似た獣

 

 

スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説572

 

 「私の見たその獣は豹のようであった」(黙示録13・2)は、誤謬化された聖言の諸真理から発しているため、教会を破壊する異端を意味している。「獣」全般により情愛の方面の人間が意味され(567番)、「豹」により聖言の諸真理を誤謬化する情愛、または欲念が意味され、それは凶悪な獣であって、危害を加えない動物を殺すため、また教会を破壊する異端を意味している。「豹」は誤謬化された諸真理を意味することはその黒と白の斑点に負うている。なぜなら黒い斑点により誤謬が意味され、その間に在る白いものにより真理が意味されるからである。それでそれは猛々しい、凶悪な獣であるため、誤謬化され、かくて破壊された聖言の諸真理を意味している。

 

 

 

スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説573

 

 「その足は熊の足のようであった」(黙示録13・2)は、読まれはするが、理解されはしない聖言の文字の意義から発した迷妄[妄想]に満ち満ちている、を意味している。

 「足」により究極的なものである自然的なものが意味され、その自然的なものにより、「豹」により意味されたかの異説[異端]は生き続けて、いわば歩いているが、この自然的なものこそ聖言の文字の意義であり、「熊」により、聖言は読みはするが、それを理解はしないで、そこから迷妄[妄想]を抱く者らが意味されている。これらの者が「熊」により意味されたことは、霊界で見られた熊から、また熊の皮を着たそこの若干の者らから私に明らかとなったのであるが、彼らは凡て聖言を読んでいたが、その中に教義上の真理は何一つ認めておらず、またその中で真理の外観を確認して、そこから妄想を抱いていたのである。かの世界には危害を加える熊と、危害を加えない熊とが現れ、また白い熊も若干現れるが、しかしそれらはその頭により区別されており危害を加えないものはこうし、または羊のような頭を持っている。

 

 

 

11.子羊のような獣

 

 

聖母から司祭へ1989.6.13(ファティマ第二のご出現の記念日)

 

 最愛の子らよ、今日あなたたちは、1917年6月13日、ファティマの貧しいコヴァ・ダ・イリアにおけるわたしの第二の出現を記念しています。あの時、すでにわたしは、今あなたたちが生きている時代のことを前もって知らせたのでした。

 太陽に包まれた婦人であるわたしと、人類に神なしに生きるようにさせた大きな赤い龍との間の大いなる戦いを、わたしは知らせたのです。

 

 あなたたちを、神の律法を守ることから遠ざけて、罪と悪徳のとりこにするためにフリーメーソンが暗闇に包んだ腹黒い働きを、わたしは前もって示したのです。

 とくにわたしは、母として、今日、教会をおびやかしている大きな危険について警告しようと思いました。その危険は、教会を亡ぼそうとして加えられるたくさんの悪魔的な攻撃によるものです。

 この目的を果たすために海からのぼる黒い獣を助けるために、地からもうひとつの獣がのぼっています。「それは、子羊のような二本の角をもっている獣です」(黙示録13・11)

 

 聖書では、子羊はいつも、犠牲のシンボルでした。エジプトから出たその夜、子羊がいけにえにされ、その血をヘブライ人の家の“かもい”に塗りました。それはすべてのエジプト人に加えられる天罰から逃れさせるためでした。

ヘブライ人の過越しは、毎年このことを記念するために、子羊をいけにえとしてこれを食べます。

 カルヴァリオ山上で、イエズス・キリストは、人類のあがないのために、ご自分をいけにえに捧げ、ご自分をわたしたちの過越しとします。

 こうして、かれは、世のすべての罪をとり除くまことの神の子羊となります。

 

 

 

13.もの言う獣の像

 

 

黙示録13・15

 

「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」

 

 

 

啓示による黙示録解説

 

黙示録13・15

『その獣の像が話しもするように、その獣の像に息を与えることが彼に与えられた』は、彼らが聖言によってその教義を確認することを許され、聖言によりその教義は、それが教えられる時、謂わば生命を受けているかのようである、を意味し、『またその獣の像を崇めない者はことごとく殺されるようにすることも与えられた』は、彼らがその信仰の教義が教会の聖い教義であることを承認しない者らを弾劾して堕地獄罪を宣言することを意味している。

 

 

 

聖母から司祭へ1988.2.17

 

 テレビを見て、時間を無駄についやさないように。テレビは、どこにでも罪と不潔の暗闇を広めるために、わたしの敵が使ういちばん強い武器です。

 テレビは、黙示録の中に記されているその偶像です。その偶像は、世界のすべての国から礼拝されるためにつくられた物で、悪魔は、それに形と活力を与えます。悪魔の手の中で、いざないと腐敗との恐ろしい武器とするためです(黙示録13・15参照)。

 

テレビ

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P28〜29

 

残念なことにあの道具は、むしろ悪や毒に満ちた死をもっと広めている。(中略)この世代は、まさにこの道具によって生産された『醜聞』の数々のうちに生きている。

 

 

 

14.巨大な苦難の時期とは今

 

 

聖母から司祭へ/1987.12.31

 

巨大な苦難のしるしを理解するために、わたしは母の声であなたたちを導きます。

巨大な苦難の時期がいつであるかを理解するためには、福音書と使徒言行録と黙示録の中にその確実なしるしが書かれています。

これらのしるしは、みな、今のこのあなたたちの時代に実現しつつあります。

 

 

 

15.新しい天

 

 

スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説/序言

 

 多くの者が「黙示録」の説明に努めてきたが、しかし聖言の霊的意義がこれまで知られていなかったため、彼らはその中に隠れているアルカナ〔秘義〕を認めることが出来なかった、なぜなら霊的意義のみが、それを明らかにするからである。そのため講解者たちは色々な事柄を憶測して、その大半の者はその中に在る事柄を幾多の帝国の状態に適用し、またその中に教会の出来事に関わる事柄をいくらか混入もした。しかし黙示録は、聖言の凡てのように、その霊的意義では、世の事柄を些かも扱ってはいないで、天界の事柄を扱っており、それで帝国や王国を扱ってはいないで、天界と教会とを扱っているのである。以下のことを知っておかなくてはならない、即ち、1757年に霊界で行われた最後の審判の後で―この審判については、1758年ロンドンで単行本として出版された小著を参照されたい―キリスト教徒から新しい天界が作られたが、しかしそれは、マタイ伝28章18節の主の御言葉に従って、主を天地の神として受けることができると同時に、世にいた頃、己が悪い業を悔い改めた者たちのみから作られたのである。この天界から、新しいエルサレムである地上の新しい教会が降りつつあるのであり、また降るであろう。この教会は主のみを承認することは黙示録の以下の記事から明らかである―

 

 その七人の天使の中の一人がわたしのもとへ来て、わたしと語って、言った。来なさい、わたしはあなたに子羊の妻の花嫁を示しましょう、と。かくてかれは神から出て天から降ってくる大いなる都、聖いエルサレムをわたしに示した。(黙示録21・9−10)

 

また他の所には―

 

 楽しみ、喜び躍ろう、小羊の結婚の時が来て、その妻は備えをしたからである。幸いなるかな、小羊の結婚の晩餐に呼ばれた者たちよ(黙示録19・7、9)。

 

 新しい天界が存在して、地上の新しい教会がそこから降って来ることはそこの以下の言葉か明らかである。

 

 私は新しい天と新しい地とを見た。私は聖い都エルサレムが、夫のために身を飾った花嫁のように備えをして、神から出て天から降って来るのを見た。その王座に坐られた方は言われた、見よ、わたしは凡ての物を新しくする、と。かれはまた私に言われた、書き記しなさい、これらの言葉は真であり、信頼出来るからである(黙示録21・1、2、5)。

 

「新しい天」はキリスト教徒から発している新しい天界であり、「新しいエルサレム」は、地上の新しい教会であって、これはかの新しい天界と一つのものとなって活動するのである。「子羊」は神的な人間的なもの[神的人間性または神の人間性]の方面の主である。

 このことに若干解説のために附加しよう。そのキリスト教天界は古代の諸天界の下に存在している。その中へ、主がおられた時から、一人の神を三人格の下に拝すると同時に、三人の神を考えはしなかった者たちが入れられたのであるが、これは三人格の単一性が全キリスト教界に受け入れられているためである。

 しかし、主の人間的なもの[人間性]を他の人間の人間的なものとしか考えなかった者らは新しいエルサレムの信仰を、即ち、主がただ一人の神であられて、その中に三一性が存在しているという信仰を受けることが出来なかったのである。これらの者らはそうした理由から分離されて、辺境へ追われたのである。なぜなら天界全体は、また地上の教会全体は、全般的に凡ゆる宗教は、神を正しく考えることに基礎づけられているからである。それはその(正しい)考えによって(主との)連結が生まれ、連結によって、光と知恵と永遠の幸福が生まれるためである。

 黙示録は主のみによらなくては決して説明されることは出来ないことはたれでも認めることが出来よう、なぜならその中の各々の語にはアルカナが含まれていて、それは特別に(主から)明るくされなくては、それで啓示されなくては、決して知ることは出来ないからである。この故に主は私の霊の視覚〔霊眼〕を開いて、私に教えることを良しとされたのである。それゆえ、私が何かを私自身から得たとは、または天使から得たとも信じてはならない、私は主のみから(一切)を得たのである。主もまた天使を通してヨハネに言われた―

 

この書物の予言の言葉を封じてはならない(黙示録22・10)

 

このことによってそれらが明らかにされなくてはならないことが意味されているのである。

 

 

 

16.ミカエル

 

 

黙示録12・7−9

 

さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/信仰59

 

 『天に戦いが起こり、ミカエルとその天使たちとはその竜と戦い、竜とその使いらも戦った』は、主と仁慈の生活とに関わる教会の教義の中に留まっている者たちに対し、仁慈から分離した信仰の中に留まっている者らが見解を異にして、これと戦うことを意味し、『彼らは勝たなかった』は、彼らは征服されたことを意味し、『彼らの所もまた最早天には見出されなかった』は、彼らはそこから投げ下ろされたことを意味する。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/真の基督教300

 

ガブリエルとミカエルとは天界の二人の人物の名ではなく、天界で主に関わる知恵を享受し、主を礼拝する凡ての者を意味する。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義1705

 

天使たちはこれらの善と真理から名をつけられているのである。いかような場合にも天界の天使はいかような名も持っていない。彼らに名が述べられる源泉は善と真理である。例えば、聖言に記されている『ミカエル』やその他の天使たちはそうした名を持った天使ではなく、彼らはその果たしている務めから―それがいかようなものであっても、そこから―こうした名を得ているのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/霊界日記5747/角川文庫P204

 

主の神性のために、すなわち主と父[なる神]とは一つであるがゆえに神はひとりであるという真理のために戦い、また、信仰の生命のために、すなわち仁愛と呼ばれる生命のために戦った者たちは、すべて「ミカエル」と呼ばれている。

 

 

 

 

17.イゼベル

 

 

黙示録2・20,21

 

しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に捧げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を床に伏させよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。

 

 

 

 

18.苦よもぎ・・・ロシア語で「チェルノブイリ」

 

 

黙示録8・11

 

この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。

 

 

 

池永彰/そうだったのか! 現代史パート2/P198

 

「苦よもぎ」は、草のよもぎの一種のことで、ロシア語では「チェルノブイリ」といいます。

 

 

 

啓示による黙示録解説410

 

11節。「その星の名はにがよもぎと呼ばれ、水の三分の一はにがよもぎとなった」は、彼ら自身の理知の源泉であり、また聖言の凡ゆる諸真理を誤謬化してしまう奈落の誤謬を意味している。『星』により奈落的な愛から発した誇りから生まれる彼ら自身の理知が意味されている(408番)。

 

 

 

 

19.坑からの煙

 

 

黙示録9・1−3

 

第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。

 

 

 

啓示による黙示録解説422

 

二節.『かれはその深淵の坑を開くと、その坑から大きな炉の煙のような煙が立ち上がった』は、彼らの悪い愛から迸り出てくる自然的な人の幾多の欲念の誤謬を意味している。

 

 

 

啓示による黙示録解説423

 

「陽と空気とは坑の煙のために暗くなった」は、そのため真理の光は暗闇となったことを意味する。

 

 

 

啓示による黙示録解説424

 

三節.「煙から地の上はいなごが出てきた」は感覚的なものになって、凡ゆる物を感覚とその迷妄から認め、判断する者らを支配している、最も外なる部分における誤謬と呼ばれて、感覚的なものとも呼ばれ―それについては間もなく述べよう―これらは聖言では『いなご』により意味されている。

 

しかしそれら跳ね回って、草地と作物を食い荒らしてしまう畠のいなごのようには現れないで、ピグミーまたは小人のように現れたことを知っておかなくてはならない。そのことはまた、彼らについて、『彼らは頭に冠をつけ、人間のような顔を、女のような髪を、獅子のような歯を、鉄の胸当てをもち、また彼らを治める王である深淵の使いを持っていた』と記してあることから明白である。(中略)

 

最も外なる部分における誤謬が、畑の草、薬草を食い尽くす『いなご』により意味されているのは、それらが人間の中に迸り出てきて、教会の真理と善とを食い尽くしてしまうためである、そのことは以下の記事から明白となるであろう―

(後略)