洪水干ばつ

 

 

 

1.知識

2.誤謬

3.水で洗う

4.水を汲む

5.水槽

 

 

 

 

詩篇66・10―12

 

神よ、あなたは我らを試みられた。

銀を火で練るように我らを試された。

あなたは我らを網に追い込み

我らの腰に枷をはめ
人が我らを駆り立てることを許された。

我らは火の中、水の中を通ったが

あなたは我らを導き出して

豊かな所に置かれた。

 

 

 

1.知識

 

 

天界の秘義28

 

創世記1章10節。「神は乾いた(地)を地〔大地〕と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた、神はそれが善いことを見られた。」

聖言では『水』は知識(cognitiones et scientifica)を意味し、従って海は知識の集まったものを意味することは極めて普通の事である。例えばイザヤ書には―

 

水が海を蔽うように、地〔大地〕はエホバを知る知識(scientifica)に満ちるであろう(イザヤ11・9)。

 

そして同じ予言者の書の中で諸々の知識(cognitionum et scientificorum)を取り扱っているところには

 

水は海から涸れ、川は乾いて、全く乾せ上がり、流れは後に退くであろう(19・5,6)。

 

ハガイ書には、新しい教会を語って―

 

わたしは天と地とを揺り動かし、海と乾いた(地)を揺り動かそう、わたしは凡ゆる国民を揺り動かそう、凡ての国民の望んだものは来て、わたしはこの家に栄光を満たそう(2・6,7)。

 

そして再生の過程にある人間については、ゼカリヤ書に―

 

一つの日があるであろう、それはエホバに知られている、日ではない、夜でない、夕暮の時に光が在るようになるであろう。その日生きた水がエルサレムから流れ出て、その一部は東の海に、その一部は後の海に向うであろう(14・7、8)。

 

ダビデもまた再生し、主を拝する剥奪された人間を記して―

 

エホバは、その捕われ人を軽しめられない、天と地、海とその中を這う凡ての物は彼をほめ賛えるであろう(詩篇69・33、34)。

 

『地』は受ける者を意味することはゼカリヤ書に現れている―

 

エホバは天を張り、地の基を据え、人の霊をその最中に形作られる(12・11)。

 

 

 

天界の秘義3384[3]

 

 ああ、多くの水の上に住み、財宝の大いなる者よ、お前の終わりを来た、おまえの利得を測られることが(エレミア51・13)

 

 これはバベルをとり扱っており、『多くの水の上に住むこと』は真理にかかわるいくたの知識の中にいることを意味している。

 

 

 

黙示録講解71

 

『水』の意義は、信仰の諸真理であり、また真理のいくたの知識である(そのことについては天界の秘義2702、3058、5668、8568、10238番を参照)、(後略)

 

 

 

黙示録講解71(2)

 

しかし私は若干の記事を引用しよう、そこから『水』は信仰の諸真理を意味し、同様に、真理の諸々の知識を意味していることを知ることが出来よう。イザヤ書には以下のように―

 

地は水が海をおおうように、エホバを知る知識に満ちている(イザヤ11・9)。

 

同書に―

そのとき楽しんであなたらは救いの泉から水を汲み出すであろう(12・3)。

(後略)

 

 

 

 

2.誤謬

 

 

天界の秘義790

 

 ここと以下の節の『水』はいくたの誤謬を意味していることは、本章の始めに、また6節に引用された聖言の記事から明白であり、そこには『洪水』または水の氾濫がとり扱われているのである。水の氾濫は荒涼と試練とを意味しており、それら[荒涼と試練]は誤謬と同じものを含んでいることがそこに示されている、なぜなら荒涼と試練とは悪霊によりかい立てられる誤謬の氾濫以外の何ものでもないからである。こうした『水』が誤謬を意味しているのは、聖言には全般的に『水』は霊的なものを意味しており、すなわち、理解と理性と記憶知とに属したものを意味しており、これらのものを意味しているため、またその反対のものをも意味しているためである、なぜなら誤謬はことごとく記憶知に属したものであり、またそれは思考に属しているため、理性と理解との事柄として現れているからである。

 

 

 

天界の秘義790[2]

 

『水』は霊的なものを意味していることは聖言の多くの記事から明白であり、それはまた誤謬を意味していることは、すでに引用した記事に加えて、以下の記事からも確認できよう。イザヤ書には―

 

  この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒んだ、それで見よ、主はかれらに強い多くの川の水をもたらしたもう、かれはその岸をことごとく越えるであろう(8・6,7)。

 

 『ゆるやかに流れる水』はここでは霊的なものを、『強い多くの水』は誤謬を意味している。さらに―

 

  わざわいなるかな、エチオピアの川の彼方に在って、翼で蔭る地よ、かれは海に使節を送り、水の上にパピルスの舟をもって(送る)。迅速な使者たちよ、計られ、踏みにじられた国民に行けよ、その地は川のために荒れすたれてしまった(18・1,2)。

 

 これは『翼で蔭る地』に属した誤謬を意味している。

 

 

 

天界の秘義790 []

 

さらに―

 

  あなたが水の中を通り過ぐるときも、わたしはあなたとともにいよう、川を通してそれはあなたの上に溢れはしない(43・2)。

 

 『水』と『川』はいくたの困難を、また誤謬を意味している。エレミヤ記には―

 

  あなたはエジプトの道に何のかかわりがあって、シホルの水を飲むのか。アッシリアに何のかかわりがあって、その川の水をのむのか(2・18)。

 

 ここの『水』は理論から発した誤謬を意味している。さらに―

 

 川のようにわき上がるこの者はたれか。その水は川のようにたちさわいでいる。エジプトは川のようにわき上がり、その水は川のように自らを揺るがしている。かれは言った、わたしは立ち上がろう、わたしは地をおおう、わたしは都とその住民とを破壊しよう、と(46・7,8)。

 

 ここでも『水』はまた理論から発した誤謬を意味している。

 

 

 

 

3.水で洗う

 

 

天界の秘義1002

 

「水で洗う」

信仰の諸真理により清めること

3147、5954、9088

 

 

 

天界の秘義2702[6]

 

さらに同書には―

 

 イエスは言われた。たれでももし渇くなら、わたしのもとに来て、飲みなさい、たれでもわたしを信じる者は、聖書が言っているように、その腹から生きた水の川が流れるでしょう(ヨハネ7・37、38)。

 

また同書には―

 

 王座の真中におられる子羊はかれらを養い、かれらを生きた水の泉の中へ導き入れられるであろう。神はかれらの目から涙をことごとくぬぐい去られるであろう(黙示録7・17)。

 

同書に―

 

 わたしは渇く者に価なしに生命の水の泉から飲ませよう(黙示録21・6)。

 

『生きた水の川』と『生きた水の泉』は、主から、または、主の聖言から発している真理を意味している。

 

なぜなら主は聖言であられるからである。専ら主のみから発している愛の、また仁慈の善は真理の生命である。真理の愛と情愛の中にいる者は[真理を愛し、真理を求める情愛の中にいる者は]『渇く』と言われており、それ以外の者は『渇く』はずはないのである。

 

 

 

天界の秘義2702[17]

 

このすべてから、今や、聖言で『水』により意味されていることを知ることができよう。またそこから洗礼における水により意味されていることも知ることができるのであり、そのことについては主はヨハネ伝で以下のように話されているのである―

 

 人は水と霊から生まれないかぎり、神の国に入ることはできない(ヨハネ3・5)。

 

すなわち、『水』は信仰の霊的なものであり、『霊』は信仰の天的なものであり、かくて洗礼は人間が主により信仰の諸真理と諸善とにより再生することのシンボルである。再生が洗礼により行われるのではなくて、洗礼の中に意味されている生命[生活]により行われるのであり、その生命[生活]の中へ、聖言を持っているため、信仰の諸真理を持っている基督教徒は入らなくてはならないのである。

 

 

 

黙示録講解375ホ(27)

 

『水で洗うこと』は真理により改良し、純潔にすることを意味

                   

 

 

 

4.水を汲む

 

 

天界の秘義6770

 

『彼らは来て、(水を)汲み』は、彼らは聖言から諸真理を教えられたことを意味し、『水槽を満たし』は、そこから彼らは仁慈の教義を豊かにしたことを意味し、(中略)

『彼らは言った、一人のエジプトの男の人が私たちを羊飼いの手から助け』は、教会のものである真の記憶知が悪から発した誤謬の教義に打ち勝ったために、を意味し、『また私たちのために(水を)汲みに汲んで』は、彼は聖言から教えたことを意味し、『羊に飲ませた』はそこの教会に属した者たちを意味している。

 

 

 

 

5.水槽

 

 

天界の秘義6777

 

「水槽を満たし」。これは彼らがそこから仁慈の教義を豊かにしたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『井戸から満たすこと』の意義は、そこから、または聖言から豊かにすることであり、『水槽』の意義は仁慈の教義である。『水槽』または『たらい』が仁慈の教義であることは、それが木の桶であって、その中へ水が井戸から汲み出されて入れられ、羊に飲ませるためである、なぜなら『木』に属したものは、その内意では仁慈の善を意味し(3720番)、『汲むこと』は教えられることを意味し(3058、3071番)、汲まれる『水』は信仰の真理を意味し(2702、3058、4976、5668番)、水がそこから汲み出される『井戸』は聖言を意味し(2702、3424、6774番)、『羊に飲ませること』は聖言から善を教えることを意味するからである(3772番)。この凡てから『水槽』は仁慈の教義であることは明白である。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P79

‘44.1.25

 

 それからイエズスはわたしに言われる。

 マリアよ、しかし、を垣間見るために目覚めさせられ、導かれる必要のある人びとに、その様々な顕示によって、わたしの神性を広める役割のために貴女を選んだのだから、貴女が見ていることを繰り返すに当っては、極度に用意周到であることを思い出しなさい。どんなくだらない一句にも或る価値があるし、しかも貴女の一句ではなく、わたしの一句なのだ。だからそれをあなたが押さえておくのは正当ではない。不誠実であり利己的だといえよう。貴女は、皆がその水を汲みに来るためにそこに流れ込む神聖な水の貯水槽だということを思い出しなさい。