状態の変化真理に対する情愛

 

 

 

1.真理を愛する情愛により内に根を張っている信仰の諸真理は天使たちが働きかける面

2.良心

3.感覚的なものが最初の面であり、次に記憶知が第二の面となり

 

 

 

1.真理を愛する情愛により内に根を張っている信仰の諸真理は天使たちが働き掛ける面

 

 

天界の秘義5893[3]

 

それがそうであることは多くの経験から私には明白なのである。なぜなら私は、悪霊らが悪と誤謬とを注ぎ入れると、その時主から遣わされている天使たちは私をすでに植えつけられている諸真理の中に守って、私を悪と誤謬から守ったからである。このことからまた、真理を愛する情愛により内に根を張っている信仰の諸真理は天使たちが働きかける面となっていることが明らかとなったのである。それでこの面を持たない者は天使たちにより導かれることは出来ず、地獄により導かれるままになるのである。なぜならその場合天使たちの働きは何処にも固定することは出来ないで、流れ通ってしまうからである。しかしこの面は信仰の諸真理が実行され、そのことによって意志の中に植えつけられ、意志を通して生命の中に植えつけられない限り、得られることは出来ないのである。以下のこともまた記すに価しよう。即ち、人間のもとに在る信仰の諸真理へ天使たちは滅多に明らさまには働きかけはしないのである。即ち、その真理について考えることを掻き立てるようには働き掛けはしないのであり、その真理に一致している事柄を全般的に考えることが、情愛と共に生み出されるのである。なぜなら(天使たちの)この働き掛けは認知出来ない流入により行われ、その流入は視覚に示されると、流れ入ってくる光のように現れ、その光は善における無数の諸真理から成り、その諸真理は人間の中の何か単一な物を取り囲んで、人間を真理の中に止め置きつつも、またその真理を愛する愛の中に止め置くからである。このように、天使たちは人間の心を誤謬から高揚させて、彼を悪から守るのである。しかしこうした事柄は人間には全く知られてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義6007

 

その時記憶知は彼にその精神活動の究極的な面(プレイン)として役立つからである。

 

 

 

天界の秘義6645〔2〕

 

 人間における教会の実情はそれが継続的に新しい状態を経るということである、なぜなら人間は信仰の真理と仁慈の善とを強められるに応じて、他の状態へ導き入れられ、かくて前の状態はそれに続く状態に対する面となり、しかもそれが絶えず続いて行われるからである。かくて教会であり、または再生しつつある人間は絶えず更に内的なものの方へ導かれ、かくて天界の更に内部へ導かれて行くのである。

 

 

 

2.良心

 

 

天界の秘義762

 

 しかし霊的な試練は現今殆ど知られていない。またそれは以前ほどに許されてもいない、それは人間は信仰の真理の中にはいないし、それで屈服してしまうためである。これらの試練に代って自然的な身体的な原因から生まれている不運、悲哀、心労といった他のものがあり、また人間の幾多の快楽と欲念の生命をある程度押さえ、破って、彼の思いを内的な宗教的な主題に方向づけ、高揚させるところの身体の病気、疾患といった他のものもあるのである。しかしこれらは霊的な試練ではなく、霊的な試練は主から真理と善との良心を受けた者たちによってのみ経験されるのである。良心はそれ自身諸々の試練の面であり、その中に試練が行われるのである。

 

 

 

天界の秘義3957[7]

 

 知られることも出来る第六の事柄は以下のことである、即ち、天界はまたは主は天界を通して絶えず善と真理とをもって働かれ、流れ入られつつあるが、その時人間の中に―身体の死後生きるところのその内的な人間の中に―善と真理とを受ける何らかのものが、土地または面として存在していないなら、流れ入ってくる善と真理とは受け入れられることは出来ないのであり、そうした理由から人間は身体の中に生きている間に自分自身の中にそのような面を得るように心を配らなくてはならないが、しかしそれは隣人に対する善いことを考えることによらなくては、また彼に善いことを欲することによらなくては、それで彼に善いことを為し、かくてそのようなことに生命の歓喜を得ることによらなくては、得られることは出来ないのである。この面は隣人に対する仁慈により、即ち、相互愛により得られて、良心と呼ばれるものである。この面の中へ主から善と真理とが流れ入り、その中に受け入れられることが出来るが、しかし仁慈が無く、従って良心も無い所には受け入れられはしないのである、なぜならそこでは流れ入ってくる善と真理とは通り抜けて、悪と誤謬とに変化するからである。

 

 

 

天界の秘義4167

 

人間の中には主から発している天的なものと霊的なものとが基礎づけられている二つの面が存在している。一つの面は内的なものであり、他の面は外的なものである。面そのものは良心以外の何ものでもない。これらの面が無いなら(即ち、良心が無いなら)、主から発している天的なものと霊的なものは決して固定することは出来ないのである、なぜならそれは水が篩(ふるい)を通って流れるように流れ通ってしまうからである。こうした理由からこのような面を持っていな(即ち良心を持っていない)者らは良心とは何であるかを知ってはいない、否、彼らは何か霊的なものが天的なものが在ることを信じてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義4167[2]

 

 内的な面または内的な良心は純粋な意味における善と真理とが存在するところである、なぜなら主から流れ入ってくる善と真理とはこの良心を活動させるからである。しかし外的な面は外的な良心であり、その本来の意味における正しい公平なものが存在するところである、なぜなら同じように流れ入ってくるところの道徳的な種類のもののみでなく、社会的な民法的な種類のものである正しい公平なものがそれを活動させているからである。また最も外なる面があり、それも同じように良心のように見えるが、しかしそれは良心ではない、即ち、自己と世のために、即ち、自らの名誉または名声のために、世の富と所有とのために、また法律に対する恐れのために正しい公平なことを為すことである。この三つの面は人間を支配しているものであり、即ち、それらは主が人間を支配される手段である。内的な面により(即ち、霊的な善と真理との良心により)主は再生している者たちを支配されるのである。外的な面により(または正しい公平なものの良心により、即ち、道徳的な種類のもののみでなく、社会的な種類のものである善い真のものの良心により)主は、未だ再生してはいないが、しかし再生することが出来、また再生しつつある者たちを、もし身体の生命の中でそのことが行われないにしても、それでも他生でそのことが行われる者たちを支配されるのである。しかし良心のように見えるが、良心ではないところの最も外なる面により、主は他の凡ての者を、悪い者をさえも支配されている、なぜならそのようにして治められないなら、これらの者は凡ゆる邪悪な狂った事柄へすら突入し、この面の拘束がない時は実際そのように突入するからである。自分自身がこれらの面により支配されることに甘んじない者はすべて狂っているか、または法律に応じて罰せられるかするのである。

 

 

 

天界の秘義9122

 

世で良心を受けなかった者らは他生で良心を受けることは出来ない。かくて彼らは救われることは出来ない。なぜなら彼らは面(プレイン)を―その面の中へ天界が(即ち主が天界を通して)流れ入って、それによって働き掛け、かくして彼らを天界自身へ引き寄せることが出来るが、そうした面を―持っていないからである。なぜなら良心は天界の流入を受ける面であり、またその容器であるからである。それで他生ではこうした人間は何ものにもまさって自分自身と世とを愛している者らと共に結びつくが、こうした者らは地獄にいるのである。

 

 

 

3.感覚的なものが最初の面であり、次に記憶知が第二の面となり

 

 

天界の秘義6751

 

「彼は彼女の息子となった」。これはそこからそれが最初の諸真理を得たことを意味していることは以下から明白である、即ち、ここに『彼女』により意味されているパロの娘の表象は記憶知に対する情愛であり(6750番を参照)、『息子』の意義は真理であり(489、491、533、2623、3373番)、ここでは最初の真理である、なぜなら『彼女の息子となること』は記憶知により最初の諸真理の中にいることを意味するからである、なぜなら最初の諸真理は記憶知から生れ、かくて記憶知の情愛である母から生れた息子のようなものであるから。(記憶知は理解と信仰のものである諸真理に対する面であることについては、前の6750番を参照。)人間は再生しつつある時は、信仰の事柄において進んで行く有様は、彼が成熟しつつある時信仰に属していない諸真理において進んで行くのと殆ど変りがないのであり、この後の成長の場合では、感覚的なものが最初の面であり、次に記憶知が第二の面となり、この二つの面から後に判断力が、人各々により多少の相違をもって成長するのである。人間の再生の間では、信仰の全般的なものが、または教会の教義の基本的なものが最初の面となり、次に教義と信仰との個別的なものが面となり、その後更に内的なものが続いて面となって行くのである。これらの面は天界の光により明るくされるものであり、そこから理知的なものが生れ、また信仰と仁慈の善とを認識する力が生れて来るのである。