狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す(イザヤ11・6)

 

1.聖書

 

 

 

列王記下2・23−24

 

エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。

 

 

 

イザヤ11・6−9

 

狼は子羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ

その子らは共に伏し

獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては

何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

 

 

 

黙示録13・1−4

 

わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」

 

 

 

黙示録13・2

 

『私の見た獣は豹に似ていた』は、誤謬化された聖言の真理から由来しているために教会を破壊する異端を意味し、『その足は熊の足のようであった』は、読まれはするが、理解はされない聖言の文字の意義から発した迷妄〔妄想〕に満ちている、を意味し、『その口は獅子の口のようであった』は、恰も真理から発しているかのように、誤謬から発している理論を意味し、『その竜は彼にその力とその王座と大いなる権威を与えた』は、この異端が一般信徒から受け入れられる結果、全般に行き渡って、支配することを意味している。

 

 

 

 

天界の秘義3301[9]

 

『禿頭』は、しかしながら、真理を何ら宿していない自然的なものを意味したのであり、例えばイザヤ書には―

 

 かれはバイィテに、デボンに、高い所に上って行き、ネボのために嘆き、モアブはメデバのために泣き叫ぶ[吠える]であろう、かれらの頭はことごとく禿げ、ひげはことごとく剃られている(イザヤ15・2)

 

 同書には―

 

 編物に代って禿げが在り、美しいものに代ってやきあとが在るようになるであろう(イザヤ3・24)

 

エリシャに『禿頭よ、上ってこい、禿頭よ、上ってこい』と言った子供たちは森からでてきた熊により千々に引き裂かれてしまったことは(列王記下2・23、24)、聖言には真理は何ら宿っていないかのように言って、それを涜す者らを表象したのである、なぜならエリシャは主を聖言の方面で表象したからである。このことから当時表象的なものの中にいかほどの力が在ったかが今や明らかである。

 

 

 

天界の秘義3696[4]

 

 イザヤ書には―

 

 狼は小羊と共に住み、豹は子山羊と共に臥し、子牛と若い獅子とは共に臥し、小さな子供が彼らを導くであろう。雄牛と熊とは食べ、その年若い子供らは共に臥すであろう(イザヤ11・6、7)。

 

 ここには主が取り扱われ、またその王国における平安の状態が取り扱われている。彼らが共に臥すであろうということは彼らはいかような悪にも誤謬にも悩まされることは出来ないことを意味している。ホゼア書には―

 

 かの日わたしは彼らのために畠[野]の野獣、天[空]の鳥、地の這う物と契約を立てよう、わたしは弓と剣とを折り、地から戦をなくし、彼らを信頼の中に安らかに臥させよう(ホゼア2・18)。

 

 ここにも同じく『臥すこと』は、不安を引き起こすところの幾多の誤謬と悪とが除かれて生まれてくる静謐の状態を意味している。

 

 

 

真の基督教223

 

髪はこのような象徴的な意義のために、極めて聖いものであった故、聖言の方面の主であるところの人の子は「雪のように白く、羊毛のように白い」髪の毛を持ち給うものとして記されている(黙示録1・14)。日の老いた者も亦このように記されている(ダニエル7・9)髪はその究極的なものに於ける真理を意味し、それ故聖言の文字的な意義を意味する故、霊界では聖言を聖なるものとして尊ぶ者は美しい髪を与えられている。この相応御言葉のために、エリシャを禿頭と呼んだ四十二人の子供達は二匹の牝熊によって千々に引き裂かれた。(列王記下2・23、24)何故なら、エリシャは聖言から発する教義に方面の教会を表わし、牝熊はその究極的なものに於ける真理の力を意味するからである。神的真理、即ち、聖言の能力は文字の意義の中にあるのは、聖言は天使と人間に適合したその意義に於いてその完全な状態に在るからである。

 

 

 

天界の秘義3301[9]

 

『禿頭』は、しかしながら、真理を何ら宿していない自然的なものを意味したのであり、例えばイザヤ書には―

 

 かれはバイィテに、デボンに、高い所に上って行き、ネボのために嘆き、モアブはメデバのために泣き叫ぶ[吠える]であろう、かれらの頭はことごとく禿げ、ひげはことごとく剃られている(イザヤ15・2)

 

 同書には―

 

 編物に代って禿げが在り、美しいものに代ってやきあとが在るようになるであろう(イザヤ3・24)

 

エリシャに『禿頭よ、上ってこい、禿頭よ、上ってこい』と言った子供たちは森からでてきた熊により千々に引き裂かれてしまったことは(列王記下2・23、24)、聖言には真理は何ら宿っていないかのように言って、それを涜す者らを表象したのである、なぜならエリシャは主を聖言の方面で表象したからである。このことから当時表象的なものの中にいかほどの力が在ったかが今や明らかである。

 

 

 

天界の秘義3218

 

 その天使たちが情愛の中にいると同時にその情愛について話し合っていると、その時は霊たちの間の低いスフィアの中にこのような事柄はそれを表象している色々な種類の動物の中へ落ち込むのである。善い情愛について話されていると、ユダヤ教会の表象的な神礼拝に生贄に用いられたような美しいおとなしい有益な動物が示されるのである、例えば小羊、羊、小山羊、雌山羊、雄羊、子牛、若牛、雄牛が示され、またその時何であれその動物の上に現れるものはことごとく彼らの思いの何らかの映像を示しており、正しい善良な気質の霊たちはそれを認めることが出来るのである。このことはユダヤ教会の祭儀に用いられた動物により意味されたことを、また聖言に記されているその動物により意味されていることを、すなわち、情愛を示しているのである(1823、2179、2180番)。しかし悪い情愛について交わされる天使たちの談話は、虎とか、熊とか、狼とか、蛇とか、二十日鼠とかそういった嫌忌すべき、凶暴な、無益な獣により表象されており、これらの情愛もまた聖言の同じ獣により意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義5198[2]

 

 何であれ聖言に記されている獣はすべて情愛を意味していることは、すなわち、悪い無益な獣は悪い情愛を意味しているが、しかし優しくて有益な獣は善い情愛を意味していることは、前の45、46、142、143、246、714、715、719、776、1823、2179、2180、3218、3519番に見ることができよう。こうした意義の原因は霊たちの世界における表象的なものから起っている、なぜなら天界の者たちが情愛について語っているとき、霊たちの世界にはそうした種類の情愛に相応した獣が表象されるからである。これをわたしはしばしば見ることを許されたのであり、なぜそうしたことが起るのかと時々不思議に思ったのであるが、しかし獣の生命は情愛以外の何ものでもないことを認めたのである、なぜなら彼らは理性のない本能から情愛に盲従し、かくて各々のものはそのもの自身の用へと連れ去られて行くからである。これらの理性のない情愛には、地上で獣が身につけて現れている身体の形以外のものは適応していないのである。ここから情愛についてのみ話が交わされていると、このような獣の身体の形に類似しているその情愛の究極的な形が現れてくるのである、なぜならこれらの情愛はその情愛に相応した形以外の形を着せられることは出来ないからである。私はまた奇妙な獣を見たことがあるが、それはこの世の何処にも存在しないものであり、未だ知られていない、混合した幾多の情愛の形であった。

 

 

 

 

天界の秘義9140

 

獣はすべてそれがいかような種族、種類のものであれ、情愛を意味し、優しくて有益な獣[有用な獣]は善良な情愛を、凶悪で無益な[無用な]獣は悪い情愛を意味している。