狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す

イザヤ11・6

幼児虐待無邪気

 

イザヤ11・6−10

 

狼は子羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ

その子らは共に伏し

獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては

何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来れば

エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ

国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。

 

 

 

天界の秘義3519[4]

 

 外なるまたは自然的な人の無垢の真理と善とが『子山羊』と『雌山羊』により意味されていることは聖言の以下の記事から明白である。イザヤ書には―

 

 狼は小羊とともに宿り、豹は子山羊とともに臥し、子牛と若いししと羊とは共になり、小さな子供がかれらを導くであろう(イザヤ11・6)。

 

ここには主の王国がとり扱われていて、主の中にいるために、悪から来る恐怖の無い、または地獄のために恐れる恐れのない状態がとり扱われている。『小羊』と『子山羊』は、無垢の中にいる者たちを意味し、これらの者は凡ての者の中でも最も安全であるため、最初に言われているのである。

 

 

天界の秘義3696[4]

 

 イザヤ書には―

 

 狼は小羊と共に住み、豹は子山羊と共に臥し、子牛と若い獅子とは共に臥し、小さな子供が彼らを導くであろう。雄牛と熊とは食べ、その年若い子供らは共に臥すであろう(イザヤ11・6、7)。

 

 ここには主が取り扱われ、またその王国における平安の状態が取り扱われている。彼らが共に臥すであろうということは彼らはいかような悪にも誤謬にも悩まされることは出来ないことを意味している。ホゼア書には―

 

 かの日わたしは彼らのために畠[野]の野獣、天[空]の鳥、地の這う物と契約を立てよう、わたしは弓と剣とを折り、地から戦をなくし、彼らを信頼の中に安らかに臥させよう(ホゼア2・18)。

 

 ここにも同じく『臥すこと』は、不安を引き起こすところの幾多の誤謬と悪とが除かれて生まれてくる静謐の状態を意味している。

 

 

天界の秘義3994[3]

 

 『小羊』は無垢を意味していることは聖言の多くの記事から認めることができよう。そのことを確認するためにその中から以下のものを引用してよいであろう。イザヤ書には―

 

 おおかみは小羊とともに住み、ひょうは子山羊とともに臥し、子牛と若ししと乳飲み児とはともになり、小さな子供がかれらを導くであろう(イザヤ11・6)。

 

ここにとり扱われている主題は主の王国であり、その王国における平安と無垢との状態である。『おおかみ』は無垢に反抗している者たちを意味し、『小羊』は無垢の中にいる者たちを意味している。

 

 

天界の秘義5608[7]

 

 イザヤ書には―

 

 め牛と熊は食べ、その子どもはともに臥し、乳飲み児は蝮の穴の中で遊ぶであろう(イザヤ11・7、8)。

 

 これは主の王国について、とくにその中の平安または無垢の状態を語っているのである。『乳飲み児』は無垢を意味しており、悪は一つとして無垢にいる者たちにはふりかかるはずがないことが『乳飲み児が蝮の穴に遊んでいること』により意味され、『蝮』は極めて狡猾な者らである。この章は明らかに主に関係しているのである。

 

 

(幼児たちは、悪霊共がその場に居合わせて、彼らに害を加えようと努めはするものの、戯れることが出来、決していかようなものも恐れはしないことについて。)

 

霊界日記2119

 

 私は今日、また幾度も前に、幼児たちと共にいることを許され、彼らが無邪気に戯れていた際―なぜなら幼児たちが行う一切のものの中には無邪気〔無垢〕が在るからであるが―以下のことを経験したのである、すなわち、その際周りに邪悪な霊共が怒り狂って、幼児たちを中傷し、そしり、それで彼らに危害を加えようとしたが、幼児たちはそうした者らがその場に居合わせて自分らをののしっていることを全く知らないときは常に何一つ恐れはしないのであり、もしそのことを知ったにしてもその無垢〔無邪気〕により依然守られるのであり、かくて獅子と熊とは羊と共に臥し、乳呑み児はほら穴で蛇とともに戯れるようになるのである。1748年〔60歳〕5月29日。イザヤ書11・6、8参照。