髪
天界の秘義3301
また『毛』の意義は自然的なものの真理の方面である。『髪の毛[毛]』または『頭の毛』がしばしば聖言に言われていて、そこでは自然的なものを意味しているが、その理由は髪の毛は人間の最も外なる部分における発生物であって、それは丁度自然的なものを意味しているが、その理由は髪の毛は人間の最も外なる部分のおける発生物であって、それは丁度自然的なものもまた人間の合理的なものに対しては、またその内的なものに対してはそのようなものとなっているということである。人間は身体の中に生きている間は、自然的なものがかれの一切であるかのようにかれには見えるが、しかしこれは真のことであるどころか、自然的なものは、毛髪が身体の色々な物から自然に発生しているように、むしろ人間の内なるものから(自然に)発生しているものなのである。その二つのものもまたほとんど同じように内なるものから発しているのである。ここから身体の生命の中でたんに自然的なものにすぎなかった人間は、他生では、その状態に応じて目に示されると、恰もその顔全部が毛髪で蔽われているかのように現れてくるのである。さらに人間の自然的なものは頭髪により表象されており、それが善から発している時は、それは似合った、念入りに整えられた毛髪により表象されるが、善から発していない時は、似合わない、乱れた毛髪により表象されているのである。
天界の秘義3301[9]
『禿頭』は、しかしながら、真理を何ら宿していない自然的なものを意味したのであり、例えばイザヤ書には―
かれはバイィテに、デボンに、高い所に上って行き、ネボのために嘆き、モアブはメデバのために泣き叫ぶ[吠える]であろう、かれらの頭はことごとく禿げ、ひげはことごとく剃られている(イザヤ15・2)
同書には―
編物に代って禿げが在り、美しいものに代ってやきあとが在るようになるであろう(イザヤ3・24)
エリシャに『禿頭よ、上ってこい、禿頭よ、上ってこい』と言った子供たちは森からでてきた熊により千々に引き裂かれてしまったことは(列王記下2・23、24)、聖言には真理は何ら宿っていないかのように言って、それを涜す者らを表象したのである、なぜならエリシャは主を聖言の方面で表象したからである。このことから当時表象的なものの中にいかほどの力が在ったかが今や明らかである。
天界の秘義5569
何であれ巨大人と相応したものをもっているものはすべて天使たちと霊たちにより持たれている、なぜなら人各々は映像として巨大人を表象しており、それで天使たちは髪を適当にまたきちんとととのえている。その髪はその自然的な生命を、またその生命の霊的生活との相応を表象している。『髪』は自然的な生命のいくたの物を意味していることは前に見ることができよう(3301番)、また髪をつむことは自然的な物が似つかわしく、かくて美しくなるようにそれを調整することを意味している(5247番)。
天界の秘義5571
自然が一切の物であると信じて、そのことを確認し、そのため死後の生命を承認しないし、かくて地獄も天界も認めないで無頓着な生活を送った者らは、たんに自然的なものであるからには、天界の光の中では、いかような顔も持たないで現れ、顔の代わりに、ひげのような、髪のような、調髪もしていないものを持って現れてくる、なぜなら前に言ったように、顔は人間の内部にある霊的な天的なものを表象するが、しかし髪は自然的な物を表象するからである。
啓示による黙示録解説47
『頭』により最初のものにおける愛と同時に知恵が意味されているため、『髪』により究極的なものにおける愛と知恵が意味され、『髪』はここでは聖言の方面の主であられる人の子について言われているため、その『髪』により、聖言の究極的なものにおける、愛に属した神的善と知恵に属した神的真理とが意味されており、聖言の究極的なものとは聖言の文字の意義に含まれているものである。この意義における聖言が『人の子の髪』により、または主の髪により意味されていることは背理のように見えるかもしれないが、しかしそれでもそれは真であり、このことは「聖書にかかわる新しいエルサレムの教義」の中に引用されている聖言の記事から明らかとなるであろう(35−49)、そこにはまた、イスラエル教会のナザレ人は、聖言の文字の意義であるところの、究極的なものにおける聖言の方面の主を表象したことが示されている。なぜなら、ナザレ人はヘブル語では髪、または巻毛であり、そこから母の胎からナザレ人であったサムソンはその髪の中に力をもっていたのである。同様に神的真理は、聖言の文字の意義の中に、その力を発揮することは、前述の「聖書にかかわる教義」の中に見ることができよう(37−49番)。それで、また、大祭司とその息子たちはその頭に剃刀をあてることを厳しく禁じられたのである。この理由から、四十二人の少年らは、エリシャを『禿げ』と呼んだため、二頭の熊により千々に引き裂かれたのである。エリシャは、エリヤのように、聖言の方面の主を表象した。『禿げ』は、前に言ったように、文字の意義である究極的なもののない聖言を意味し、『熊』は聖言の内なる意義から分離した聖言の文字の意義を意味している。それらを分離する者らはまた霊界では遠方では熊のように見えるのであって、そこからその少年らがそのような目にあった理由が明白である。それで禿げにすることは最大の恥辱であり、極度の悲嘆のしるしであった。そうした理由からイスラエル民族が聖言の文字の意義をことごとく歪めてしまった時、彼らは以下のように嘆かれたのである―
そのナザレ人は雪よりも白く、乳にもまさって白く輝き、その形は黒色にもまさって暗く、彼らはちまたに知られてはいない(哀歌4・7,8)。
また―
頭はことごとく禿になり、肩はことごとくその毛髪をむしりとられた(エゼキエル29・18)。
恥辱は凡ての顔に在り、禿げが凡ての頭に在るであろう(エゼキエル7・18)。
(中略)
『髪』により聖言の文字の意義が意味されていることは霊界にいる者らから明白に現れており、聖言の文字の意義を軽べつした者らはそこでは禿げ頭になって現れるが、それに反し、聖言の文字の意義を愛した者たちは、そこで似つかわしい髪をもって現れている。
天界の秘義9656
凡ての頭は禿げ、ひげはことごとく剃られた(イザヤ15・2)。
『頭の禿げ』は内部に善と真理が皆無であることを意味し、『ひげが剃られている』は外部に善と真理が皆無であることを意味しているのである。
スウェーデンボルグ/真の基督教223
髪はその究極的なものに於ける真理を意味し、それ故聖言の文字的な意義を意味する故、霊界では聖言を聖なるものとして尊ぶ者は美しい髪を与えられている。この相応のために、エリシャを禿頭と呼んだ四十二人の子供達は二匹の牝熊によって千々に引き裂かれた。(列王記下2・23,24)何故なら、エリシャは聖言から発する教義の方面の教会を表し、牝熊はその究極的なものに於ける真理の力を意味するからである。
聖書35[3]
聖書35[4]
『髪』は究極的なものにおける真理を意味しているため、霊界では聖言を軽蔑し、その文字の意義を誤謬化する者は凡て禿頭となって現れているが、それに反しそれを尊敬し、愛する者はその者に似つかわしい髪をもって現れている。この主題についてはまた以下を参照(49番)。