着物

 

 

上着下着

 

 

 

1.真理

2.霊たちの衣服

3.ヴァッスーラ

4.着がえ

5.刺しゅう、レース

6.聖言から発している信仰の諸真理

7.着物を洗う

 

 

 

 

1.真理

 

 

天界の秘義5954[2]

 

 聖言では『着物』により真理が意味されていることは、血管が血液の、繊維が(動物)精神の着物となっているのと殆ど同じように、真理が善の着物となっているためである。『着物』が真理を意味していることは、霊も天使も着物を着て現れ、その各々の者はその各々の者のものとなっている諸真理に従って現れているためである。善が存在する手段となる信仰の諸真理の中にいる者たちは白い着物を着て現れるが、しかし善から発している信仰の諸真理の中にいる者たちは明るく輝いた着物を着て現れている。なぜなら善は真理を通して輝き、光輝を与えるからである(5248番を参照)。

 

 

 

天界の秘義9952

 

他生において、各々の者はその者の中に在る意志に相応した理解に応じて衣服を着て現れている。

それは人間における理解がその者の意志の衣服となり、理解は諸真理から形作られ、意志は諸善から形作られ、善が衣服を着せられるものであるということである(5248)。聖言に「衣服」が真理を意味していることはここから発しており(165,1073、4545、4763、5954、6378,6914,6918,9093,9814)、これは他生における表象的なものからその起源をえていることについては、9212,9216,981番を参照されたい。

 

 

 

 

2.霊たちの衣服

 

 

天界の秘義10536

 

霊たちは自分の衣服が何処から来ているかを知ってはいないが、そのことを知らぬままに衣服を着ているのである。さらにかれらの衣服は真理の方面のその者の状態の変化に応じて変化しているのである。約言すると、かれらの衣服により視覚に示され、表象されているものはかれらの理解である。なぜなら各人の理解は諸真理により形作られて、それを形成する諸真理のあるがままのものとなっているからである。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P239

‘88・6・8

 

♡ イエス?

 

私です、数日前に与えたメッセージの一つで 記された表現の意味をあなたに分からせる。 「ペトロに会う時は 私の古えの衣服を着て行きなさい」と述べたのは、聖書は変えるべきでなく、私が教えたように説教すべきことを教えるためであった、私は付け加えて、「私の衣服は簡素だ」と述べ、あなた方が子どもらしく、幼子の−ような−信仰をもって福音に近づき理解すべきことを意図した ♡ 今日 ヴァッスーラ 多くの司祭はもう私の奥義を信じていない、そこで福音を 教えられるべきようには教えていない、あなたの時代を喜ばせ 文化に合わせることにしか関心を持たない、この司祭たちは私のとは違う「新しい衣服」を身に着けている、これがいかに私を悲しませているか知るべきだ、我が福音は誤りなく教えられ、奥義は奥義として置かれるべきである ♡ 

 

 

 

 

4.着がえ

 

 

天界の秘義5954

 

「かれらのすべてに各々の者に着がえを与えた」。これは善の中に導入された諸真理を意味していることは、『着物』の意義から明白であり、それは諸真理である(そのことについては下記を参照)。かくて『着がえ』は新しい諸真理であり、諸真理は善の中に導入されるときは、生命を受けるからには、そのときは新しくなるのである。なぜならとり扱われている主題は自然的な人と霊的な人との、または外なる人と内なる人との連結であるからである。その連結が行われていると、そのときは真理は変化して新しくなるのである。なぜなら(すぐ前の5951番のように)真理は善の流入から生命を受けるからである。(着物を変えることは聖い真理が着けられたことを表象したのであり、そこから着がえが起ったことについては4545番を参照)。

 

 

 

 

5.刺繍、レース

 

 

天界の秘義5954[5]

 

エゼキエル書には―

 

 わたしはあなたに刺繍を施した物を着せ、あなぐまの皮の靴をはかせ、目のつんだ亜麻布を帯にまかせ、絹であなたを覆た。あなたの着物は目のつんだ亜麻布、絹、刺しゅうを施したものであった、あなたは細かい小麦粉、蜜、油を食べた(エゼキエル16・10、13)。

 

これはエルサレムのことを語っており、エルサレムにより、最古代教会が消滅した後で主により設立された古代の霊的教会が意味されているのである。この教会に与えられた諸真理が『着物』により示されており、『刺しゅうのあるもの』は記憶知であって、記憶知は、それが純粋なものであるときは、また他生でも刺しゅうを施したもののように、レースのように現れるのであり、そのこともまた私は見ることを許されたのである、『目のつんだ亜麻布と絹』は善から発している真理であるが、しかし天界では、そこの光の中に在るため、非常に明るくて、透明なものになっている

 

 

 

 

6.聖言から発している信仰の諸真理

 

 

天界の秘義5954[8]

 

 祝福された者よ、裸で歩き、その恥ずべきところを見られぬように、目をさまして、その着物を守る者よ(黙示録16・15)。

 

『着物』も同様に真理を意味している。『着物』により元来意味されているものは聖言から発している信仰の諸真理である。その源泉からその諸真理を得ていない者は、または異邦人のように、その宗教から真理を、または真理に似たものを得てはおらず、それを生活に応用していない者は、いかほど自分自身は善の中にいると考えても、善の中にはいないのである。なぜならかれは聖言から、またはその宗教から何ら真理を得ていないため、善い霊のみでなく悪い霊によっても等しく理論により導かれるままになり、かくて天使たちにより守られることができないからである。このことが『裸で歩いて、己が恥ずべきところを見られぬように、目をさまして、着物を守るように』勧められることにより意味されているのである。

 

 

 

 

7.着物を洗う

 

 

天界の秘義5954[10]

 

 不潔なものから清められることは信仰の諸真理を通して行なわれるのである。なぜなら信仰の諸真理が善とは何であるか、仁慈とは何であるか、隣人とは何であるか、信仰とは何であるかを教え、また主がおられ、天界が在り、永遠の生命の在ることを教えるからである。教える真理がないなら、これらのものの何であるかは知られないし、またその在ることさえも知られないのである。たれが自分自身からでは、自己への愛と世への愛の善が人間にぞくしている唯一の善であるとしか知りはしないか、なぜならその二つがかれの生命の歓びであるからである。そしてたれが信仰の諸真理によらなくては、人間に適用されることのできる他の善の在ることを、すなわち、神に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善の在ることを、その善の中に天界の生命の在ることを、またこの善は人間が自分自身を他の者以上に愛しないに応じて、世を天界以上には愛しないに応じて主から天界を通して流れ入ってくることを知ることができよう。この凡てから着物を洗うことにより表象された浄めは信仰の諸真理を通して行なわれることが明白である。