渇く

主は渇く井戸

 

 

アモス8・11−13

 

見よ、その日が来ればと

主なる神は言われる。

わたしは大地に飢えを送る。

それはパンに飢えることでもなく

水に渇くことでもなく

主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

人々は海から海へと巡り

北から東へとよろめき歩いて

主の言葉を探し求めるが

見いだすことはできない。

 

その日には、美しいおとめも力強い若者も

渇きのために気を失う。

 

 

エレミア14・3

 

貴族は水を求めて、召し使いを送る。

彼らが貯水池に来ても、水がないので

空の水がめを持ち

うろたえ、失望し、頭を覆って帰る。

 

 

 

天界の秘義2240[5]

 

 エレミア記には―

 

 ユダは嘆いている、その門は衰える、それは地の上に黒くなってしまった、エルサレムの叫び声が上った、彼らの名ある者はその幼い者を水につかわした、彼らは坑に来たが、水はなかった、彼らはその器を空のままに帰ってきた(エレミア14・2、3)

 

ここには『エルサレムの叫び声』は誤謬を意味している、なぜなら『水がなかったこと』により、(第一部28、680、739番に示されたように)『水』である知識が何ら存在しなかったことが意味されているからである。

 

 

 

天界の秘義2702[6]

 

さらに同書には―

 

 イエスは言われた。たれでももし渇くなら、わたしのもとに来て、飲みなさい、たれでもわたしを信じる者は、聖書が言っているように、その腹から生きた水の川が流れるでしょう(ヨハネ7・37、38)。

 

また同書には―

 

 王座の真中におられる子羊はかれらを養い、かれらを生きた水の泉の中へ導き入れられるであろう。神はかれらの目から涙をことごとくぬぐい去られるであろう(黙示録7・17)。

 

同書に―

 

 わたしは渇く者に価なしに生命の水の泉から飲ませよう(黙示録21・6)。

 

『生きた水の川』と『生きた水の泉』は、主から、または、主の聖言から発している真理を意味している。

 

なぜなら主は聖言であられるからである。専ら主のみから発している愛の、また仁慈の善は真理の生命である。真理の愛と情愛の中にいる者は[真理を愛し、真理を求める情愛の中にいる者は]『渇く』と言われており、それ以外の者は『渇く』はずはないのである。

 

 

啓示による黙示録解説50