蜜蜂自然から神的なものを確認する

 

 

 

 

神の摂理3

 

凡て創造された物は実にこの力を与えられている。しかし如何ような力もそれ自身から発しないで、それを与えられる神から発している。蚕、蜜蜂、その他の小動物のような自然的なものを観察されよ。最初それを自然的に、後に、合理的に、最後に霊的に眺められよ。そのときもし諸君が深く考えることが出来るならばその眺める凡てのものに驚嘆されるであろう。もし諸君が諸君の中に語られる知恵の言葉に聴かれるなら、驚きつつ「誰がこれらの物の中に神的なものを見ないであろうか、それは凡て神の知恵の業である」と語られるであろう。

 

 

 

真の基督教13

 

我々が宇宙と呼ぶこの偉大な組織は、神はそれを創造するに当ってただ一つの目的を―人類による天使的天界を目標とし、世が由って以って成立する凡ての物はその目的に対する手段である故、始めから終わりまで調和のある統一体である。何故なら、目的を欲する者はまたその手段をも欲するからである。それ故、世界をその目的に適合した手段を持つものとして認める者は宇宙を調和のある統一体として認め、それは天使的天界が由って以って由来する人類に奉仕するために継続的な秩序をもった用の複合体であることを認めるであろう。何故なら、神的愛はそれ自らの神的なものによって、人間の永遠の幸福以外には何物をもその目的とすることは出来ず、神的智慧はその目的に対する手段として、用以外のものを産み出すことが出来ないからである。

世界についてこの広い見解をもつ賢人は凡て、宇宙の創造者は一人であり、彼の本質は愛と智慧であり、従ってその中には人間に仕えるための、ある隠れた用を―その仕えるまでの隔たりに相違はあるが―含まないものは一つとしてないことを知ることが出来よう。彼は食物を果実と動物から得、衣服をその同じ源から得、而して驚くべきことは、かの卑賤な動物の蚕は王と王妃より下男下女に至る男女に絹を着せ、美しくこれを飾り、かの平凡な昆虫の蜂は彼に神殿と宮殿を照らす蝋を供給している。 創造の個別的な部分を観察するだけで全体を目的、間接的原因、結果をもつ一連の関連性のあるものとして眺めず、創造を神的智慧を手段とした神的愛から発するものとして認めない者は、宇宙は一人の神の業であり、而して神は目的の中に存在する故、凡ての細目の中に存在することを認めることが出来ない。何故なら、目的は凡ての手段の最深部に在って、これを動かし、支配する故、目的の中に在るものはすべてまた手段の中にも在るからである。

宇宙を神の業として、その愛と智慧との住居として認めないで、自然の業として、単に太陽の光と熱とを受ける器として認める者は、その心の高部を神に抗って閉じ込め、その低部を悪魔に対して開き、かくして人間の性質を捨て去り、動物の性質を着ける。而して、彼らは自らを動物に似た者であると信ずるのみでなく、またそのような者になるのである。何故なら、彼らはその狡猾さに於いて狐に、凶暴さに於いて狼に、反逆性に於いて豹に、残虐に於いて虎に、その他の悪い性質に於いて鰐に、蛇に、梟に、蝙蝠に、夜鳥になるからである。霊界ではこのような人間はまた、遠方に、このような動物のように現れるが、悪を愛することがそのような外観を取っているのである。

 

 

 

真の基督教785