炎
天界の秘義2231 [4]
このことはまた、愛と仁慈とは天的な焔であり、信仰はそこから発している光であるという事実からも知ることができよう。そのようにまたそれらは他生で認識されもし、見られもしているのである、なぜならそこでは主の天的なものは太陽の焔となって燃えている輝きのようなものによりそれ自身を天使たちの前に明らかにしており、主の霊的なものはその輝きから発している光によりそれ自らを明らかにしていて、それによりまた天使たちと霊たちはその者たちに属した愛と仁慈との生命に順応して、その内部に感動を受けているのである。これがその凡ゆる多様性を持った喜びと幸福との他生における源泉である。そしてこのすべては信仰のみが救うという見解はいかなるものであるかを示しているのである。
天界の秘義6832〔3〕
『焔』は愛の神的なものを意味していることは、愛の最初の起原は太陽としての主から発している火と焔以外の何物でもないためである。人間各々に生命の存在を与えているものはこの太陽の火または焔であり、また人間の内部に熱を満たしているものは生命の火そのものであり、そのことは愛から認めることが出来よう、なぜなら人間のもとに愛が増大するに比例して、彼は熱し、愛が減少するに比例して、彼は冷ややかになるからである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P238
‘93・4・26
聖母が話されます。
愛する子どもたちよ、あなた方の心はまだ私ども(*)から遠く離れています。
*聖母はイエスとご自分を指しておられます。お二人の心を。
メッセージに言い現されている事柄や言葉の意味を まだ理解していないからです。 平和、愛と一致の意味が まだ分かっていません。 もし把握していたなら、あなた方の国ぐには今日炎に包まれてはいないでしょう。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P202
「今日は二つの話をしよう・・・。ある人が祭りの日に、主を祝うために二つの明かりを灯したいと思った。同じ大きさの壷に同じ量の油を入れ、同じ芯を入れて、同じ時刻に火を点けました。少したって火がどうなったか見に戻ると、一つの方は力強く燃えているが、もう一つの方は小さな火が静かに燃えているだけでした。もしや芯が悪いのかと思って調べてみたが、異常なところはどこにもありません。
大きな火の方は舌のような炎を上げて、うれしそうに燃えています。『全くこの火は、いと高き主をたたえて燃え上がっている』と、主人は呟きました。小さな火の方はうれしそうでもなく、熱心でもなく、まるで主をたたえるのが辛いのではないかと思われるほどです。
二度目、もう一度戻ってみると、大きい炎の方はいよいよ赤々と燃え、もう一つの方はいつも通り静かで、むしろ炎が小さくなったかとさえ見えます。
三度目も同じことです。四度目にまた戻ってみると、部屋には煙が立ち込めていました。二つの灯を置いた棚に行ってみると、さっき激しく燃えていた方は全く消えてしまい、黒い芯から立ち上がる煙が白い壁を汚していました。もう一方の方は相変わらず静かに燃えて、主をたたえ続けていました。消えた灯を片づけようとして、棚に近づくと、ある声が響きました。
『灯をそのままに置き、二つの灯が何を象徴しているかを考えよ。私は主である』と。
主人はひれ伏し、声の出た方に向かって言いました。
『愚かな私にはよく分かりません。この二つの灯の象徴をお教えください』
『よろしい。教えよう。人間の心はこの二つの灯に似ている。一方は初めのうち燃え盛って人々の注目を引く。その炎は完全で不変のもののように見えたからである。
もう一方の灯は柔和で弱々しく主をたたえるには力が足りないように見える。だが、もう一方は二度三度と激しく燃え上がってから、やがて消えて、人々に害を与える。その炎は本物ではなかったからである。つまり主のためよりも、人に見せびらかすために燃え上がり、やがて黒くなって煙の中に消えたからである。
もう一方は唯一不変のものに望みをかけ、人々が褒めるか、けなすか、一切気にせず、神だけをたたえ、ついに煙も悪臭もない清い方法で消えていく。お前は、絶えることのないその灯に倣え。主のお気に召すのは、それだけである。
もう一度言うが、初め大きく燃え上がった灯は、人の行いの表面しか見ない世間の関心と驚嘆を呼ぶかもしれない。だが、それはすぐ激しい悪臭の煙を発して炭となってしまう。人間的な目的のために燃えるのが、傲慢心からだと知っている神は、そのやり方を決して喜ばれない。第二の灯のように愛の絶えざる火をもって天に昇ることを知っている者は、幸せである』と、そう言われました」
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・49・2
わたしの子よ、火はしばしば燃えるが、あがる焔は、かならず煙を伴わずにはいない。
それと同様に、ある人々のあこがれの火は、天上の物事に向かって燃え上がるが、それにもかかわらず肉欲の誘惑を免れることはないのである。
ゆえにかれらが熱心に神にねがい求めていることも、まんざら純粋に神のみ光栄(さかえ)ばかりを目的としているとはかぎらない。
あなたの望みも、自分では熱烈きわまるものと思っているであろうが、やはりそうであることがしばしばある。
なんとなれば私利私欲に染まっていることは、純粋、完全ではないからである。