五合目

 

再生の順序口先のみの信仰

 

 

 

 

黙示録講解242イ(4)(太字は当方による)

 

さらに人間の生命のサークルは知ること、理解すること、欲すること、行うことである、なぜなら人間の霊的生命は知ることで始まり、次に理解へ移行し、次に意志することへ、最後には行うことへ移行することである。このことから、知識は記憶の中に在る限り、それは単に生命の入口に在るに過ぎないのであり、それが行為の中に存在しない中は人間の中には充分に存在しないのであり、それが充分に行為となって存在するに応じて益々充分に理解と意志との中に存在するのである。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)104

 

十戒の戒めによりいかようにして連結が遂行されるか、について今少しく述べよう。人間が主に自分自身を連結するのではなく、主のみが人間を御自身に連結されるのであり、そのことを主は人間がこれらの戒めを知り、理解し、欲し、行うことにより行われるのであり、人間がそれらを行う時、連結が生まれるが、しかしもし人間がそれらを行わないなら、彼はそれらを欲しなくなり、それらを欲しなくなる時、それらを理解し、知ることもまたなくなるのである。なぜなら人間が為すことが出来るのに為さないなら欲することに何の意義があろうか、それは理性の作り事ではないか。このことから人間が十戒の戒めを行うとき連結が遂行されることが生まれてくるのである。(黙示録講解1027番)。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P105

 

これらのことを人間は、他の板石の中に、即ち、最期の六つの戒めの中に禁じられている幾多の悪を罪として避けない限り、いかほど自分は信じていると考えるにしても、信じはしないのである。(黙示録講解1027番)。

 

 

 

 

如何にして人間は悔改むべきであるか

 

真の基督教530 (太字は当方による)

 

それ故、問題は、如何にして人間は悔改むべきであるか、ということである。答えは実際に悔改めることである。即ち、自らを点検し、自らの罪を認識し、承認し、主に懇願し、新しい生活を始めることである。前項に示されたように、自己点検なくしては悔改めは有り得ない。然し、自己点検は罪の認識を意味し、認識はその承認を意味する。而して、この三つの義務の凡ては人間を導いてその罪を主の前に告白させ、助けを求めて祈らせ、かくして到達すべき目標である新しい生活を始めさせる。これが実際の悔改めである。年頃になった者は誰でもこれが行為の正しい経路である事を認めることが出来る。それは再生を意味する洗礼式に示される。何故なら、その挙式に名付け親たちはその幼児のために、彼は悪魔とその凡ての業とを斥けるであろうと約束するからである。それは、主の聖餐に示されている。即ち、その聖餐に先立って凡ての者たちは自らの罪を悔改め、神に心を向け、新しい生活を始めるように勧告されている。それは、凡ての基督教徒の手にしている十誡によってもまた示されている。何故なら、その中の教示は人間が諸悪から遠ざかることを命じているからである。これらの悪が悔改めによって取り去られない限り、彼は隣人を愛し、神が愛せよという命令に服従することは出来ない。然し、この二つの誡命に凡ゆる律法と預言者が、即ち聖言が、従って救いが懸かっている。人が如何なる時にか―恐らく聖餐の備えをなしている間に―その気付いた一つ以上の罪から遠ざかるならば、彼は真実の悔改めの道に向って確乎たる出発を為したのであり、その時彼は天界への途上に在るのである。何故なら、その時自然的なものから霊的なものに成り、主によって新しく生まれ始めるからである。

 

 

 

 

(霊的殺人)

真の基督教380(太字は当方による)

 

「まことに我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は盗人なり、強盗なり。我は門なり。我によりて入る者は、救はるべし」(ヨハネ10・1、9)。羊の檻に入ることは、教会に入ることであり、また天界に入ることである。何故なら、教会は天界と一つであり、実にそれは天界を構成するからである。それ故、主は教会の花婿であり夫である如く、天界の花婿であり夫である。信仰の合法性あるいは非合法性は上述した三つの指示、即ち、主を神の子として認めること、彼を天地の神として認めること、彼は父と一であると認めることによって決定され、如何なる信仰であれこの要素から離れる限り、それは似非信仰である。