再生の順序

 

秩序の転倒

 

 

 

1.人間の再生の六つの継続した状態

2.霊的なものになる者たち

 

・かれらは先ず多くの事柄を学び、スポーツやそれに類したものに関わりのあるもののような

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・その者がその者自身に差し出しはするが、ほとんどたれにも明らかにはしないそのいくたの目的を注意しさえすればよい

・その時かれは改良され、または再生するのであって、その前ではない

・内的な意志は悔改めにより清められる

3.知り、理解し、欲し、行う

4.人間は自然的なものとして生まれ、教育により道徳的なものとされ、後に、主から再生することにより霊的なものとなる

 

 

1.人間の再生の六つの継続した状態

 

天界の秘義6

 

人間の再生の六つの継続した状態である六日または六つの期間は全般的には以下のようなものである。

 

 

 

天界の秘義7

 

第一の状態は先行する状態であり、幼少期からの状態と再生直前の状態とを含んでいる。それは「空ろなもの」、「空しいもの」、「暗闇」と呼ばれている。そして主の慈悲の最初の動きは「水の面の上に動いている神の霊」である。

 

 

 

天界の秘義8

 

 第二の状態は主に属した物と人間に固有な物との間に区別が行われる時である。主に属した物は聖言では「残ったもの」「残りのもの」と呼ばれ、ここでは特に、幼少の頃から学ばれ、貯えられ、人間がこの状態に入らない中は明らかにされないところの信仰の諸々の知識である。現今ではこうした状態は試練、不幸または悲哀なしには殆ど存在しておらず、その試練、不幸または悲哀により身体と世との物は、すなわち人間に固有な物は静止して、いわば死んだもののようになるのである。かくて外なる人に属した物は内なる人に属した物から分離してしまう。残りのものは、その時迄、またはそれに役立つために、主により貯えられて内なる人の中に存在している。

 

 

 

天界の秘義9

 

 第三の状態は悔改めの状態であり、その中では人間はその内なる人から敬虔に信仰的に語り、仁慈の業のような善を生み出すが、しかしそれはその人間自身から発しているとその人間が考えているため、それは生きていないものである。こうした善は『柔かい草』または『種子を生む草』と呼ばれ、後には『果を結ぶ木』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義10

 

 第四の状態は人間が愛に動かされ、信仰により明るくされるようになる時である。彼は実に前には敬虔に語って、善を生み出したが、しかし彼がそれを行ったのは、彼がその下で苦闘した試練と困苦の結果であって、信仰と仁慈から発したものではなかった、それで信仰と仁慈とは今やかれの内なる人の中に点火されて、二つの『光体』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義11

 

 第五の状態は人間が信仰から語り、それにより真理と善とを確認する時であり、その時かれにより生み出される物には生命があって、『海の魚』『天の鳥』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義12

 

 第六の状態は彼が信仰から、ひいては愛から、真のものを語り、善いことを行う時である、彼がその時生み出す物は『生きたもの』、『獣』と呼ばれている。そしてかれはその時信仰と愛から行動し、同時にまた信仰と愛とが共になってそこから行動し始めるため、像[映像]と呼ばれる霊的な人となるのである。かれの霊的生命は、かれの『食物』と呼ばれて、信仰の諸々の知識と仁慈の業に属したものを歓び、それにより支えられ、その自然的な生命は身体と感覚に属した物を歓び、それにより支えられ、ここから争闘が生まれ、ついに愛が支配し、その者は天的な人となるのである。

 

 

 

天界の秘義13

 

 再生しつつある者の凡てがこの状態に到達するわけではない。現今大半の者は単に第一の状態に達するに過ぎず、若干の者は第二の状態にのみ到達し、他は第三、第四、第五の状態に達し、僅かな者しか第六の状態に達しておらず、第七の状態には殆ど何人も到達していないのである。

 

 

 

 

天界の秘義83

 

人間が『第6日』になった時、『天と地は成り、その軍勢は成った』と言われている。なぜならその時信仰と愛とは一つのものとなるからである。それらが一つのものとなるとき、信仰ではなく、愛が、または換言すると、霊的な原理ではなく、天的な原理が第一次的な原理となり始めるのであり、これが天的な人となることである。

 

 

天界の秘義84

 

「第7日に神はその作られた業を終えられた、すなわち、その作られた業の凡てから第7日に休まれた。神は第7日を祝福され、それをきよめられた、それは神はその造って創造された業の凡てから、その日に休まれたからである」。天的な人は『第7日』であり、その日は主は6日の間働かれたため、『主の業』と呼ばれており、その時凡ての争闘は停止するため、主は『その凡ての業から休まれる』と言われている。それで第7日はきよめられ、『安息』を意味するヘブライ語から、安息日と呼ばれたのである。このようにして人間は創造され、形成され、作られたのである。これらの事柄はその言葉から極めて明らかである。

 

 

天界の秘義85

 

7日については、天的な人が『第7日』または『安息日』であることについては、その事は主御自身が安息日であられるという事実から明白である。それで主はいわれている―

 

人の子はまた安息日の主である(マルコ2・27)。

 

 

天界の秘義85[]

 

天的な人の休息はイザヤ書に安息日により記されている―

 

もしあなたが安息日からあなたの歩みをかえし、わたしの聖い日にあなたの望むことを行わず、安息日の事柄をエホバの聖いものに対する歓び、尊いものと呼び、それを尊んで、あなた自身の道を行わず、あなた自身の求めるものを見出さず、また言葉も話さないならば、その時はあなたはエホバに歓ばれるものとなり、わたしはあなたを地の高い物の上に連れ行かれるようにし、ヤコブの嗣業[遺産]をもってあなたを養おう(イザヤ58・13,14)。

 

天的な人の特質はこうしたものであるため、かれは自分自身の願いに従って行動しないで、かれの『願い』である主の悦びたもうことに従って行動する。かくてかれは―ここでは『地の高い物の上に連れ行かれる』ことによって意味されているところの―内なる平安と幸福とを楽しみ、同時に『ヤコブの嗣業[遺産]をもって養われること』により意味されているところの外なる静謐と歓喜とを楽しむのである。

 

 

天界の秘義86

 

『第6日』になった霊的な人が天的な人になり始めつつある時、―この天的な人の状態がここに先ず取扱われているのであるが―それは『安息日の前夜』であって、ユダヤ教会では夕から安息日を聖く守ることにより表象されているのである。天的な人はやがて語られる『朝』である。

 

 

天界の秘義87

 

天的な人は『安息日』または『休息』である他の理由は、かれは天的なものになる時、争闘は止むということである。悪霊らは退いて、善い霊たちが天的な天使たちとともに近づいて来るのであり、これらの者がその場にいると、悪霊らは到底その場に止まることは出来ないで、遠く逃げ去ってしまうのである。そしてその争闘を行ったのは人間自身ではなく、人間のために主のみが行われたものであるため、主は『休まれた』と言われているのである。

 

 

天界の秘義88

 

 霊的な人が天的な人になると、彼は『神の業』と呼ばれる、それは主のみがかれのために戦われ彼を創造され、形成され、作られたからである。それでここに『神は第七日にその業を終えられた』と言われ、二度『神はその凡ての業から休まれた』と言われている。予言者達により人間は、イザヤ書におけるように、繰返し『エホバの御手と御指の業』と呼ばれているが、これは再生した人間を語っているのである―

 

 エホバ、イスラエルの聖者、イスラエルの形成者はこのように言われた、あなたらはわたしにしるしを求めよ、わたしの息子たちについてするしを求めよ、わたしの手の業についてわたしに命じよ。わたしは地を作り、その上に人を創造った。わたしは、実にわたしの手は諸天を張りひろげて、その凡ての軍勢に命じた。諸天を創造りたもうエホバ、大地を形成し、これを作られるエホバ御自らこのように言われた、彼はそれを確く定め、それをうつろなものに創造りたまわず、それを(人が)住むように形成された、わたしはエホバである、わたしの他に神はいない(イザヤ45・11、12、18、21)。

 

ここから新しい創造または再生は主のみの業であることが明白である。

 

 

 

 

2.霊的なものになる者たち

 

 

天界の秘義2671

 

この13節から21節まで、主の霊的教会が全般的にとり扱われており、とくに霊的なものになる者たちがとり扱われているが、しかもそれはかれらの改良の最初の状態から最後に至るまで順序を追うてとり扱われているのである。改良以前のかれらの状態は信仰の教義的なものの中に彷徨する状態である(14節)。かれらは無知にさえも陥り、真理については何一つ知らなくなる(15節)。かれらはそこから悲哀を覚える(16節)。そのとき主から慰安と助けとが来る(17節)。明るくされる(18節)。聖言から教えられる(19節)。それでもかれらの改良後の状態は、天的な者に比較するなら、明確なものではない(20節)。しかしかれらは記憶知と真理の外観を求めるその情愛から主の神的な人間的なものから光を得る(21節)

 

 

 

天界の秘義2682[2]

 

 この節には改良されつつある者たちの第二の状態がとり扱われていて、それは、かれらが真理を些かも知らなくなるほとにも無知に陥り、しかもそれが絶望にさえもいたるという状態である。かれらがこのような無知に陥る原因は、説得させる光が消滅するためであり―その光は真理を明るくすると等しく、誤謬をも明るくし、真理によって誤謬を信じこませ、また誤謬により真理を信じ込ませると同時に自分自身を信頼するといった性質を持っているのであるが―またかれらが善のいかようなものも、また真理のいかようなものも自己または人間自身のものではなくて、主から発しているという事実を知るように経験そのものによって導かれるためなのである。改良されつつある者たちは絶望するまでも無知に陥るが、そのとき以下の記事から明白であるように、慰安と照示[明るくされること]を得るのである。なぜなら主から発した真理の光は人間自身のものから発している説得的なものの中へは流れ入ることはできないからである。なぜならこれは[人間自身のものから発している説得的なものは]その光を消滅させる性質をもっているからである。他生では説得的なものは冬の光のように見えるが、しかし天界の光が近づくと、かの光に代わって暗黒が現われ、その中にはあらゆる真理に対する無知が存在しているのである。改良されつつある者にあってはこの状態は真理が荒れすさんでいる状態と呼ばれていて、これもまた聖言の内意に多くとり扱われているのである。

 

 

 

天界の秘義2682[3]

 

 しかし現今ではわずかな者しか再生していないため、わずかな者しかこの状態を知ってはいない。再生途上にいない者には、かれが真理を知ろうと、知るまいと、かれの知っているものが真理であろうと、なかろうと、そうしたことは、かれが何かを真理として通用させさえすることができるなら、何の相違も作りはしない。しかし再生しつつある者は、永遠の救いについて多く考えるため、教義と生活については多く考えるのであり、それでもし真理がかれらのもとに欠けるなら、それがかれの思考と情愛の主題となっているため、かれらは心で悲しむのである。その一方の者の、またその他方の者の状態は以下の点から認めることができよう。すなわち、人間は身体の中にいる間は、その霊の方面では天界に生きており、その身体の方面では天使たちと実際共にいることができると同時に身体に属しているものにより人間とともにいることができるように創造られているからである。しかし自分には死後生くる霊があると信じている者はわずかしかいないため、再生しつつある者もわずかしかいないのである。それを信じている者たちには他生はその者たちの思考と情愛のすべてであり、世はそれに比較すると無価値なものであるが、しかしそれを信じない者らには世がその者らの思考と情愛のすべてであって、他生はそれに比較すると無価値なものである。前の者は再生することのできる者であるが、他の者は再生することができない者である。

 

 

 

天界の秘義2960

 

「それはわたしとあなたとの間では何でありましょう」(創世記23・15)。これはかれがその同意を与えたが、しかし依然それがかれ自身から発することをねがったことを、すなわち、かれが備えを為すことが、または改良されることがかれ自身から発することをねがったことを意味していることはその文字の意義が改良をとり扱っているその内意に適用されるとき、そこから明白である。前に『畠をわたしはあなたにあげます。その中に在る洞穴もわたしはあなたにあげます』とエフロンにより言われたが(11節)、そのことによりかれらは教会に、また信仰にぞくしているいくたの事柄について自分自身を整えようと、すなわち、自分自身を改良しようとねがったことが意味されたのであり、そうしたものが改良されつつある者たちの最初の状態であることは前(2946番)に見ることができよう。しかしかれらが真理をまたは信仰を知る知識にさらに進むと、そのときは、かれらの第二の状態が生まれるのであり、その状態のうちではかれらは実際同意はするが、それでもそれがかれら自身から発することを願うのであり、これがこの節にとり扱われている状態である、しかし間もなく第三の状態が記されている、すなわち自分たちは主により改良されるという信仰の状態である。かれらが最初このようなものであるということの原因は前に述べておいた(2946番)。しかしかれらが真理または信仰を知る知識に進むと、かれらは自分たちが主により改良されることを実際承認はするが、しかしそれでもそれが自分自身から発していることを望んでいることは以下の理由によっている、すなわち、無知の雲は徐々にしか消散されず、真理の確認は時とともに強められ、善は真理の知識に浸透されて完全にされるのである。改良は主から発していることをかれらに承認させるのみでなく、また信じさせもするものは、真理をその中に植えつけられている善そのものである。これが第三の状態であり、その次に第四の状態が来るのであり、すなわち、かれらがそれは主から発していることを認識する状態である。しかし身体の生命のうちでこの状態に入る者は僅かしかいないのである、なぜならそれは天使的な状態であるからであるが、しかし再生した者は他生においてこの中へ入ってくるのである。ここから、内意ではここに霊的な教会の人間が記されており、かれは未だ成熟していない間はその状態は如何ようなものであるか、またかれが成熟し始めるときは、またついに成熟したときはそれはいかようなものであるかが記されていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義2979[2]

 

 霊的な人間の再生における実情は以下のごとくである。かれは先ず信仰の諸真理を教えられ、かくてかれは主により真理を求める情愛の中に留めおかれる。それと同時に、隣人に対する仁慈であるところの、信仰の善がかれの中へ徐々に注ぎ入れられるが、しかしそれはかれがほとんどそれに気づかないような方法で行われるのである、なぜならそれは真理を求める情愛の中に隠れていて、しかもそのことは信仰のものである真理[信仰に属している真理]が仁慈のものである善に連結する目的をもっているからである。時が経つにつれ、信仰のものである真理を求める情愛は増大し、真理はその真理の目的のために、すなわち、善のために、またはそれと同一のものであるが、生命のために顧慮され、そのことが益々熾烈になって行くのである。このようにして真理は善の中に徐々に注ぎこまれ[植え付けられ]、このことが起こると、その人間は徐々に注ぎ入れられた[植え付けられた]真理に従った生命の善を自分自身に浸透させ、かくてかれは善から行動するのであり、または善から行動しているようにかれ自身に思われるのである。この時がくる以前では信仰の真理が第一義的なものではあるが、しかし後には生命の善が第一義的なものになるのである。

 

 

 

天界の秘義2979[3]

 

 このことが実現すると、その人間は再生しているのであるが、しかし彼は善の中に植え付けられた真理の質と量とに応じて再生しているのである、これが再生の実情である。再生は人間が天界へ迎え入れられる目的のために行われるのである。天界は真理と善との、また善と真理との結婚以外の何ものでもない(2508、2618、2728、2729番を参照)、もし真理と善との結婚が人間のもとに形成されないなら、彼は天界的結婚の中に、すなわち、天界の中にいることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義3310

 

再生しつつある者たちは、教義的なものから善いことを最初行うのである。なぜなら彼らは彼ら自身では何が善であるかを知ってはいないで、それを愛と仁慈との教義的な事柄から学ぶのであり、これらのものから彼らは主はたれであられるか、隣人とはたれであるか、愛とは何であるか、仁慈とは何であるかを知り、かくて善とは何であるかを知るからである。彼らはこうした状態の中にいる時、真理の情愛の中にいて、「野の男[viri]」と呼ばれるが、しかし、後になって再生した時は、教義的な事柄から善いことを行わないで、愛と仁慈からそれを行うのである。なぜなら彼らはその時は教義的な事柄から学んだ善そのものの中にいて、その時は「野の人[hominess]」と呼ばれるからである。 この間の実情は、生まれつき姦淫、盗み、殺人に心が傾いているが、しかし十戒の戒めからこのような事柄は地獄のものであることを学んで、そこから遠ざかる者の場合に似ている。この状態の中では彼は地獄を恐れるため、戒めに感動し、そうしたものからまた同じく聖言の多くの事柄から彼はいかように自分の生活を左右しなくてはならぬかを習うのであり、こうした場合彼は善いことを行う時は、それを戒めから行うのである。しかし彼が善の中にいる時は、以前彼が心を引かれていた姦淫、盗み、殺人に嫌忌を覚え始めるのであり、彼がそうした状態の中にいる時は、彼は最早善いことを善い誡命から行わないで、その時彼の中に存在している善からそれを行っているのである。前の状態の中では彼は真理から善を学ぶのであるが、この後の状態では善から真理を教えるのである。

 

 

 

天界の秘義3468

 

「エソウは四十年の息子であった」。これは自然的な真理の善の方面の試練の状態を意味していることは以下から明白である、

 

 

 

天界の秘義3468[2]

 

 それで真理の善の中に、または教義的な事柄に従った生命の中にいる者たちは、その者たちの合理的なものである内部の方面では再生しているが、しかしその者たちの自然的なものである外部の方面では未だ再生していないのである、なぜなら人間は自然的なものの方面で再生する以前に、合理的なものの方面で再生するからである(3286、3288番)、それは自然的なものは全く世の中に存在しており、そして自然的なものの中に、人間の思考と意志とがそれを面として基礎付けられているためである。これが人間が再生の間に彼の合理的なまたは内なる人と彼の自然的なまたは外なる人との間に争闘を認める理由であり、また彼の外なる人はその内なる人よりも遥か後に再生し、また同じく彼の内なる人よりも更に大きな困難を伴って再生する理由となっている。なぜなら世に更に近づいており、身体に更に近づいているものは内なる人に服従するように容易に抑制されることは出来ないのであって、それはただ非常に長い時間の後で、またその人間がその中へ導き入れられる多くの新しい状態によってのみ―その状態は自己を承認し、主を承認する状態であり、すなわち、自分自身のみじめさと主の慈悲とを承認する状態であり、かくて試練の争闘から生まれてくる(自己)卑下の状態であるが、その状態によってのみ行われるのである。それがそうであるため、次にここでエソウと二人の妻について言われていることがつけ加えられており、それによりこのような事柄がその内意に意味されているのである。

 

 

 

・彼らは先ず多くの事柄を学び、スポーツやそれに類したものに関わりのあるもののような

 

 

天界の秘義3470[2]

 

この間の実情は以下のようである、自然的な真理の善は、それが改良されない中は、霊的な善、すなわち信仰の善と仁慈の善ではない。今し方述べたように(3469番)、自然的な善は親から発しているが、しかし霊的な善は主から発しており、それ故人間は霊的な善を受けるためには、再生しなくてはならないのである、このことが起りつつある間は先ず彼に純粋な真理を導き入れる手段として役立つに過ぎないといったものであり、この純粋は真理が導き入れられると、純粋でない真理は分離されるのである。この間の実情は子供たちの場合と同じであり、彼らは先ず多くの事柄を学び、スポーツやそれに類したものに関わりのあるもののようなつまらない事すらも学ぶのであるが、それはこれらのものが彼らを賢明にするためでなく、知恵に属している有用な物を受ける道を備えるためであり、これらの物が受け入れられると、前のものは分離されて、実に投げ棄てられもするのである。またはそれは果実の場合と同じであり、果実は先ず甘い汁を受けることが出来る前に酸っぱい汁に満たされ、純粋でない酸っぱい汁は甘美な汁を導き入れる手段であってその汁が入ってくると前の汁は消散してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義3470[3]

 

 人間の自然的なものの場合もそれが再生しつつあるときは同じである、なぜなら自然的な善はそれ自身では僕がその主人に仕えるように、合理的な善に進んで服従し、仕えようとは欲しないで、却ってこれに命令しようと欲するといったものであるからである。しかしそれが従順と奉仕との状態に帰するために、その幾多の欲念が減退するまでは剥奪と試練の幾多の状態により悩まされ、次いで主から内なる人を通して信仰の善と仁慈の善とが流入することによって自然的なものは和らげられて、遂に遺伝的に受け入れられた善は徐々に根絶され、代って新しい善が植え付けられ、それからその善の中へ信仰の諸真理が徐々に入れられるが、その諸真理は人間の心臓へ差し込まれた新しい繊維のようなものであり、この繊維を通して新しい液が導入され、ついに新しい心がそこに徐々に生長するのである。

 

 

 

天界の秘義3470[4]

 

 最初導入される真理は、幾多の悪と誤謬とが前のまたは自然的な善の中に存在しているため、純粋な源泉から発する筈はない、それらは純粋な真理に或る類似性を持っているような外面的な真理であり、または真理の外観であり、それにより真の純粋な真理がそれ自らを徐々に入り込ませる機会と場所が与えられるのである。純粋な善は動脈の中の血液、または繊維の中の液に似ていて、真理を導き、用いて形に作るのである。このように自然的な人の中にまたは外なる人の中に形作られる善は全般的な善であって、主から合理的なまたは内なる人を発している霊的な善の個々のものと単一のものとから謂わば織り合わされ、関連付けられているのであり、主のみが新しく形作られ、創造られるのである。ここから主は聖言に再三形作る者、創造者と呼ばれ給うている。

 

 

 

天界の秘義3518[2]

 

 再生しつつある人間各々の場合もこれに似ている、すなわち、彼が主から、新しい父から受けるものとして受けるところの善は内的なものであるが、しかし両親から取得する善は外的なものであり、彼が主から受けるところの前の善は霊的なものと呼ばれるが、しかし両親から取得する後の善は自然的な善と呼ばれている。彼がその両親から取得する善は彼の改良にとりわけ役立っている、なぜならその善により、先ず記憶知が、後には、真理の諸知識が、楽しい歓ばしいものによって導入されるように、導入されるが、しかしそれがこうした用に対する手段としての務めを果すと、それはこれらのものから分離してしまい、そのとき霊的な善が前面へ出てきて、それ自らを明らかに示すからである。このことは多くの経験から明白であるに違いない、例えば以下の一つの例からでも明白であるに違いない、即ち子供は初め教えられる時は、知ろうとする願いに心を動かされるが、それは最初はその子供自身に明らかである何らかの目的のためではなくて、彼と共に生まれており、また他の源泉からも由来している或る快楽と歓喜から発しているのである、しかしその後、彼は生長するにつれて、或る目的から、例えば他の者に、または自分のライバルに勝とうというような目的から、次は世における何かの目的から知ろうとする願いに心を動かされるのであるが、しかし彼は再生しなければならない時は、真理の歓喜と楽しさから心を動かされ再生しつつある時は―それは成人期に起るのであるが―真理の愛[真理に対する愛]から、後には善の愛[善に対する愛]から心を動かされ、その時になると、前に現われた[先行した]幾多の目的は、その歓喜と共に少しづつ分離され、主から来る内的善がそれに続いて起って、その内的善はそれ自身を情愛の中に明らかに示すのである。このことから、外なる形では善として現れたところの前の幾多の善はそれ自身を情愛の中に明らかに示すのである。このことから、外なる形では善として現れたところの前の幾多の善は手段として役立ったことが明白である。

 

 

 

天界の秘義3518[3]

 

このことから、自然的なまたは家庭向きの善は、それは単に外面的な歓喜であり、実に世的なものであるけれど、自然的なものの善を生み出す手段として役立つことが出来るのであり、自然的なものの善はそれ自身を合理的なものの善と連結することが出来、かくして再生した善または霊的な善となり、即ち、主から発している善になることが出来ることが明白である。これらの事が本章の『エソウとヤコブ』により表象され、また意味されている事柄である。

 

 

 

 

・スポンヂ

 

 

天界の秘義3563[4]

 

 これらの事柄は、例え明らかに述べられるにしても、従って、このような事柄を知っている者たちには明白に認識されることが出来ても、流入とは何であるかを知らない者には尚明らかでなく、まして合理的なものは自然的なものとは明確に区別されるものであることを知らない者には明らかではなく、ましてや善と真理とについて何ら明確な考えを持たない者にはさらに明らかでないことを私は知っているのである。しかし再生以前の状態における、自然的な善の性質と自然的な真理の性質の何であるかは、ひとえにその時の情愛から明らかになることが出来るのである。人間が生命の目的のためでなく、他の目的のために、例えば学者になりたいというような目的から、それも一種の他と競争しようとの或る情愛から、または子供らしい羨望の一種の情愛から、また栄誉を求める一種の情愛から発していて、そうした目的から真理に感動すると、その時は自然的なものの善と自然的なものの真理とはここにヤコブにより表象されているような秩序の中に在るのであり、従ってそれらのものは互に他に対しては転倒した秩序の中にあるのであり、すなわち、善のものである意志の部分は外に在って、真理のものである知的な部分が内に在るのである。

 

 

 

天界の秘義3563[5]

 

 しかし再生以後の状態は異なっている、なぜならその時は人間は生命の目的のために真理に感動するのみでなく、生命の善そのものに更に感動するのであり、前の情愛は、即ち、競争の、子供らしい羨望の、栄誉の情愛はそれ自らを分離させて、しかも、それが恰もそのものが消散して了ったかのように見えるまでにもなるのである、なぜならその時意志のものである善が内に在り、理解のものである真理は外に在り、しかも尚真理は善から発しているため、真理は善と一つのものとなって働くといった様式を取っているからである。この秩序は純粋であるが、前の秩序はこの秩序を形成するようになるのである、なぜならそのとき外に在る意志の部分は再生に役立つ多くの物を容認して、清水をも泥水をも吸い込むスポンヂのようなものであり、かくてまたそれは、もしそうでないと斥けられてしまう物を容認するのであり、その物も尚手段として役立っており、また善と真理とに関わる観念を形作るために、また他の用にも役立っているのである。

 

 

 

 

・その者がその者自身に差し出しはするが、殆どたれにも明らかにはしないその幾多の目的を注意しさえすればよい

 

 

 

天界の秘義3570

 

「彼はそれを彼の知覚に持ってきた、彼は食べた」。これは先ず善が連結することを意味し、「彼は彼にぶどう酒を持ってきた、彼は飲んだ」はその後真理が連結することを意味していることは、以下から明白である、すなわち、『食べること』の意義は善の方面で連結され、所有されることであり(それについては直ぐ前の3568番を参照)、『ぶどう酒』の意義は善から発する真理であり(1071、1798番)、『飲むこと』の意義は真理の方面で連結されて所有されることである(3168番)。イサクにより表象される合理的なものの善が先ずそれ自身に善を連結させ、後に真理を連結させ、そしてこれがヤコブである自然的なものを通して行われるという事情については、実情は以下のようである、すなわち、自然的なものが、それは外面的には善であるが、内面的には真理であるという状態の中にいると(3539、3548、3556、3563番)、そのときはそれは、善ではないが、それにも拘らず有益であって、その秩序において善に到達する手段であるような多くのものを容認するのである。しかし合理的なものの善はこの源泉からは、合理的なものの善に一致しているものを除いてはいかようなものをもそれ自身に連結させはしないし、また所有もしない[己がものともしない]のである、なぜなら善は他の何ものをも受け入れないし、何であれ一致しないものはことごとく斥けるからである。合理的なものの善は自然的なものにおける爾余のものを[その他のものを]そのものが合理的なものの善それ自身に一致するものをさらに多く容認し、導入する手段として役立つために後に残しておくのである。

 

 

 

天界の秘義3570[2]

 

 合理的なものは内なる人の中に在り、そこにいかようなものが処理されているかは自然的なものには知られてはいない、なぜならそれは自然的なものの観察のスフィア[領域]を越えているからである、こうした理由から単に自然的な生活を送っているに過ぎない人間はその内なる人の中に、即ち、その合理的なものの中に起っている事を何ら知ることは出来ない、なぜなら主はすべてこのようなものをことごとくその人間が知らないままに処理されるからである。ここから人間は自分がいかようにして再生しつつあるかを何一つ知らないし、また自分が再生しつつあることも殆ど知らないのである。しかしもしその者がそれを知りたいと願うならその者がその者自身に差し出しはするが、殆どたれにも明らかにはしないその幾多の目的を注意しさえすればよい。もしその幾多の目的が善の方へ向いているなら、即ち、もしその者が自分自身のことよりも隣人と主のことを更に心に懸けているなら、その時はその者は再生の状態の中にいるのであるが、しかしその幾多の目的が悪の方へ向っているなら、即ち、その者が隣人と主よりも自分のことを心に懸けているなら、その場合は彼は何ら再生の状態の中にいないことを知らなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義3570[3]

 

 人間はその者の生命の目的を通して他生の中におり、善の目的を通して天界の中に天使と共にいるが、しかし悪の目的を通して地獄の中に悪魔と共にいるのである。人間における目的はその者の愛以外の何ものでもない、なぜなら人間はその愛するものを目的とするからであり、その目的が彼の愛であるからには、目的は人間の最も内なる生命である(1317、1568、1571、1645、1909、3425、3562、3565番)。人間における善の目的は彼の合理的なものの中に在り、それは善の方面の合理的なもの、または合理的なものの善と呼ばれているものである。善の目的を通し、またはその中に在る善を通して、主は自然的なものの中に在る凡ゆる物を処理されるのである、なぜなら目的は霊魂のようなものであり、自然的なものはこの霊魂の身体のようなものであり、霊魂のあるがままに、霊魂を包み込んでいる身体もあり、かくして善の方面の合理的なもののあるがままに、その合理的なものが身につけている自然的なものもあるのである。

 

 

 

天界の秘義3570[4]

 

 人間の霊魂は母の卵細胞の中に始まり、その後彼女の子宮の中で完成され、そこで柔かい身体で身を包まれ、しかもそれはその身体を通してその霊魂がその生まれて入って行く世に適したように活動することが出来るといった性質を持っているのである。このことは人間が再び生まれる時も、即ち、彼が再生しつつある場合も同じである。彼がその時受ける霊魂は善の目的であって、それは合理的なものの中に初まり、最初はそこに卵細胞におけるように初まり、後にはそこで子宮内におけるように、完成され、この霊魂が身を包むそのか弱い身体は自然的なものとその自然的なものにおける善であり、それは、霊魂の目的に順応して従順に活動するようなものとなるのであり、その中に在る諸真理は身体の中の繊維のようなものである、なぜなら真理は善から形作られるからである(3470番)。ここから人間の改良の映像は子宮の中で人間が形作られる経過の中に示されていることが明らかであり、そしてもしあなたたちが信じられるなら、人間を形作り、それから主から発している天的な善と霊的な真理との各々を継続的に受け入れる力を与え、しかもそれが性質と量においては正確に人間が獣として世の目的を注視しないで、人間として天界の目的を注視するに順応していることもまたその主から発している天的な善と霊的な真理なのである。

 

 

 

天界の秘義3570[5]

 

 善の方面の合理的なものが[合理的なものの善が]自然的なものを通してそれ自らに先ず善を連結させ、後には真理を連結させることもまた―そのことがヤコブがイサクに美味しいものとパンとを持ってきて、かれが食べることと、かれにぶどう酒を持ってきて、かれが飲むことにより意味されているが―身体がその霊魂のために果す務めにより説明することができよう。身体に食物に対する欲望を持たせ、また食物の味をたのしませるものは霊魂であり、食物は食欲の歓喜と味の歓喜とにより、かくて外なる善により導入されるが、しかし導入された食物の凡てが生命に入るわけではない、なぜなら或るものは消化のための、或るものは調整するための、或るものは開くための、或るものは器官へ導入するための溶液として役立っているが、しかし精選された良い食物は血液へ導入されて、血液となり、血液から霊魂は役に立つものを霊魂自身に連結させているのである。

 

 

 

天界の秘義3570[6]

 

 合理的なものと自然的なものの場合も同じである、すなわち食欲と味覚とに真理を知ろうとする願望と情愛とが相応し、知識は食物に相応しており、それらは相応しているため、それらのものの実情も類似している、すなわち(合理的なものの善であるところの)霊魂は、記憶知と教義とにぞくしている事柄を渇望させ、それらのものに感動させ、それらのものを渇望の歓喜と情愛の善とを通して導入するのである。しかしそれが導入する事柄の凡てが生命の善となるようなものではない、なぜなら或るものは一種の消化と調整のための手段として、或るものは開いて、導入するための手段として役立っているが、しかし生命のものであるいくたの善を霊魂はそれ自らに適用させ、かくしてそれらのものをそれ自らに連結させ、それらのものからそれ自らのために真理を形作るのである。このことからいかようにして合理的なものが自然的なものを処理して、自然的なものが霊魂としての合理的なものに仕え、またはそれと同一のことであるが、霊魂である目的に仕えて、合理的なものを完成させ、合理的なものが主の王国において何らかの用を果すかが明白である。

 

 

 

スウェーデンボルグ/新エルサレムの教義186

 

 再生しつつある人間には二つの状態があり、第一の状態は、彼が真理より善へ導かれる時であり、第二の状態は彼が善により行動し、善から真理を見る時である。(7992,7993、・・・・)

ここから人間は再生しつつあるときは真理から善を目指しているが、しかし再生したときは、善から真理を顧慮することが生まれている(6247)。

それで人間の状態が転倒するため、いわばひっくり返るということが起きる(6507)。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義6717

 

しかし、かれが再生すると、そのとき善はそれ自身を示すのであり、とくにかれがかれ自身で真理であると承認する真理に従って生きることを愛することにより示すのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義5326

 

再生していない人間における自然的なものは一切のもの(中略)

しかし、再生しつつある人間にあっては霊的なものが一切のもの

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2./P163

 

プラウティーナ、霊魂は獣ではない。胎児がそうです。霊魂が与えられるというのは、胎児も完成しているからです。霊魂は神に似ているもので、永遠に霊的です。霊魂は創造された時から不滅です。・・・・・

 

霊魂は完成に至るまでに三つの段階を通ると言ってかまいません。

 第一の段階は創造、第二は再生、第三は完成です。創造はすべての人間に共通であり、再生は己の意思によって、己の善業を神の御業に合わせ、霊魂をより完成させる義人たちについて言えます。完成は、完全を達成した聖人について言えます。この人たちは、人間の最初の段階を、神のもとに休めるにふさわしいものに至ったのです。

 

 

 

天界の秘義7779[]

 

こうしたものが、またそれに似たものが誤謬化された信仰の諸真理であることは極めて明白である、なぜなら人間を霊的なものにするものは信仰の生活であって信仰ではないことを―それが生命の中に植え付けられていない限り、そうした信仰ではないことを―正当に考えて、知らない者があろうか。人間の生命は彼の愛であり、彼はその欲するものを欲し、意図し、またその欲し、意図するものを行うのである。これは人間の存在ではあるが、彼が知りもし、考えもするが、欲しはしないものはその存在ではない。この人間の存在は調停と救いとについて考えることによっては他の存在に変化することは出来ないで、新たに再生することにより変化することが出来るのであり、それも彼の生涯の大部分にわたって行われるのである。なぜなら彼は新たにみごもり、生まれ、成長しなくてはならないのであり、そのことは考えたり、話したりすることによっては行われないで、欲し、行動することにより行われるからである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P34

‘90・12・18

 

(私の神のうちなる生き方が、新しい段階に来たような感じがします。ちょうど上の学年に進み、より高度の勉強を求められている学生のように・・・)

 

 

 

その時彼は改良され、または再生するのであって、その前ではない

 

天界の秘義654

 

このことは現今諸教会に知られていることに、即ち、信仰は聞くことによって生まれるということと一致している。しかし信仰は信仰に属した幾多の事柄を、または信じなくてはならない幾多の事柄を知ることでは決してない。それは単なる記憶に過ぎないが、信仰は承認である。しかしながら信仰の第一義的なものが人間の中に存在していない限り、何人のもとにも承認は存在していないのであって、信仰の第一義的なものとは仁慈であり、即ち、隣人に対する愛と慈悲である。仁慈が存在しているとき、その時承認または信仰も存在している。そのように把握していない者は地が天から離れているようにも遥かに信仰の知識からは離れているのである。信仰の善である仁慈が現存している時、信仰の真理である承認も現存しているのである。それゆえ人間が知識、理性、理解の幾多の事柄に応じて再生されつつある時は、それは土地が―即ち彼の心が―仁慈を受ける備えをなすためであって、後には仁慈から、または仁慈の生命から、彼は考え、行動するのである。その時彼は改良され、または再生するのであって、その前ではない。

 

 

 

天界の秘義3468[2]

 

 それで真理の善の中に、または教義的な事柄に従った生命の中にいる者たちは、その者たちの合理的なものである内部の方面では再生しているが、しかしその者たちの自然的なものである外部の方面では未だ再生していないのである、なぜなら人間は自然的なものの方面で再生する以前に、合理的なものの方面で再生するからである(3286、3288番)、それは自然的なものは全く世の中に存在しており、そして自然的なものの中に、人間の思考と意志とがそれを面として基礎付けられているためである。これが人間が再生の間に彼の合理的なまたは内なる人と彼の自然的なまたは外なる人との間に争闘を認める理由であり、また彼の外なる人はその内なる人よりも遥か後に再生し、また同じく彼の内なる人よりも更に大きな困難を伴って再生する理由となっている。なぜなら世に更に近づいており、身体に更にに近づいているものは内なる人に服従するように容易に抑制されることは出来ないのであって、それはただ非常に長い時間の後で、またその人間がその中へ導き入れられる多くの新しい状態によってのみ―その状態は自己を承認し、主を承認する状態であり、即ち、自分自身の惨めさと主の慈悲とを承認する状態であり、かくて試練の争闘から生まれてくる(自己)卑下の状態であるが、その状態によってのみ行われるのである。それがそうであるため、次にここでエソウと二人の妻について言われていることが付け加えられており、それによりこのような事柄がその内意に意味されているのである。

 

 

・内的な意志は悔改めにより清められる

 

仁慈の教義21

 

人間は二重の意志を、内的なものと外的なものとを持っている。内的な意志は悔改めにより清められ、かくて外的なものは内的なものから善を行うが、しかし外的な善は欲念の悪を、または悪の根元を遠ざけはしない。

 

 

 

 

3.知り、理解し、欲し、行う

 

 

黙示録講解242イ(4)

 

さらに人間の生命のサークルは知ること、理解すること、欲すること、行うことである、なぜなら人間の霊的生命は知ることで始まり、次に理解へ移行し、次に意志することへ、最後には行うことへ移行することである。このことから、知識は記憶の中に在る限り、それは単に生命の入口に在るに過ぎないのであり、それが行為の中に存在しない中は人間の中には充分に存在しないのであり、それが充分に行為となって存在するに応じて益々充分に理解と意志との中に存在するのである。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)104

 

十戒の戒めによりいかようにして連結が遂行されるか、について今少しく述べよう。人間が主に自分自身を連結するのではなく、主のみが人間を御自身に連結されるのであり、そのことを主は人間がこれらの戒めを知り、理解し、欲し、行うことにより行われるのであり、人間がそれらを行う時、連結が生まれるが、しかしもし人間がそれらを行わないなら、彼はそれらを欲しなくなり、それらを欲しなくなる時、それらを理解し、知ることもまたなくなるのである。なぜなら人間が為すことが出来るのに為さないなら欲することに何の意義があろうか、それは理性の作り事ではないか。このことから人間が十戒の戒めを行うとき連結が遂行されることが生まれてくるのである。(黙示録講解1027番)。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P58

 

新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである。なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々としたことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

天界の秘義3876

 

「私は彼に三人の息子を生んだからである」。これは継続しているものを意味していることは前に言われたことから明白である(3871番)。『三人の息子』によりここに意味されている継続的な状態は仁慈が今や到来するということである、なぜなら人間が再生しつつある間では、即ち、教会にされつつある間では、最初の事柄はその者が信仰の真理とは何であるかを知り、理解することでなくてはならず、第二の事柄はそれを意志し[欲し]、行うことでなくてはならず、第三の事柄はそれに感動することでなくてはならないからである。そして人間が真理に感動する時、即ち、真理に従って行動することの中に歓喜と祝福とを認めると、その時は彼は仁慈または相互愛の中にいるのである。こうした継続がここに『私は彼に三人の息子を生んだ』により意味されているものである。

 

 

 

天界の秘義4538

 

 主が人間を新しくされる時は、主は先ず彼に信仰の諸真理を教えられるのである。なぜなら信仰の諸真理が無いなら人間は主とは何であるかを、天界とは何であるかを、地獄とは何であるかを知らないし、(中略)彼がこれらの事柄を学んでいない中は彼は善の何であるかを知ることは出来ないのである。なぜならその善によっては社会的な善と道徳的な善が意味されてはいないからである。(中略)善によっては霊的な善が意味されていて、その善は聖言では仁慈と呼ばれており、この善は全般的に言って、何ら利己的な理由からでなくて、情愛の歓喜から他の者に善を欲し、善を為すことである。この善は霊的な善であって、この善には何人も信仰の諸真理によらなくては達することは出来ないのであり、その真理は主により聖言と聖言を宣べ伝えることを手段として教えられるのである。人間は信仰の諸真理を教えられた後で徐々に主に導かれて真理を欲し、また欲することからそれを行うようになるのである。この真理は真理の善と呼ばれている。なぜなら真理の善は意志と行為における真理であるからであり、それは教義のものであった真理がそのとき生命のものとなるため真理の善と呼ばれるのである。遂にその人間が善を欲し、それを欲することからそれを行うことに歓喜を覚える時、それはもはや真理の善とは呼ばれないで、善と呼ばれるのである。なぜなら彼はそのとき再生していて、もはや真理から善を欲して善を行うのではなく、善から真理を行うからであり、そして彼がそのとき行う真理もいわば善である。なぜならそれは善であるその起源からその本質を得ているからである。

 

 

 

 

4.人間は自然的なものとして生まれ、教育により道徳的なものとされ、後に、主から再生することにより霊的なものとなる

 

神学論文集P72

 

質問「なぜ私は哲学者であることから選ばれたのですか。」

 

答え。このことの原因は以下のことであったのです。即ち、現今啓示されつつある霊的な事柄は自然的に、また合理的に教えられ、理解されることが出来るのであります、なぜなら霊的な真理は自然的な真理と相応しているものを持っているからですが、そのことは霊的な真理は自然的な真理の中に終結しており、自然的な真理の上に基礎づけられている為であります。人間の凡ゆる物に、同じく地の凡ゆるものに、凡ゆる霊的なものが相応していることは「天界と地獄」(87−102及び103−115番)に見ることが出来ましょう。そうした理由のため、私は主により先ず幾多の自然科学へ導き入れられ、かくて準備されたのであり、実に、1710年から1744年に至るまで準備されたのであり、1744年に至って天界が私に開かれたのです。人間はことごとくまた自然的なものにより霊的なものへ導かれます。なぜなら人間は自然的なものとして生まれ、教育により道徳的なものとされ、後に、主から再生することにより霊的なものとなるからです。