口先のみの信仰
霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P30
十戒に禁じられている悪から遠ざからない中に、特に、用における歓喜からではなくて、支配することにおける歓喜から支配することを求める愛から、また所有における歓喜から世の財産を得ようとする愛から遠ざからない中に、自分は、神がおられることを承認もし、信じもしていると考えている者は誤っているのである。人間に可能な限り十分に、聖言から、説教から、書物から、また理性の光から、神が存在されていることを確認させ、かくてその人間は信じていると説きつけるにしても、それでもその人間は、自己愛と世を求める愛から迸り出て来る幾多の悪が遠ざけられていない限り、信じはしないのである。その理由は、悪とその歓喜は道を遮断し、天界から発している善とその歓喜とを閉め出し、撥ねつけてしまい、それらが確立されるのを妨害してしまうということである。そして天界が確立されるまでは、単に唇の信仰〔口先のみの信仰〕が在るに過ぎないのであり―それはそれ自身では信仰ではない―真の信仰である心情の信仰は存在しないのである。唇の信仰は外なるものにおける信仰であり、心情(ハート)の信仰は内なるものにおける信仰であり、そして内なるものの中に凡ゆる種類の悪が群がっているなら、その外なるものが取り去られる時―それは凡ゆる人間のもとで死後取り去られるのであるが―人間はその内なるものから神がおられるという信仰さえも斥けられてしまうのである(黙示録講解952番)。
霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P33
また彼らの思いの中にある三一性から神は一人であられることを認めもしないのであり、彼らはただ唇でのみ神を一人と呼ぶに過ぎないのである。(黙示録講解956)
霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P105
これらのことを人間は、他の板石の中に、即ち、最期の六つの戒めの中に禁じられている幾多の悪を罪として避けない限り、いかほど自分は信じていると考えるにしても、信じはしないのである。(黙示録講解1027番)。