永遠

 

時間無限

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P184

 

真の時、つまり実在に関わる時は永遠である。われわれの知っている時間は、この「真の時」の一時的影にすぎない。神にとっては過去も未来もなく、すべては現在である。全知全能の神の御前では、過去も未来も一つである。だが、われわれには現在は存在しない。現在とは、未来が過去へと移り過ぎることにすぎないからだ。一瞬一瞬が、それこそ想像を絶する勢いで未来から過去へと流れ去ってゆく。過去も未来もとらえることができないわけだから、われわれにとっては存在しないに等しい。そこで、時はまったくもって実在ではないということになる。眠りから醒めるとき、眠っている間にどれだけ時間が経ったかなど、到底いえるものではない。起きているときでさえ、時はまことに観念的で、悲しみ、苦しみの一日は一年に思え、喜びの一年は一日に思える。したがって、時は実在しないのである。どんなときにも変わらぬものが実在であり、われわれは永遠の実在のために創造されたので、時への感覚をもってはいないのである。

 

 

 

天界の秘義726

 

 存在もまた存在しなくなる物については述べられることができないのであり、ただ決して存在しなくなりはしない物にのみ述べられるのである。かくて生命と存在は主またはエホバに属した事柄の中にのみ存在しているが、それは永遠に存在することと生きていることはすべて主のみから発しているためである。永遠の生命により永遠の幸福が意味されている、このことについては前に言われ、示されたことを参照されたい(290番)。

 

 

 

天界の秘義729

 

 主にあっては、従って天使的天界にあっては、物事が現在そうであるか、または将来そうであるかは何れも同じことである、すなわち来ることになっているものは現在あるのであり、または行われるはずのものは行われるのである。

 

 

 

天界の秘義3404[]

 

神的なものは存在の方面では無限であり、顕示[示顕]の方面では永遠であり、有限なものは無限なものを把握することはできないし、また実に永遠のものをも把握することはできないことは知られている、なぜなら永遠のものは顕示の方面で無限であるからであり、そして、神的なものそれ自体は無限であり、永遠であるため、神的なものから発している凡ゆる物もまた無限であり、そして無限であるため、到底天使たちによっても把握されることはできない、なぜなら天使たちは有限であるからである。そうした理由から無限であり、永遠であるものは天使たちの前には有限である外観の中に示されているが、しかしそれでも人間の把握の領域を極めてはるかに超絶しているような外観の中に示されているのである。例えば、人間は時間によらなくては到底永遠なるものを考えることはできないのである、そして実情はこうしたものであるため、かれは永遠から存在するものを到底把握することはできず、かくて神的なものは時間の前ではまたは世が創造される以前にはいかようなものであったかを到底把握することはできないのである。それで時間から発している観念の何らかのものがかれの思考の中に存在している限り、もしかれがその主題について考えるなら、かれは必然的に過誤に陥らなくてはならず、そこからかれは救い出されることはできないのである。しかし時間の観念の中にはいなくて状態の観念の中にいる天使たちにはこのことを極めて明白に認めることが許されているのである、なぜならかれらのもとでは永遠のものは時間の永遠のものではなく、時間の観念のない状態の永遠のものであるからである。

 

 

 

天界の秘義4815[4]

 

 内意ではその種族がいかようにして誤謬に陥り、そこから悪に陥り、最後には全く偶像崇拝に陥ったかについてその種族のことが記されているのである。このことが実際その種族が他の種属から分離する以前に、またそのようなことが起るようになった以前に、その内意に記されているのであるが、しかし内意に在るものは神的なものであり、神的なもの[神]には未来の事柄は現在なのである。(申命記31・16−22、32・15−44にこの民族について予言されていることを参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義6983

 

「昨日からでさえ、一昨日からでさえ」。これは永遠から持たないことを、即ち、話す能力を持っていないことを意味していることは、『昨日と一昨日』の意義から明白であり、それは、永遠から、である。『昨日と一昨日』が、永遠から、を意味していることは、それが時間を意味し、実に過去の時間を意味しており、時間が主について、または神的なものについて話されている時は、それは時間を意味しないで、永遠を意味するためである。自然に特有なものではあるが、天界には存在しておらず、ましてや神的なものの中には存在していない二つのもの、即ち、空間〔領域〕と時間とが存在している。これらは天界の中には存在しないで、それに代って状態が存在することは、即ち、空間に代って存在の方面の状態が在り、時間に代って発出の方面の状態が在ることは前に見ることが出来(2625、3938番)、また天界の空間と時間とは状態であることも前に見ることが出来よう(1274,1382、2625、2788、2837、3254、3356、3387、3404、3827、4321、4814、4882、4901、4916、5605、6110番)。しかし諸天界の上方に存在される神的なものの中には、ましてや空間と時間は存在はしないで、状態さえも存在はしないで、空間に代って無限が在り、時間に代って永遠が存在し、この二つのものに世の時間と空間とが相応しており、また諸天界の存在と発出との方面の状態が相応しているのである。

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P33

 

 さっき私は、“母の霊魂の永遠の美”と言いましたね。私は御言葉ですから、言葉を間違わずに使えます。私は“不滅の”とは言わず、“永遠の”と言いました。私は目的なくそう言ったのではありません。不滅(不死)とは生まれた後に死なないものについて言います。したがって、義人の霊魂は天国で不滅であり、罪人の霊魂は地獄で不滅です。なぜなら霊魂は、一度創造されたなら最後、恩寵は失っても死ぬことはないからです。しかし、霊魂は生命を持っていますし、神がそれをお考えになった瞬間から存在し、[霊魂は神の思惟のなかに存在しています]。それをお創りになるのは神の思惟です。私の母の霊魂は永遠の昔から神によって考えられました。したがって、そこに神が喜びと慰めを得るためにあらゆる完全さを注がれたその霊魂は、その美しさにおいて[神の思惟のなかで]永遠なのです。

 あなたを予見していたゆえにあなたの預言者と言ってもいい私たちの祖先、ソロモンの書には書かれています。『神はその御業の初めに、私を造られた。創造に先立って、まさに太初から、悠久のいにしえから、私は堅固に据えられていた、始まりから、大地が存在する以前から・・・』[箴言8・22−31]。

 

 そうです、母さん、計り知れない方、崇高な方、純潔無垢の方、創造されずに存在する方である神はあなたを宿し、いとも甘美な荷物としてあなたを伴い、彼のうちで動き回るあなたを感じて歓喜し、彼に微笑みかけるあなたの微笑みで森羅万象をお創りになったのです! 世にあなたを与えるために苦しんで産んだあなた、童貞であるために至高の<純潔>なる方から生まれたいとも優美な霊魂“森羅万象の完成”、“楽園の光”、神はあなたをごらんになって原罪を赦すことがお出来になった神の助言者。なぜならあなた、あなたはお一人、ただ一人で、愛することを知らない全人類を一括するほど愛することを知っているからです。あなたのうちに神の赦しがある! あなたのうちに神の治癒薬があり、人間が神に負わせた傷の上で、あなたは永遠なる御者を愛撫します! あなたのうちに世の救いがあるのです、ああ、受肉された愛なる神の、また、容認された贖罪主の御母よ! おお! わが母の霊魂よ! 神の愛と溶け合った私は、わがうちにあなたを見ていました、おお、わが母の霊魂よ!・・・そして、あなたの輝き、あなたの祈り、自分があなたのうちに宿ったと考えることは、悲しみと残酷な体験―すなわち、完全さの極みである神にとって、堕落した世界がどのようなものかを体験すること―という運命を担った私を、常にたえまなく慰めてくれました。ありがとう、母さん! 私が[天から]やって来たとき、すでに私はあなたの慰撫で満たされていました、私はあなたお一人を、あなたの香り、あなたの歌、あなたの愛だけを感じつつ天から降って来たのです・・・喜び、わが喜びよ!

 

 

 

箴言8・22−31

 

主は、その道の初めにわたしを造られた。

いにしえの御業になお、先立って。

 永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。

わたしは生み出されていた

深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが

わたしは生み出されていた。

大地も野も、地上の最初の塵も

まだ造られていなかった。

 

わたしはそこにいた

主が天をその位置に備え

深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ

深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め

水が岸を越えないようにし

大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり

日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P179

 

 神にとって世紀の区別はありません。

 

 

 

神の愛と知恵156

 

宇宙とその凡ての物との創造は空間から空間へ、時間へと、引いては進歩的に連続的に行なわれたと言われることは出来ないが、永遠から無限から行なわれたと言うことが出来よう。時間に永遠のような物は存在しないゆえ、そこから行なわれたのではなく、時間に属さない永遠から行なわれたのである、なぜならこの永遠は神的なものと同一であるから。またさらに空間の無限というような物は存在しないため、そこから行なわれたのではなく、空間に属さない無限から行なわれたのであり、この無限もまた神的なものと同一である。こうした事柄は自然的な光の中に在る思考の観念を超越することを私は知っているが、しかしそれは霊的な光の中に在る思考の観念を超越してはいない、なぜならこの観念の中には空間と時間は全く存在しないから。それはまた自然的な光の中に在る観念を全く超越しているわけではない、なぜなら空間の無限はありえないと言われるとき、そのことは凡ての者により理性から肯定されるからである。永遠も同様である、なぜならこれは時間の無限であるから。もし諸君が『永遠に』と語るなら、それは時間から理解されることが出来るが、しかし『永遠から』は、時間が除かれない限り、理解されることは出来ない。