無限
永遠/
神の愛と知恵17
神は無限であることは良く知られている。なぜなら彼は無限な者と呼ばれ、彼は無限であるゆえ、無限な者と呼ばれているから。彼はエッセとエキジステレそのものであるということのみによってではなく、彼の中には無限の物が存在するため彼は無限である。
神の愛と知恵17
それゆえ人間は、その考えは自然的なものであるため、それをいかほど洗練させ、近接させるにしても、神の無限な物を認識することは出来ない。天使も、霊的な觀念にいるため、洗練と近接により人間の度よりも上昇することは出来るものの、なおその認識に達することは出来ないのである。
神の愛と知恵22
神人の中には無限な物は区別を持った一つのものであることも、また人間からそれを鏡として、見ることが出来よう。人間には、前述したように、多くの無数の物が存在しているが、しかも依然彼はその凡てを一つのものとして感じている。彼は、頭脳、心臓、肺臓、肝臓、脾臓、膵臓については、または眼、耳、舌、胃、生殖器その他の部分の中の無数の物については何事も知覚して知っておらず、また彼はこれらの物を何一つ知覚して知っていないために、彼は彼自身に対しては一人のものとして存在している。その理由は凡てこれらの物は一つも欠けることは出来ないような形を以て存在しているということである。何故ならそれは(前述の4−6に示されたように)神人から生命を受ける形であるから。凡ての物がこのような形を以て秩序づけられ、関連しているということから、それらのものは多数でもなく、無数でもなく、一つのものであるかのような感情が生まれ、その感情からそのような考えも生まれているのである。
神の愛と知恵156
宇宙とその凡ての物との創造は空間から空間へ、時間へと、引いては進歩的に連続的に行なわれたと言われることは出来ないが、永遠から無限から行なわれたと言うことが出来よう。時間に永遠のような物は存在しないゆえ、そこから行なわれたのではなく、時間に属さない永遠から行なわれたのである、なぜならこの永遠は神的なものと同一であるから。またさらに空間の無限というような物は存在しないため、そこから行なわれたのではなく、空間に属さない無限から行なわれたのであり、この無限もまた神的なものと同一である。こうした事柄は自然的な光の中に在る思考の観念を超越することを私は知っているが、しかしそれは霊的な光の中に在る思考の観念を超越してはいない、なぜならこの観念の中には空間と時間は全く存在しないから。それはまた自然的な光の中に在る観念を全く超越しているわけではない、なぜなら空間の無限はありえないと言われるとき、そのことは凡ての者により理性から肯定されるからである。永遠も同様である、なぜならこれは時間の無限であるから。もし諸君が『永遠に』と語るなら、それは時間から理解されることが出来るが、しかし『永遠から』は、時間が除かれない限り、理解されることは出来ない。
天界の秘義1382
人間は神的無限を空間の無限と混同しないわけにはいかない。そして彼らは空間の無限を無の無限としてしか把握することが出来ないため―事実それはそうしたものではあるが―神の無限を信じないのである。永遠の場合もまた同じであって、人間はそれを時間の永遠としてしか考えることが出来ないのである、なぜならそれは時間の内にいる者には時間により提示されるからである。神的無限についての真の観念[考え]を天使たちは以下の事実により教え込まれるのである、即ち、天使たちはたとえ宇宙の最端にいるにしても、空間または時間の介在も無しに、主の眼下にすぐさま現存するということである。また神的永遠についての真の観念を以下の事実により教え込まれるのである、即ち、数千年も彼らには時間としては現れていないで、恰も単に彼らが一瞬しか生きなかったかのようにしか彼らには思われないのであり、その二つの観念を彼らは彼らの現在の中に過去の事柄と未来の事柄とをともに持っているという事実により教え込まれているのである。かくて彼らは未来の事柄について不安を抱きはしないのであり、また死についても何ら考えないで、ただ生命のみを考えており、かくて彼らの現在の凡ての中に主の永遠と無限とが存在しているのである。