時間

 

時は速度を速める

 

 

1.真の時

2.時間を作り出すもの

3.老年

4.永遠

5.預言の時間の尺度は月の運行

6.人間はその歓喜と楽しさとの中にいるとき、かれは時間に気づかない

 

 

 

1.  真の時

 

 

天界の秘義726

 

 存在もまた存在しなくなる物については述べられることができないのであり、ただ決して存在しなくなりはしない物にのみ述べられるのである。かくて生命と存在は主またはエホバに属した事柄の中にのみ存在しているが、それは永遠に存在することと生きていることはすべて主のみから発しているためである。永遠の生命により永遠の幸福が意味されている、このことについては前に言われ、示されたことを参照されたい(290番)。

 

 

 

天界の秘義729

 

 主にあっては、従って天使的天界にあっては、物事が現在そうであるか、または将来そうであるかは何れも同じことである、すなわち来ることになっているものは現在あるのであり、または行われるはずのものは行われるのである。

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P33

 

 さっき私は、“母の霊魂の永遠の美”と言いましたね。私は御言葉ですから、言葉を間違わずに使えます。私は“不滅の”とは言わず、“永遠の”と言いました。私は目的なくそう言ったのではありません。不滅(不死)とは生まれた後に死なないものについて言います。したがって、義人の霊魂は天国で不滅であり、罪人の霊魂は地獄で不滅です。なぜなら霊魂は、一度創造されたなら最後、恩寵は失っても死ぬことはないからです。しかし、霊魂は生命を持っていますし、神がそれをお考えになった瞬間から存在し、[霊魂は神の思惟のなかに存在しています]。それをお創りになるのは神の思惟です。私の母の霊魂は永遠の昔から神によって考えられました。したがって、そこに神が喜びと慰めを得るためにあらゆる完全さを注がれたその霊魂は、その美しさにおいて[神の思惟のなかで]永遠なのです。

 あなたを予見していたゆえにあなたの預言者と言ってもいい私たちの祖先、ソロモンの書には書かれています。『神はその御業の初めに、私を造られた。創造に先立って、まさに太初から、悠久のいにしえから、私は堅固に据えられていた、始まりから、大地が存在する以前から・・・』[箴言8・22−31]。

 

 そうです、母さん、計り知れない方、崇高な方、純潔無垢の方、創造されずに存在する方である神はあなたを宿し、いとも甘美な荷物としてあなたを伴い、彼のうちで動き回るあなたを感じて歓喜し、彼に微笑みかけるあなたの微笑みで森羅万象をお創りになったのです!世にあなたを与えるために苦しんで産んだあなた、童貞であるために至高の<純潔>なる方から生まれたいとも優美な霊魂“森羅万象の完成”、“楽園の光”、神はあなたをごらんになって原罪を赦すことがお出来になった神の助言者。なぜならあなた、あなたはお一人、ただ一人で、愛することを知らない全人類を一括するほど愛することを知らない全人類を一括するほど愛することを知っているからです。あなたのうちに神の赦しがある!あなたのうちに神の治癒薬があり、人間が神に負わせた傷の上で、あなたは永遠なる御者を愛撫します!あなたのうちに世の救いがあるのです、ああ、受肉された愛なる神の、また、容認された贖罪主の御母よ!おお!わが母の霊魂よ!神の愛と溶け合った私は、わがうちにあなたを見ていました、おお、わが母の霊魂よ!・・・そして、あなたの輝き、あなたの祈り、自分があなたのうちに宿ったと考えることは、悲しみと残酷な体験―すなわち、完全さの極みである神にとって、堕落した世界がどのようなものかを体験すること―という運命を担った私を、常にたえまなく慰めてくれました。ありがとう、母さん!私が[天から]やって来たとき、すでに私はあなたの慰撫で満たされていました、私はあなたお一人を、あなたの香り、あなたの歌、あなたの愛だけを感じつつ天から降って来たのです・・・喜び、わが喜びよ!

 

 

箴言8・22−31

 

主は、その道の初めにわたしを造られた。

いにしえの御業になお、先立って。

 永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。

わたしは生み出されていた

深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが

わたしは生み出されていた。

大地も野も、地上の最初の塵も

まだ造られていなかった。

 

わたしはそこにいた

主が天をその位置に備え

深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ

深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め

水が岸を越えないようにし

大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり

日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。

 

 

 

天界の秘義747

 

 『二つづつ』は相応しているものを意味していることは、たれでもそれらが対になっていることから認めることができよう。それらは善と真理が、悪と誤謬が互に他に相応しているように、互に他に相応していない限り、対になることはできない。なぜなら理解は意志と結婚しているために、または理解のいくたのものが意志のいくたのものと結婚しているために、真理は善と、また悪は誤謬と結婚しているように、または結合しているように、凡ゆる物の中には結婚に、または結合に類似したものが在るからである。そして実に凡ゆる物はその結婚またはその結合をもっており、それがなくてはそれは到底存在することはできないのである。

 

 

 

 

2.  時間を作り出すもの

 

 

天界の秘義1376

 

続き、他生における位置と場所について、また距離と時間について

 

 

 

 

 

 

 

3.老年

 

 

天界の秘義4676

 

「老年」の意義は前の状態を脱ぎ棄てて、新しい状態を着けることであり、また生命が新しくなることである(3492,4620)。

なぜなら「老年」はその内意では老年を意味しないからである。それは内なる人はまたは人間の霊は老年とは何であるかを知らないで、身体または外なる人が老いるにつれて、内なるものは生命の新しさに入り、人間の霊は年令により、その身体の力が減退するにつれ、完全なものになるためである。このことは他生ではさらに真である。なぜならそこでは天界にいる者たちは絶えず主によりさらに完全な生命の中へ入れられており、ついにはかなり老年になって死んだ者たちでさえも、青春の開花期へ入れられるからである。このことから老年によりその内意では生命が意味されていることを認めることができよう。

 

 

 

 

4.永遠

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P179

 

 神にとって世紀の区別はありません。

 

 

 

 

5.預言の時間の尺度は月の運行

 

 

マリア・ワルトルタ10・5/天使館1巻P83

 

乙女マリアがファヌエルのアンナに:

 

義人たちの祈りによって、あの七十週は短縮されるでしょう。年数は変えられるかって? いいえ、預言は嘘をつきません。ただ、太陽の運行ではなく、月のそれが預言の時間の尺度なのです。

 

 

 

 

6.人間はその歓喜と楽しさとの中にいるとき、かれは時間に気づかない

 

 

天界の秘義3827

 

「それはかれが彼女に抱いた愛のために、かれの目には僅かな日にしかすぎなかった」。これは愛の状態を、すなわち、それは全く退屈なものではなかったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『かれの目に見えること』の意義はそのように思われることであり、『日』の意義は状態である(893、2788、3462、3785番を参照)。そこから『かれが彼女に抱いた愛のために僅かな日にしかすぎなかった』は愛の状態を意味するのである。人間が愛の状態の中に、または天的な情愛の状態の中にいるときはもしその情愛の中に焦慮[性急]が存在しさえしないなら、その者は天使的な状態の中におり、すなわち、恰も時間の中にはいないかのようにいるのである、なぜなら焦慮[性急]は形体的な情愛であり、人間はその中にいるに正比例して、時間の中にいるが、しかし人間がその中にいないに比例して、時間の中にはいないからである。そのことは情愛または愛にぞくしている凡ゆる歓喜と楽しさから一種の映像となって現れており、すなわち、人間はその歓喜と楽しさとの中にいるときは、かれは時間に何ら気づかないのである、なぜならかれはその時は内なる人の中にいるからである。純粋な愛の情愛により人間は身体的な世的な物から引き出されるのである、なぜならかれの心は天界へ挙げられ、かくて時間のいくたの物から引き出されるからである。時間が何か意味のあるもののように見える理由は、わたしたちが情愛または愛に属していない事柄を、かくて退屈な事柄を思案するということであう。このことからわたしたちは七年がかれの目にはかれが彼女に抱いた愛のために僅かなら日にしかすぎなかったことにより意味されていることを認めることができるのである。

 

 

 

 

サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P184

 

真(まこと)の時、つまり実在に関わる時は永遠である。われわれの知っている時間は、この「真の時」の一時的影にすぎない。神にとっては過去も未来もなく、すべては現在である。全知全能の神の御前では、過去も未来も一つである。だが、われわれには現在は存在しない。現在とは、未来が過去へと移り過ぎることにすぎないからだ。一瞬一瞬が、それこそ想像を絶する勢いで未来から過去へと流れ去ってゆく。過去も未来もとらえることができないわけだから、われわれにとっては存在しないに等しい。そこで、時はまったくもって実在ではないということになる。

 眠りから醒めるとき、眠っている間にどれだけ時間が経ったかなど、到底いえるものではない。起きているときでさえ、時はまことに観念的で、悲しみ、苦しみの一日は一年に思え、喜びの一年は一日に思える。したがって、時は実在しないのである。どんなときにも変わらぬものが実在であり、われわれは永遠の実在のために創造されたので、時への感覚をもってはいないのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P184

 

 空間にある出来事、変化あるいは物との関連で、年、月、日、時、分、秒がいわゆる時間を作り出す。空間にある物を考えれば、物の変化が時を作り出す。変化の起こっているときが現在、変化の起こってしまったときが過去、変化のまだ起こらずにいるときが未来になる。物の変化に応じて、時間も未来か過去かに変化する。これに対して、実在は自ら変化することもなく、それとつながる永遠性も変わることがない。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P185

 

時は変化し、忘却の彼方に消えてゆく。しかし、われわれが時の中で行なったことは、決して忘れられず、永遠へと移行する。

「この世とこの世の欲とは滅び去る。しかし、神の御心を行なう者は永遠にとどまる」(ヨハネ1・2・17)